2004年11月08日

産経記事・米大学の偏向

music Just the Way You Are / Billy Joel

 既に昨日の産経朝刊なのだが(昨日時間がなかったので ^^;)、「緯度経度」欄におもしろい記事があったので、紹介したい。

 ワシントン駐在の古森氏によるもので、タイトルは「ハーバード大学の政治偏向」というもの。




 ハーバード大のワイズ教授は、イディッシュ語と英語の比較文学を専門とする女性学者だとのことであるが、今回の大統領選で、ブッシュ・チェイニー再選委員会に寄付をしたところ、間もなく、ハーバード大の学生新聞記者から連絡を受け、詰問されたという。「一体、なぜそんなことをするのですか」と。

 ハーバード大の教職員で保守派というのはきわめて珍しい存在であり、その学生記者が連絡してきた時点では、同大学の、民主党への寄付が合計15万ドル、共和党への寄付が合計8千ドル、比率にして95対5というものだったそうだ。

 筆者によると、ハーバードに限らず、米国の主要大学の教授陣が政治的には民主党リベラル傾斜であることは広く知られてきたことであったが、今回の件で、ワイズ教授が寄付金の調査をしてみたところ、主要大学の民主党支持はコーネル大で93%、ダートマス大で97%、エール大で93%、ブラウン大で89%などといったことになるとのこと。まさに聞きしに勝るリベラル偏向、と筆者は驚く。

 ワイズ教授はこの現象を「ジョン・ケリー大学」という皮肉っぽいタイトルの論文にまとめ、10月下旬のウォールストリート・ジャーナルに寄稿し、文中、学園のリベラル偏向を「多様性を宣伝する大学社会のスキャンダラスなまでの画一性」と批判し、また、「私自身は同僚や上司から冷たく見られるだけで、思想の自由を享受しているが、私のような終身在職権のない助教授や講師、院生は、保守派であることがわかると実害を被ることが多い」と述べ、保守主義信奉を隠さねばハーバードでの終身在職権を得られぬことに耐えられず退職した女性助教授や、教育においてリベラル風に教えることに反発して契約を切られた若手講師の例などをあげているそうだ。

 筆者は選挙後にワイズ教授に電話取材を行った際の教授のコメントをいくつか紹介している。
 「この大学には行政大学院などという現実の政治を教える部門があるのですから、教える側も政治の現実を客観的に反映することが大切です。なのに、リベラル偏向、反保守が大学全体のイデオロギー的圧力や知的威迫となって、異論を許さない空気を生んでいるのです」
 「ブッシュ大統領の魅力の一つは、この種の知的威迫にはなんの影響も受けない点です。」
 「ハーバード大のこうした政治的偏向の実態は日本の人たちにもぜひ知ってもらいたいです。現実の米国社会ではリベラル派より保守派がずっと多いのですから」


 まあ…思想信条は個人の自由であるから、大学の教職員の思想を保守・リベラル半々にしよう、などというわけにはいかず、偏りとは言え、自然にそうなったものならば仕方あるまいと思われるが、もし教授の指摘するように、何らかの圧力が働いて、保守的思想を排斥するような雰囲気があるのだとすれば、それは問題となるだろう。

 もとより知的作業を業とするような人物(ワイズ教授)の観察と感想であるから、おそらくある種のそうした排斥ムードはあるのだろう。

 同時に僕が思うには、仮にそうした反保守ムードが一切皆無であったとしても、大学というところ、学者という人々は、基本的にリベラル派もしくは反保守になりやすいものだとは思う。
 心理的由来については考察しきれていないが、実際、こうしたことは米国に限らず、日本においても、また大学教職員に限らず、ちょっと知識人を気取った学生であっても、リベラルに惹かれる傾向はいたって普通のことだろう。
 保守派の頭でっかちというものは、あまり聞かない ^^;)

 ワイズ教授が「現実の米国社会ではリベラル派より保守派がずっと多いのです」と言うとおり、これは日本においても同様だろう。大学において(90%超という)米国ほどの偏向傾向には至らないとしても、一般的に学者や知識人にはそうした傾向があり、庶民レベルになると、保守傾向とのバランスが取れてくる。

 民主党が都市部で強く、自民党が農村で強いということも、こうしたことと多少の関係があるのだろうと僕は思っている。自民党の農村部での強さについては、僕自身かつて従来、それは公共事業等のバラまき的な実利面によるところが大きいと、ステレオタイプ的に受け取っていたが、近頃は(むろんそれもあろうけど)それだけでは説明がつきにくいと気づきはじめた。
 むしろ、それは「庶民感覚」というものによるのではないか、と。マスコミや知識人の言動は、彼らが積極的発信者であるから大きな声となるが、実際には、いちいち声を大にしない、サイレント・マジョリティともいうものがある。
 下手に中途半端に知識人を気取っている人よりは、庶民感覚というものは余程健全な判断力を示すことも多い。健全な常識観とでも言おうか。

 リベラル風も若い頃に誰しも一度は通るべき道と言える可能性もあるが(批判眼を養える)、もしそれをその後も続けるのなら、さまざまな知識や理論を弄んで現実から遊離してしまうのではなく、柔軟な思考と確かな知識、論理力によって真に健全なリベラル系論者となることを、若い人には期待したい。
 そうでなければ、まだ保守派になるほうが社会に害は少ない。

 保守派同様、反保守派にも真に自らの思考作業を通して反保守にたどりついた人というのはあまり多くは見かけない。このとき、保守派のこうした人は、得てして知識理論の絶対量に欠ける場合が多いが、反保守系のこうした人は、下手に知識理論の量は持っていることが多いため、かえって始末におえないことが多い。(個人的感覚で申し訳ない。論理的でない部分です ^^;)

