2008年04月24日

言葉と共通了解


 もう既にしばらく以前になるんだけど、加賀谷さんのblogで、おもしろいこと書いてるのを見た。
 それで僕も書こう書こうと思いながら、ついつい今日になっちゃって。

 件の記事は、「天才は天才の研究をしない」というもの。

 このタイトルが言うところの話も非っ常に同感なんだけど、その部分ではなく、
 どちらかというと記事タイトルから離れたところで、記事後半の部分、
 そこのところに僕は食いついてる。

 いわく、
 同じように身近な出来事の話をするにしても、話の面白い人とそうでない人というのは、言葉が生むリアル感を、相手の脳内に生み出すことができるかどうかの違いだ、と。

 これは、非常におもしろい。
 そして、このことは、ただ会話においてだけではなく、文章であれ、あるいは映画や音楽、果ては絵画のようないわゆる芸術においてもあてはまるのではないだろうか、
 そんなことを考えた。

 興味をもった人は、たぶん上記リンクから加賀谷さんの記事を直接読んでみてくれてるんだろうとは思うけど、一応当該部分の引用をしとく。(引用というには度を過ぎてるかもだけど^^;)

話は変わるがどこでもいい、人が集まっている場所にいって人々の話に耳を傾けてみて欲しい。
大多数の人は自分の周辺の出来事について話をしている。
例えば会社であれば会社の誰がどうで、自分はどう感じたというような話を延々と続けている。

何故か?

彼らにとってその話はかなり「面白い」のだ。
例えるならば自分が主人公の映画の脚本について延々と話をしているようなものである。
自分が主人公の台本なので言葉の端々がトリガーとなり、様々な情景が自分の脳内でリアルに現実感をともなって再現される。
これは本人にとってはとてつもなく面白い。

ところが彼らの話を聴いている自分には彼のもっている「現実感」が再現されない。
そのため、

「なんでこの人はどーでもいい話をずーっとしているのだろう」

となってしまう。

彼らの会話で発せられた「言葉」が持つ「言語的情報量」は誰にとっても同じだ。しかし、その言葉からリンクし派生していく情報が僕と彼らとでは根本的に違う。

そのため同じ言葉でもコンテクスト(文脈)を共有していない僕にとっては「つまらない話」となり、彼らにとっては「生々しくリアルな現実を伴う面白くてしかたがない話」になる。

++++++

ここで先の天才は天才を研究しない、の話に戻ろう。

稀に天才的な人に会う。
この種の人々は先の例で取り上げたような「つまらない話」をほとんどしない。

「知り合いの誰がどうした」

という会話はほとんどでてこない。
彼らが会話で提示するテーマはそれが身近なものであっても常に「抽象的」だ。

例えば

「この間、電車でこんな人を観た。あの人はこういうことをしていたがそれをみて自分はこう感じた。そこには…」

といった具合に身近な話なのにそれが抽象概念を伴う事象や問題へとリンク展開されていきグイグイと引き込まれていく。話の上手な人の多くはメタファーや抽象概念への変換を使い、相手の脳内にあるイメージを話とリンクさせることで「リアル」をつくりだしていく。

人はそもそもが物質的にはそれぞれユニークな存在であり、その視点で観ればこの世界につまらない人はいない。
しかし、現実には話して面白い人は稀だ。
ほとんどの人はコンテクストの共有がない場合「つまらない人」である。

これは多くの人が個々人の脳内情景やコンテクストを言語という伝達手段によって「伝える」ことができないからである。

話をしている時に「リアリティ」を想起することができないから

「なんかつまらない話だな」

と感じてしまうのである。



 ここに書いていることからして、既に、書いている加賀谷さんと、読んでいる僕との間に、どれほどコンテクストが共有されているかわからない、
 真に筆者が言わんとしたことと、読んだ僕が受け取ったと感じているものが、どれほどぴったりしているかはわからない、
 ってことはもちろん前提だけど、

