blogをやる意義というものは人それぞれだと思う。
最近、いくつかの場所で、そうした記事を拝見したので、僕も少し考えてみた。
米国でのblog勃興期を思い出すと、そもそも、blogは必ずしも他人が見ること、いうなれば読者などというものを想定していないようなものが主流だったように思う。
その後、blogが大流行をはじめても(米国)なお、有名blog人(有名人のblogではなく、blogで有名になった人)たちの話を見ると、自分の覚え書き的なこと、思索の断片的なことを、メモ的に書き込んでいたところ、それがどこかで誰かにとって有益であったりして、知らない誰かとコメントやT/Bを介して、交流が生まれ、やがてブレインストーミング的な効果が現れてきた、といったようなものが多かった。
ちなみに僕自身は、blog界をこうしたものとイメージした状態で参入した。
実際に始めてみると、今日では、こうしたblogがやはり多いのに加えて、より自分の読者を意識したようなblogも増えている。
そして僕自身は、自分のblogについては、当初からある程度、読んでくれる人(読者?)を念頭において書いている。
それは、blogの目的による。
しかし、考えてみると、本当に他者の存在を一切想定しないようなblogというのもあり得ない、いや正確には、あり得るけど、blogである必要はない、と思う。
というのも、いくらblogというツールが、たいした基本知識もなく便利に使えるツールだとしても、本当に自分のためだけの覚え書きなり、思索ツールであれば、何もネット上である必要はないし、一元化とアクセス性からネット上を選ぶとしても、個人のHPでよく、blogである必要はない。
むしろ、データ、記事の再利用ということを考えるならば、blogはかえって不便であるとも言える。
冒頭に書いたような、個人の情報や思索の断片を覚え書き程度にupしていたに過ぎない、という人であっても、結局はそれが取り結ぶ縁によって、他者とのコミュニケーションが起こり、そこから多くを得ることができるようになっている。
そして、それで十分blogの意義はあるはずだ。他者向きの記事でないものを他者が勝手に読んで、勝手にコメントやT/Bを寄越し、それを見て自分もまた刺激や影響を受ける。そうしたことの累積が、やがて自分をどこかへ導いていくということは、blogの大きな意義だと思う。
これらを併せて考えると、blogにおいて、
blogそのものは、何らかの他者とのコミュニケーションを期待しつつ、しかし個々の記事について、他者を想定して書く必要はない(むしろそれは自然に発生する)、といったところになるのだろうか。
(これは、blogかくあるべし、という論ではなく、単に現状の観察では、という意味)
同時に一方で、これも前述したとおり、さらに積極的に読者を想定して記事を書き、blogを運営しているというスタイルも、多い。
この場合にも、いろいろな心理があると思う。
自己表現という欲求
表現における腕試し、練習
自己の思想の流布
意見交換
純粋に趣味として読者の増加やランキングのアップ等を楽しみにしている人もいるし、自分の考え方を世間に問いたいという人もいる。
いずれにせよ、こちらのスタイルでは、個々の記事についても、ある程度読者を意識している場合が多い。
これらはこれらで、blog草創期の先述したようなものに負けず劣らず、blogは非常にこれらにも向いているツールであると思う。誰もが簡単に、読者を想定した日刊誌的なものを発行することができる。
単なる自己表現欲求、これも十分意義があると思う。多くの日記的blogは、これが大きいのではないだろうか。基本的には、自分だけの話であって、特に読者を期待しているほどのわけではないが、多少、読んだ人のコメントなどを受ければそれなりにそれを楽しむ、といったような。
これは人の性向しだいだけど、僕自身、仮にblogに何の目的を持たないとしても、それでもblogはやっていたと思う。いろいろな日常で思ったことや考えたことを書くのは楽しいから。
さて、僕個人についていうならば、
blogを始めた目的は、交流、ひと探し、これに尽きる。