 さらに、本当に理想を言うならば、保守だとか反保守だとかリベラルだとか、そういう区別をせずに思索活動をしてもらいたいものだと、僕は思う。これは一般に難しいことのようだが。
 特に、まだたいした経験も見識もない若いうちに、自分をそうした各派に区分するのは、危険だと思う。

 僕自身は、自分を保守派だとかリベラルだとか、体制派だとか反体制だとか、右派か左派かなどとは、考えたことはない。それは、常に「判断するのは自分だ」という傲慢さ ^^;)で、ものごとを考えてきたからだ。自分が今この国の為政者であったらどうするか、という以外の基準を持たないので、その都度その都度、問題、テーマごとに考えるのみで、それがいわゆる保守派の意見に合うこともあれば、革新系の意見に合うこともある。要は、日本のために何が良いかということだから。
 思索の始めに自分が何派であるということはなくとも、結果として、○○派的だと言われることはある。僕の場合は、まあ保守派的ということになる場合が多い。別に不愉快ではないが ^^;)

 しかし、各論に対処するばかりではなく、総論においては一定の方向性を持つべきなのも事実、こうした総論、つまりどのような国家と社会を目指すかということについても、できれば一から自分で考えるべきとは思う。
 そうして構築したものが、あくまで結果として○○派的ということはあるにしても、はなからある一派に強く影響されたり、出来合いのものを善しとしてその枠組みから出ずに考えるようでは(気づかずこうなっていることも多い)、拙いと思う。

 いずれにせよ、何派だなどとラベリングされれば、それが何派であろうと「失敬なっ」と怒るくらいの気概が欲しいものと、僕なんかは思う。
 少なくとも僕は、例えば初めてネオコンなどと称され始めた人たちのように、自分の思想をもって新しい呼称が用意されるくらいでありたいものだと思っている。^^)v
 (もちろん、ネオコンは保守の一派ではあるが)
 あるいは「群盲象を撫でる」の「象」のようでありたいものだ。(この俚諺、表現上賛否もあるが、僕はこれが不適切な表現とは思わないので、悪しからず)
 あるいは幕末期の坂本竜馬でも。


 「国会討論」と呼ばれはするが、それが「討論」なんてものだと思っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、各派とも既に立場は決まっていて、それが国会の場でくつがえることなどないからだ。つまり、相手の意見を聞いた結果、納得して自分の考えが変わるなどということなどない、ということだ。相手の意見陳述に対しては、どう反論するかという以外のことは考えない。さらに言うなら、議決の行方も、既に国会の場以前でわかっている。
 ところが、こうしたことは、国会に限らず、ごく日常の巷でも普通に観察される。net上ならblogや掲示板での論議においても、あるいは、職場の会議においても、知らず知らずも含め、そうした態度の人は多い。

 人文社会学的なことについて「真理」という言葉は危険でもあるが、自然科学において「真理」を知りたいと熱望する科学者のように、「真理」(言い換えれば、少しでもよりよい方策)を考えつきたいという情熱をもつことができれば、それが自分の考えであろうとなかろうと、自分の立場に拘ったり意見に執着したりはしないだろう。

 仮に自ら○○派をもって任じる人であっても、かくあって欲しいものと思う。



posted by Shu UETA at 22:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 アメリカの大学が民主党寄りだとは知っていましたが、数字を見ると改めて驚かされますね。そういえば、日本に来るアメリカからの留学生も民主党寄りの方が多いような気がします。アメリカの知的風土では、そもそも「外国から学ぶべきものがある」と考える人は、リベラルにならざるを得ないのかもしれません。もちろん、リベラルなアメリカ人が甘い対日政策を取ってくれるとは限りませんが(むしろ逆の場合が多いですね)。
 僕のスタンスは、Shuさんからご覧になると、「反体制」と映るのではないかと心配しています^_^;)おっしゃるとおり、大学というところはリベラルに流れやすい傾向はあります。その大きな理由は、学問という営みそのものが、先行研究の批判的検証と分かちがたく結びついているからだと、僕は思っています。格好よく言えば(^^)もっとも、中には、何でも批判すればいいという安易な姿勢を取って、柔軟さを欠いた独善的な意見を主張する人もいるかもしれませんが(僕か!?)
 ところで、このエントリで最もインパクトを受けたのは、「自分が今この国の為政者であったらどうするか、という以外の基準を持たない」という一言です。気宇壮大。志の高さに感じ入りました。
Posted by priestk at 2004年11月16日 23:50
> priestkさん

> 僕のスタンスは、…「反体制」と映るのではないかと

 あはは、まず立場ありきでなくとも、結果として何らかの傾向が出るということは、当然ありますよね。同じく僕で言うなら、「体制派」とはいかないまでも「保守派」ということになるのではないでしょうか、ひとの見るところ。^^)

 しかし僕の感覚では、priestkさんは冷静で論理的なひとだと思いますが。そういうひとで、どちらかというと「反体制」かもしれないというひとは、僕が最も耳を傾けるべき人たちのお一人なんだろうとも思っています。^^)
 今後とも、ひとつよろしくお願いします。

 ちなみに、気宇といえば、priestkさんこそ、大きな気宇を持っておられるようにも僕は拝察していますが(直感ですけど)。たしか、「あれくらいの本を書く」とかいった言葉を拝見した記憶がありまして、そもそもはそこに惹かれて、blogを拝見するようになったのです、僕は。どのような分野、どのような立場であれ、「気概」というものが好きなので。^^)
Posted by Shu at 2004年11月17日 01:14
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