 僕は、人と会話をする、コミュニケーションを図る際に、
 僕らの間の共通了解の境界線を瀬踏みしていくのが好きだ。

 話す言葉、相手が返す言葉、あるいは相槌や表情、目の色。

 同じ言葉であっても、それが脳内で引き出しているイメージは、僕と相手とでは随分と異なるだろう。

 お互いの間には、共通了解の程度が色濃い部分もあるし、逆にきわめて薄い部分もある。

 同じく「会社」の話をしても、そのとき「会社」から想起されているイメージは人によって異なっているはずだけど、
 同じ会社に勤めている相手となら、そうでない相手よりは、共通了解の度合いは濃いだろう。そして会社勤めをしたことがない相手であれば、単に違う会社という以上に、共通了解の度合いは色薄いかもしれない。

 そうした濃淡、共通了解の濃度とか有無とかいうことを瀬踏みしながら、相手との距離を詰めていく。

 そして言葉を重ねて、言い換えながら、こちらが言おうとすることに対してアングルをいくつかかけていくと、その異なる角度から照らすビームの重なったところに、なんとなく焦点が合いはじめる感じ、それが僕は好きだ。

 武術では、自分のみならず対者の身体までをあわせた、拡大した身体意識を扱うということを目指すけれど、

 会話、意思疎通ということにおいては、同じように、自分のみならず相手の脳までをあわせた、拡大した脳の意識を扱おうとする、ってのはどうだろう、
 そんなことを今考えてる。

 同じ言葉を照らす複数のビーム(概念)。
 同じ概念を照らす複数のビーム(言葉)。

 そしてこれを進めることで、今度は、自分と相手との拡大した脳で思考が始まる…ような。

 熱のこもった議論、それは議論でなくてもいいんだけど、そうした過去の経験の中には、これに近い感覚を感じたことが、誰でもあるんじゃないだろうか。

 そして、議論なんてものとは全く種類は違うけれど、
 女の子をくどいている時なんていうのも、こんな感覚がある。
 心から、わかりたいし、わかってほしいからね。


 一方で、加賀谷さんが言っているような、話を面白くする、相手の頭の中にリアルをつくる、というのは、必ずしも、話者と認識を共にする必要はないんだろうなと思う。

 つまり、話が面白く感じられるかどうかというのは、真に話者が意図しているのとぴったり同じ理解である必要はなく、聞き手側がどれだけ自分の脳の中に自分なりのリアルを生み出すことができるか、だから、

 相手がリアルを紡ぎ出せるような言葉を発すればいい。
 そのためには、より抽象的な言葉や、メタファ感のある表現が重要になる。
 使用する言葉の概念次元をひとつ上げるとでもいうか…。

 そして実はこのことは、詩や音楽がまさにやっていることなんじゃないのか、ってことを思う。

 例えば音楽の詞というのは、あまりに具体的に過ぎると、かえって、聴くひとの共感を得にくい。
 ストーリーがわかるようなわからないような、そんな詞が多くはないだろうか、よい歌には。

 Stingは、よい歌というのは、聴いたひとが自由に自分にひきつけて共感できる歌だ、ということを言ってる。

 そうした歌は、状況をリアリティあふれて具体的に描ききるのではなく、もっと曖昧な表現の中に、聴くひとがそれぞれに自分のイメージを描く。

 ラブソングでも、「これって一体どういう状況なんだろう」って歌が、名曲には多い。
 そのへんよくわからないけど、でも言葉の端々、サビのフレーズから、それぞれ自分なりの感じ方で、共感する。


 僕も、もうちょっと意識してみようと思う。

 相手との共通了解の境界を瀬踏みしながら、少しでも相手と近づけるコミュニケーションを。

 そして逆に、
 相手が頭の中に自由にリアルを生み出してそこで遊べるような、そんな言葉を。

 この二つを自在に使いこなせるようになれたらすごい。
 同じ一つの会話の中でさえ。
 (かんがえてみたら、会議でも、だ)


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posted by Shu UETA at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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