2005年11月12日

バレンタイン流(2)の附録


 前編からの続き




 これは、以前の職場において、幹部の教育訓練の一環で提出させられる幹部論文として8年ほど前に書いたもの(論文などという分量のものではないが、職場では「論文」と呼称されていた ^^;)。テーマは与えられたもので書いている。

 いま読み返すと、さすがはたかが当時の2尉(中尉相当)が書いたもの、甚だ稚拙ではあるが…言い直すべきところはあるが基本的に撤回が必要な部分はない。
 何か誰かの参考になる点でもあれば幸い。


「部隊精強化のための具体的方策について」

 はじめに

 10年ほど前のある時期、ウォーゲーム、あるいはシミュレーションゲームというものが流行ったことがある。これは、今日にゲームといって一般的に想起されるものと違って、コンピューターではなく大きなボード上で行われるもの、ちょうど兵棋演習をそのままボードゲームにしたようなものであった。
 フリードリッヒの七年戦争、ナポレオン戦争の数々から、あしか作戦、エル・アラメイン、ダンケルク、ノルマンディまで、あるいは連合艦隊の作戦の数々とさまざまな戦争、それらを可能な限りリアルに再現した、広大なゲーム盤と何百というコマで構成されたゲームであり、プレイ時間は長い場合で10時間以上を要するものもあった。
 頭脳を振り絞って作戦を展開するわけであるが、当時どうも納得のいかないことがあった。
 サイコロである。
 敵ユニットとの戦闘が生じた場合、個々の戦闘結果は、サイコロの目により結果表に照らして、壊滅、何マス撤退あるいは士気の低下といった判定の適用をうけるのである。
 あらゆる要素を加味し考慮に考慮を重ねた作戦の結果判定がサイコロという運にまかされているのは、いったいどういうことだ?
 あるとき、専門誌に載った記事により、なんとなく納得させられた。
 いわく、実際の場面、実際の部隊においては、数字に定量化しようのない、目に見えない強さ、あるいは弱さというものがあり、かつこれらは時に応じて発揮されもすれば、発揮されないこともあるという不確実なものである。サイコロは、実のところそれをむしろ「リアルに」再現しているものである、と。あなたも、部隊指揮官の焦燥感を十分に満喫しましょう、、、
 今そのサイコロを思い出すと、まさにそこに「無形の精強性」という要素がものをいう余地があるということに思い至る。
 「精強」とは端的にいうと「すぐれて強いこと」であるが、戦闘を行う組織においてそのすぐれて強いさまを測るに、物質的物量的な有形要素と、人為的人間的な無形要素があることは論を待たない。本小文においては、この無形の精強性というものについて私が考えるところを述べる。
 部隊には、目に見えない強さというものがある。この無形の精強さを追求するということは、さきの話に出たサイコロの出目をいかに良くするかということである。われわれは自分の指揮官に対して、こんなふうに言うわけには絶対にいかないのだ。
 「あなたも部隊指揮官の焦燥感を十分に満喫しましょう」、などとは。


   本 論

1 目に見えない強さを生むもの
(1)二つのタフネス
 私は、現代戦あるいは来るべき近未来戦における空軍というものにおいて、その精強性を決定づける人間側の要素は、知的タフさと精神的タフさであると考えている。
 これらの要素は、およそいつの時代、いかなる軍種においても有効なものであったはずだが、今の時代、そしてこれからの時代の、とりわけ空軍種においてほどその貴重性が高いということはなかったように思える。
 なるほどいつの場面にも、一軍の指揮官にとっては、当然ながら重要にして必須の要件であったろうが、私がここで述べているのは、個々の隊員に対して求められる特質という観点からの話である。

