素晴らしい記事があったので 紹介。
グーグルに淘汰されない知的生産術
(My Life Between Silicon Valley and Japan/梅田望夫さん)
1 旧来の情報整理は、ネットにまかせればいい
2 個人でやるのは、それより粒度の細かい整理の部分
3 それは一例すれば本の抜書きのような作業
4 これ自体が、知的生産の端緒ともなる
5 これからの知的活動は、所属組織ではなく時間の勝負
時間のある人が勝者に、時間のない人が敗者になる
6 照準をどこに合わせるべきかという俯瞰的マクロ的技術
情報抽出の精細度におけるミクロ的技術
これが個人で培うべき技術
これらの中間部分はGoogleがやっているし、また任せるべきでもある
上述の記事は、リンクをたどってお読みいただくとして、
ごく簡単に僕の思うところを。
■情報整理
それがメールであれ、個人のメモベース的な意味においてのblogであれ、あるいは画像保管(共有)サイトであれ、
サービスの開始あるいは利用の当初においては、それらネット上サービスの信頼度に対する不安から、個人ローカルとネットサービスの両方に足をかけながら、自分の持つ情報、文書等を二重に管理し、扱っていた人は多いだろう。
そしてようやく近頃、もはやそうした不安はかなりの程度払拭され、ローカルに完全なバックアップを持つことなく、ネット上のサービスに一元的に管理させている人も増えてきていると思う。
そして上記記事に梅田さんの言うとおり、
情報の蓄積程度においても、そこを検索する技術においても、ネットは十分に個人ローカル不要の(というよりそれが時間・労力の無駄ともなる)情報ベースとなった。
そこで、「GoogleにできることはGoogleにやらせればいい」と梅田さんは言う。
記事後段にもあるとおり、とりわけ時間の運用に意を砕く梅田さんであるから、Googleができることを人が自分でやるのは、時間コストの無駄以外の何ものでもないということに。
実に同感。
(ただし、むろんのこと、組織・職務における情報の取り扱いにおいては、その職務内容の性質に応じて、この限りではない。)
つまり、情報整理というステージで自分が行うべきことは、Googleがカバーしていない部分ということになり、
また、そこに意を用いることで、それが情報において自分の強みをつくることにもなる。
Googleがカバーする単位は、サイトでありページである、
であるから、自分で行う情報整理とは、Googleよりもキメの細かい、「粒度の高い」整理であるという。僕の好む僕の表現でいえば、より解像度の高い、ということになるだろう。
その一例として、本の抜書きについて梅田さんが述べていたことは、実は僕はうれしかった。
というのも、
長年の読者の方はご存知だろうが、それはまさに僕の十八番、でいておよそあまり人から理解されにくいことだったから。 ^^;)
梅田さん同様、僕もGoogleはおろかインターネットの出現以前からそうした作業は続けていたが、
この種の作業はとかく無駄に見えて、自分もやってみようなどという人にはなかなか出逢ったことがない。
なにしろ当初まず本当に面倒くさいだろうし(慣れてしまえばそうでもないんだけど)。
しかしこれは、情報の再加工の段においては逆に素晴らしく効率をあげることにもなる。
僕の場合は、
自分が書くときの引用元データベースとして、
平素思索する際の触媒とする眺めるデータベースとして、
という二点が目的。
何百冊か分のデータが、僕のパソコンにもある。
パソコンならでは検索も容易だし、しばらく手間をかければ、凄い個人用のデータベースができる。まさに個人に特化しておそろしく解像度の高いデータベース。
ただしこの点、梅田さんは個人閲覧用のblogを利用しているということ。
僕は(まだ?)パソコンにローカルに保管している。
僕がローカルに保管している理由は、
どうもまだblog等における検索性がさほど良いように思えないということ(つまりは極めて目が粗い、解像度が低いということ)。
それから、自宅以外で急に必要になるような、アクセス性における要求が現在のところ僕にはないということ。
ただし、徐々にネットへの移行は考えている。その場合、僕はGoogleノートブックのようなものを使うのではないか。
もうひとつの梅田さんとの相違は、
僕は本に折り目をつけたり、書き込んだりしないということ。