ひと探しというと、誰か行方不明のひとを探しているみたいだが ^^;)
そうではなく、現有以上にもっともっと、良き師、良き友、あるいは同志、仲間、あるいはスタッフを探したい、見つけたいということがあった。原則的には、この目的のために、自分の考えを述べ、自分のキャラを紹介している。
そして、このために、ある程度はblogの露出度が高まる必要もある(と最近気づいた)。
僕は、幕末期の人の行き来というものに憧憬をおぼえる。人ありと聞けば行って意見を交換し、あるいは教えを請い、影響を与えもすれば受けもする。その中で師を得もすれば同志を得もする。剛の者ならば全国を行脚する者もいたが、blogとは、こうしたことが、我が家に居ながらにしてできるのではないか、と。
同時に、いざ始めてみてから気づいた効果としては、
まず、自分の考えの整理ということのいい稽古になるということ。
さきに述べた、ある程度の露出度を求めるためには、更新もちゃんとしたい。そして更新しようということが一つの大きな動機付けとなって、結果的に、日々なにがしかの考えを述べることになる。こうした何らかの動機付けがないと、なかなか、毎日何かについて考えを整理するということはない(僕は基本的には怠惰な傾向が強いので ^^;)。
僕の場合、書くこと自体は話すのと変わらない速さで書けるから、話すことが考えをまとめるのに役立つと同じように、書くことでも、あらためて考えが整理されることを思えば、そしてこれが毎日となると、有意義でなかろうはずもない。
次に、これはいたって当然のことながら、他人の考えを見聞する機会が大いに増えたということ。
ひとつは、知識そのもの。僕には知識見識の至らない分野が多いので、そうした知見を持つ人たちのblogから大いに学べる。
もうひとつは、考え方、思想ということについて。さまざまな思想立場の人がいるし、それらの人たちの考えに大いに触れることができる。また、いわゆるごく一般的な人々の、考え方、思想というよりは、特に深い見識がないままに何らかの思想の影響を受けていると思われる人々の存在についても、日々のニュースへの種々の反応についても、実際の日本の世論の縮図的に、さまざまに考えさせられる。
そして、上記両方を通じて、研究している政策について刺激を受けもし、また、新しく政策を思いつきもする。この効果は本当に大きい。
前述の「目的」なるものについては、まだまだどうなるかわからない。仲良くなり得た人たちが仮に何十人かいても、将来誘いに乗ってくれるだろう人がそのうちに一人でもいれば良いほうだろうと考えると、確率的には、たいして目的には貢献し得ないのかもしれない。逆にいったん自分が世に出てしまうと、今度は、コメントなどを全て受け付けていられなくなる可能性もあるし。
しかしそれでも、さきに書いたような、始めてみて実感した「効果」の点で、結果的に僕にとってblog生活は非常に有意義なものとなっている。満足している ^^)
(いつも持って回った言い方をしているので ^^;)、一度だけ明確にしておくと、僕は将来政治をやるつもりでいる。記事のイメージからすると自民党を想像する人が多いと思うけど… ^^;)、既存政党は想定していない。政党の母体組織づくりは、もうしばらく先になる予定。なお、ことこの点についてはコメント等不要です ^^)
ま、しかしまだ始めて5ヶ月にも満たない ^^;)
もう1年も続けていれば、もっといろいろ変化も出てくるかもしれない。
(僕の計画では、「雌伏編」はあと1年と少しは続きます ^^)
さて、話は変わって、
新しいメディアとしてのblogの可能性について。
こうした発想が、いろいろと取り沙汰されているけど、今のところは、僕個人は、blogにそうした意義を期待していない。
そうした可能性の問題点として、一般人の立場での情報アクセスの限界(つまり公開情報しかアクセスできない、さらには公開情報についても個人の収集能力には限界)があげられ、結局、既に何らかの立場を得ている人物のblogしか、そうしたメディア的意義を持ち得ないということが言われもするけど、僕は、そうした情報メディアならば、何もblogの形式をとる必要はないのでは、と思っている。むしろ、閲覧性などの点でも鬱陶しく感じて、普通のHP形式のほうが良いのではとも。有名人blogは、どうせコメントだって受け付けてないことも多いし(受付けられても、逆に大量で読者にも邪魔だけど)。