(2)知的タフネス
 戦争というもの自体、指揮者にとってみれば元来が知的要素の強いものであるが、現代の空軍作戦の中では、純粋な直接戦闘者は航空機操縦士のみであり、その他すべての隊員は直接に敵と相まみえるのではなく、種々のハイテク装備品と向かい合うことになる。
 そこでは、先端技術装備品の能力を最大に発揮させることが求められる。平時の限られた状況の下では技術指令書と各種手順書に拠って何らの逡巡なく遂行できる任務も、有事の多くの場面では、次々に現れる事象に速やかに的確に対応して、部隊能力を最高の効率でもって最大に発揮させねばならない。ここでは、各個の隊員ひとりひとりが、器材の操作あるいは整備にあたって高度の応用力を持つことが求められる。太古から行われてきた戦闘形態にあるような、指揮官の「進めッ!」とか「突撃ッ!」という号令に従っていればよいというものとはほど遠いのである。
 この末端部隊隊員の知的戦力というものは、定量化し得ない反面、目に見えない強さとして、実際の戦闘に与える影響はかなりのものであろうと思われる。この要素は、大きく2種に分別できるだろう。

 ・職種専門知識、技能
 隊員の知的能力のうち当然期待されるものは、各個の職種に関する知識と技能の運用力であり、これを発揮するのは職種を付与された隊員としての義務であるが、われわれは、彼らのこの能力をいかに向上させ、高いレベルに保つかということに工夫を凝らす必要がある。別に段を設けて後述するが、ただ口を酸っぱくして言うだけでは指揮官の自己満足の域を出ることはない。

 ・柔軟な発想、思考力
 目に見えない戦力の最たるものは、職種を離れたプラスアルファの知的作業能力である。有事に強さを発揮するには、さまざまな状況に対しいかに臨機応変の工夫を生むことができるかということが問われる。また、平時にあっては、いかに問題を指摘し、それを改善していくか、あるいは下位者たちをどのように教育し、育てていくか。

 しかしこれらは次項、精神的なタフさという要件を満たさねば、十分に発揮させることはできないだろう。

(3)精神的タフネス
 有事の強さを発揮するには、作戦に従事する隊員たちの精神的な強さが必要であろう。この点については、今更に論じる必要は認められないと思われるので多くを述べるつもりはない。問題としたいのは、その精神力をいかにして育むかということであり、項目を別にして論じようと思う。


2 知的タフガイたちをどう育てるか
(1)教養ある兵士
 ここで我が国国民の優秀さについて論陣を張るつもりは毛頭ないが、今日の日本人の教育度というものは非常に均質的である。つまり、国家として見た場合、国民全体的にその教養の差というものがきわめて小さいということである。このことは、指揮官たる幹部と隊員たちについても、人間としての基本的な教養度の差がそう大きくはないということにも帰結する。
 しかるに、世に出ている各種の組織統率法に関する文献の多くは、その点に思いを致していないものが多い。歴史上の多くの例を引くという必要性から、いきおい歴史上のほとんどすべての時間そうであったように、教養に乏しいか、もしくは無学の人々を統率指揮するという立場に、知らず知らずのうちに限定されてしまっているケースが多いのである。
 わが航空自衛隊の隊員は、無学蒙昧の民から徴収されたものではない。自らものを考え、判断することのできる、歴史上類を見ないほど教養の豊かな兵士である。
 そんな部隊であればこそ、鍛え方次第では、現代戦において高度に精強性を発揮しうる戦闘組織となり得るのである。