一般的には、本は書き込んだりして読み倒せ、使い倒せということも言われ、それは理も多く妥当な考えだと思うし、昔は僕もそうしてた時期がある。
なのに僕が今日そうしていないのは、次に読みなおす際に先入観にとらわれたくないからだ。
本は読むたびに、時期が移るにつれ、思うこと、食いつくところも異なってくるものだが、
過去の自分の思索の跡に煩わされるのが僕はキライで、
読み返すたびに、素から眺めたい。
人間というものは便利な(この場合それが故に不便ともなる)もので、
例えば傍線が引いてあるだけで、どうしてもそこに目がいく。これは速読的に読んだり流し読みをする時にとりわけ顕著で、意識しまいしまいと思っても、傍線部ばかりに目がいってしまう。
なので僕は本には一切手をつけない。
そのかわり大量に付箋紙を使用。
だけど、今回梅田さんの記事を読んで、ちょっと考えてもいる。
というのも、
後からその本の内容を参照するときには、書き写した文章をまず見ます。原稿を書くときに引用するのも、決まってそのうちの一文です。万が一、それに満足できなければ、だんだん戻っていけばいい。つまりカギ括弧で括ったけれど書き写さなかった箇所、そして折ったページ周辺、それでも見つからなければ本全体をもう一度確認するなるほど、これは便利だ、と。
(強調部分は僕による)
思うに、僕は、引用よりも思索の触媒としての価値をより多く求めているために、前述したような判断になっているのかもしれないが、
目下、今後の方針について検討中 ^^;)
■時間資源
もうひとつの論点は、時間についてだ。
かつてはその人の所属する組織であり環境というものが大きく情報能力にはじまる知的生産性を左右したが、
これからはそうではない、
どれだけ可処分時間をもっているかが勝負だと、そう梅田さんは書いている。
いわく、時間のない人は圧倒的な敗者になる、と。
その通りなのだろうと思う。
いくら大学の先生であっても、考える時間のない先生にどれほどのことができるか、とも彼はいう。
実はこのことは、僕の土俵のひとつでもある指揮統率という分野でも、かねがね注意を傾けてきたことだ。
指揮官はヒマでなくてはならない。
多少のインパクトを期待して、僕は常々後輩や学生にも言っていたのだが、
その言わんとするところは、まさに上述のこと。
組織なり部署のトップにある者は、常に全体を俯瞰して、より全体的に、より長期的に、より抽象的にコトを考える時間がなければならない。
だから、デスクにコーヒーでも置いて新聞眺めてるようでなければダメだと、あえて極論することもある。
(さらに、指揮官は最後の遊軍であり最後の決戦戦力であるべきという意味においてもなのだが、これは今日の趣旨ではないのでまた別の機会に)
こうした意味でも、例えば政治家の多忙さというのは、国民としては不安のタネだ。少なくとも僕にとっては。
特に大臣クラスともなると、一体あれほどの多忙な業務の中で、どれほど真にモノを考える時間があるだろう?
彼らは、はるか何十年も前に学び考えたことだけを食いつぶして今を生き、渉っているのではないかと、不安この上もない。
情報活動、知的生産活動に充てれる時間をどれだけ確保できるか。
そこには個人の性質、環境に応じてさまざまな取り組み手法があるだろうが、まずはそこに十分に着意をはらうというところから始めたいものと思う。
戦略レベルでは、
自分は何をするのか、そのために何が必要で何が不要なのか、
この見極め。
戦術レベルでは、
必要な活動(情報)をいかに効率的に実行(取得、整理、活用)するか、
この意識と工夫。
梅田さんは、これからは在野の時代ではないか、そう述べておられたが、
たしかに、(現在の僕も含め)在野の人々は、専門にその職にある人にくらべ圧倒的にふんだんな時間を自己のコントロール下に置いているはず。
であれば、それをどれほど自分の強みに転化していくかということを、意識していたいもの。
また、組織に専門的に属して職に奉じている人についても、制限の中で、いかに自分のコントロール下にある時間を拡大していくか、またそれをいかに効率的に運用するかということを、意識的に考えていきたいものだと思う。
関連記事:
僕の思考ツール
(ただしツール関係については、一部においてもう古過ぎて今日の僕の手法とは異なっている。今日的には、以下の記事のほうを参照されたい。)
夏に向けての手帳電脳化