同時に、僕は推理小説の、いわゆる「揺り椅子探偵」「rocking chair detective」というもののような、公開情報から組み立てる個人の見識というものは十分に価値があると思っている。これをメディア的に考えるならオピニオン誌的なものと見ることができるだろうけど、そんな風に見なくとも、そうしたblogの交流効果による世論の形成や個人の学習、思索といったことに価値を置きたい。
(ちなみに、僕のかつての職場でも当然、職務上保全する秘密に該当する事項は多く存在し、そしてそれらは十分に保全されているが、社会に公表している情報だけで、ちゃんと現実的な思考をすることはある程度まで可能だ。僕が知り得ることを知らずして、世の評論家諸氏はそのようにして、僕ら自身が成る程と思うような見識を打ち立てていることも多い。)
blogは、複雑系で一般的に言われる、各エレメント(要素、成員)の自律、協調、学習という3要因を満たしていて、個から全体を規定していく影響もある程度関心がもてる。こうした方向での期待を、blogに対して僕は抱いている。これは主として、ニュースや社会、政治を扱うblogに関して顕著だろうけど、論理的には、文芸的なものや、芸能においても、あるいは学術的なことについても同様であるはず。いずれにせよ、普及の度合い次第だが。
【思索の最新記事】





いやいや、すでに私の中では明々白々でしたよ:-) 政治をやるんだろうなと。
blogに関して言えば、Shuさんには遠くよばないけれども、誰か読んでくれる人がいるってわかると、気をつけて書くようになりますね。結構暴走しますが。
普段、技術的な文書以外は書かないので、あまりの書けなさ具合に愕然としていますが、blogで文章を公開することは良い訓練になってます。
ワン(トゥーかな)ポイントコメントでした
いや、お恥ずかしい限り。
故に、そこへのコメントはご遠慮したかったのですが、実に汗顔のいたりです。まだ研鑚過渡ですので、あまりあきれず気長に見守っていただければ幸いです。
仰るとおり、頭の中に考えがあるということと、それを誰かに読んでもらうという前提でうまく書けるかということは、別ですね。いかにそれが難しいか、blogでは痛感します。
しかも、blog記事は、論文か何かのように、じっくり時間をかけて書くというような性格のものでもないため、短時間で、言いたいことをざっくりということになりますから、なおのこと、ある程度の知的反射神経的な訓練にもなっているように思います。
(なお、toybox2004さんは、この点でも優れておられるように感じます。「感情から入る」というよりは、ご自分としての結論へのアクセス速度が速いのではというふうに、僕は感じています。直観的というか、速過ぎると、途中の思考経過はあらためて考える羽目にもなりますからね。僕もそれに近い頭の使い方なんです)。
それらが、そう大上段に振りかぶるようなものでなく、楽しくマイペースでできるというところにも、blogの良さがあるかもしれません。
過分な言葉です ^^;)
おそらくお察しのとおり、spice boyさんの記事も、こういうことをあらためて考えるきっかけだったので、むしろ勉強になったのはこちらでは、と思います。
交流に重き、というのは何となく感じますね。わりと他所でもしばしばお見かけしますし。^^)
ちなみに僕としては、現在blogを介してのみのつきあいですし、まだblogから手を引くのはやめてほしいですね。^^;)
ところで、特に最近upされている記事には、非常に共感するものが多いのですが、短く端的であることもあって、果たして僕が思っているようなことか自信が持てず、コメントできずにいることが多いです(あんまりずれたコメントも何だなと思ったり ^^;)。
最近では特に、人と接する際の主観と客観というのが印象的です。僕にとって、武術と座禅のテーマでもあります。
何はともあれ、今後も、楽しみにしています。^^)