(2)考える習慣
 小学校などで教職にあるものの中には、未だに子供たちにこういうことを言う者がいる。「何度言っても言うことをきかないのは、犬や動物以下だぞ!」 しかし、これはむろんのこと正しい議論ではない。頭ごなしの指導にそのまま従うとは限らないのは、まさに彼らが人間であり、犬猫の類とは程度を異にすることの証である。
 自衛隊にあってはプロフェッショナルの組織人として、上官の命令に服従するのは義務の最たるもののひとつであり、頭ごなしであろうとなかろうとそこに個人の判断が介在してはならない。しかし、だからといって依然として隊員たちはイヌやネコになったのではない。また、自らものを考えることのできない素朴にして無学の人々でもない。彼らの能力を最大限に発揮させるには、組織の任務に積極的に引き込むものが必要である。
 同じく命令を履行するにあたって、その意義を知らぬ者と、その意義を自分のものとして理解している者とでは、仕事の完成度が大いに違ってくるのは自明であろう。また、緊急にして猶予のない状況において、よく上司の意図を体することが可能なのはどちらの場合であろうか。
 そこでわれわれが着意すべきは、考えるということを隊員にさせること、考える習慣を身につけさせることである。人は、考えるということによって、ある事象を自分の問題として認識するのである。かつて西武ライオンズを率いた森監督、そして今セパを制したヤクルトを指揮する野村監督が、時間をかけ苦心して選手たちに身につけさせたことでもある。

 ・なぜ、何のために?
 部隊が今、これを行うのはなぜなのか、何のためなのか。その中で、自分がこのような命令を受けるのはなぜか。また、叱られたのはどうしてか、誉められたのはなぜか。今急がねばならないのはなぜか、あるいはそう焦る必要がないのはなぜなのか。この地を現地偵察する目的は何か。わが部隊があの場所に機動展開する意義は何か。
 いたって基本的なことであっても、考えるということが疎かにされている場合が多いものである。また、部隊がそれを要求していないという場合もある。単に、命ぜられたから、あるいは規則に定められているところであるからそれを遵守するというのは、もちろん隊員としての必要条件であるが、しかし最低ラインである。冒頭付近に述べたような、有事に発揮されたい無形の強さを育むには、十分条件とは言い難い。
 馬と自動車の比較ということを考えてみたい。仮に同等の性能諸元を持つと仮定した場合、優劣いずれにつくか。自動車は、全く操縦者の意図するままに動くものである。それ以下になることはないがそれ以上にもなり得ない。馬は、必ずしも乗り手の意のままと限ることはできない反面、乗り手の意を越えて働くことがある。馬は、乗り手が必死の剣戟の最中にあって、自ら穴を避け柵を越えるものである。
 ただ規則と命令に従順に従うことのみを兵士に刷り込む方法は、いわば配下組織をいかに優れた自動車にするかというアプローチであり、ひとつのスタンスではある。しかし、これはどちらかというと旧時代の戦闘に、より適合した手法といえる。私が前に述べた、有事に働く無形の要素というのは、まさに優れた馬を育てることにより生まれるものである。これは、規則や命令に従うことを疎かにするということではない。よき軍馬は、よく調教されているものであるのは当然の前提であるからだ。
 「考える」ということは、ある種の習慣性を伴うものである。それは、訓練することによって習慣化されるものであり、その習慣は、平時にあって育まれていなければならない。
 そこで、具体的にわれわれは、日常の業務の中で自ら、「問いかける」という習慣を持つべきであろうと思う。
 命令を与えるにあたって、その仕事を監督する中で、そして結果を評価する際に、あるいは叱責の中で、また賞賛にあたり、「なぜだかわかるか?」との問いを発っし続けるべきである。
 また、「考える場」というものを積極的に設けることも有効である。たとえば、種々の任務や作業ごとに「研究会」的な場を設け、隊員たち自ら考え、検討を加え、改善の余地を見つけるという機会を与えることを積み重ねれば、大きな効果を生むことができるだろう。
 考えるということを十分に身につけた隊員たちは、有事のさまざまな状況の中で、それぞれの持ち場において文字通り計算外の成果を発揮するだろう。その小さな断片が積もりつもって、無形の強さを生むことになるのである。

 ・有事意識
 航空自衛隊において、すべては有事を基準に考えねばならないということは誰も認めるところであるが、隊員への浸透度については、まだまだわれわれ指揮官の努力が十分であるとは言いにくいのではないだろうか。
 有事に精強性を発揮させるためには、当然ながら、平時にあって常に有事を念頭において「考える」習慣を身につけさせねばならない。そのための第一歩として、われわれは、「有事」という言葉を日常の中で頻繁に口にすることから始めねばならない。指揮官が常々「有事」を口にすることにより、隊員たちは、自然に有事意識を持ち始めるだろう。
 さらに一歩進めて、われわれはそれについて隊員たちに問いかけることができる。そして機会あるごとに十分に考えさせねばならない。
 これらは偏に習慣であり、彼らにそういった習慣をもたせるのは、指揮官の責任である。もし有事意識の低い小隊があれば、それは小隊長が有事を口にしないからである。指揮官は、自らの日頃のひとつひとつの発言を通して、部隊の意識に良くも悪しくも影響を与えるものである。

 ・改善と工夫意識
 組織というものは往々にして保守的になりがちである。現在行っていることの根拠が、単にこれまでそうやってきたからに過ぎないという話は笑い話にするにはあまりにも日常的に過ぎるほどである。ここでも、「なぜ、何のために」という意識の重要性が認められるが、旧弊にとらわれず積極的に現状をよりよく改めようとの意識を高めるには、相応の土壌を育てることが指揮官に求められる。
 土壌とは、雰囲気とも言い換え得るものであるが、部隊に果敢な改善意識を浸透させるには、それなりの雰囲気を醸成せねばならない。
 ひとつは、現行の業務要領、作業要領等について、「なぜか?」という問いを発し、考えさせることである。また、不具合、不手際に際して、常に既存の手順あるいは規則上の遠因や不備がないかを考えさせることである。
 さらには、何であれ、部下の改善的発言、発案にはとりあえずまずは歓迎と賞賛の姿勢でこれを迎えることである。そして常に工夫を奨励し、賞賛する態度である。
 また、有事の戦闘の中では、平時の常識では考えられない状況に陥ることが予期される。種々の様態の中で、SOPやTOの枠を越えた装備品の使用法、運用法が求められることもあるだろう。そのような場合に平時の常識にとらわれない工夫をするには、常からそういう精神を部隊に養っておく必要がある。
 こういう努力を意図的に継続すれば、徐々にではあっても部隊は古きにとらわれず新しきを模索する体質へと変わっていくだろう。

(3)育てるという意識
 小隊等にあって直接に隊員を指揮する初級幹部には、彼らを育てるという意識が必要である。ここまで述べてきたいくつかの着眼点も、それを常に意識しながら隊員を育てていこうという姿勢が肝要なのである。部隊を育てるという観点から、われわれが着意すべきと思われることがいくつか考えられる。

 ・指揮官の反応
 指揮官の発言、表情や事にあたってのあらゆる反応は、本人が思っている以上に部下から観察され、それが逐一部隊の意識に反映されていくものである。何を喜び、何を不愉快がるか。何をもって誉め、何をもって叱るか。何を大声でいい、何を軽く触れるにとどめるか。これらは、本人も部下も無意識のうちに、部隊にとって何が重要で何が重要でないか、何が必要で何が不要かということを形成していく。
 そのため、指揮官はいかなるときも不用意に発言し、また表情にあらわすべきではない。何をもって大事とし、何を小事とするかを認識した上で発言し、反応を示すよう努めなければならない。

 ・忍耐
 育てるという過程においては、往々にして忍耐が要求される。部隊は教育隊や学校ではなく、そこで隊員を育てるのは実際の任務を通してである。その時々に応じ、任務の性質によって、これに経験の浅い者を充てて育てていかねばならない場合もあるだろう。民間にあっても組織の長には、人材を育てるタイプと人材を使いきるタイプが見られる。できる人間ばかりを多用し消費する指揮官の通り過ぎた跡は無惨なものである。
 また、自ら端々まで手を入れ口をはさまねば気の済まぬ指揮官のいる部隊は、驚くほど能力も意識も低い。指揮官が働き者であるのは結構なことだが、ともするとこれは「考える兵士」とは対極的に、「考えなくとも済む兵士」を育てる結果となっている。
 いずれの場合も、要はタイミングであろう。任務の性質に応じて、どうにもあとがない場合と、あるいは隊員に思うようにやらせてみた上で、失敗については十分に検討し学ばせ、リカバリーの余地がある場合である。そのあたりの機微を弁えた上で、黙って見守るべきときには静かに耐えてこれを観測し、部下の育成を第一義として、失敗の際には関係筋に指揮官が手をついて責任を取るという姿勢は、指揮官の一種のセンスといえるかもしれない。歴史を紐解くに、どうも茫洋とした雰囲気に包まれた名将が散見されるのは、あるいはそういうわけでもあろうか。

 ・なぞかけ
 これは余談に近くなるが、歴史上の諸将を見るに、部下に対する謎かけを好む人物というのは意外に多い。信長あるいは家康なども、しばしば家臣に対して謎かけ的な問いを与えたようである。
 これこれとあいなったら、どういたす? もしかくかくの折りには如何あい計らう? 儂が今日天下をとったとして、その方、何処の国を所望か、してその理由を申せ…
 これは、多分に閑にまかせた愉しみであったかもしれない。が、私はむしろここに彼らの部下に対する教育姿勢を見出すのである。熱心に部下の教育に意を払うのであれば、日常のふとした問いかけによっても部下にものを考えさせ、簡単な状況訓練を施すことができるのである。われわれは、こういったことも一つの事例として、その姿勢を学べるものと思う。
 「もしこうなったら、うちはどうするべきかな?」「隊長もオレもいないときにこういうことが起きたら、まずどうする?」こんな話は尽きないほどできるのではないだろうか。そして、われわれは彼らの答えを評価してやることもできるのだ。


3 精神的タフガイたちをどう育てるか

 さまざまな過酷な状況下で任務を遂行する過程では、強靱な精神力が要求される場面も多いだろう。身体的にも心理的にも辛い環境にあって、それに耐え、任務を遂げる精神力はどのように培われるだろうか。
 最も原初的なものは、達せずば罰せらるというものであろう。あるいは、恥という概念もあり得るだろう。しかし、場合によっては生死をも分けるような状況で、人間がいかに弱いものかは、人間の歴史の中で証明されている。
 そこで現れるのが、使命感、責任感というものである。

 ・自らの位置づけ
 われわれ航空自衛隊にあっても、入隊の時から、また部隊においても使命教育というものがなされている。しかし、私が不満に思うのは、多くの場合それらの使命教育というものが極めてマクロな視点からのものに偏っているような気がすることである。
 たとえば、自衛官としての使命、責任感について触れられることがあっても、現在の職務に関する使命や責任というものについては、部隊であらためて語られることが少ないように感じるのである。
 リアルに自己の責任感を意識するためには、航空自衛隊という大きな機関の中で、自己の占める位置づけというものを認識する必要がある。航空自衛隊の中で、○○団とはいかなる位置を占めるのか。○○団の隷下にあって、○○○隊の位置づけはいかなるものか。○○○隊にあって、○○○○小隊は何をなすべきか。その小隊に属し、我が身が置かれている位置づけはどのようなもので、何を期待されているのか。
 もちろん、頭では、これらのことは皆わかっているはずである。しかし、指揮官は、これを使命感や責任感と結びつけてやることが重要である。

 ・考えるということ
 これより前に知的精強性の中で、「考える」ということについて述べたが、使命感というものを扱うにあたって、やはりここでも「考える」ということの重要性が浮かび上がる。
 幕末の頃、攘夷派の浪士たちは幕府当局の手に掛かり、幾多の拷問を受け、攘夷派の動静について取り調べを受けた。その際に発見されたことは、身体の頑強さではなく、その立場によって苦痛に対する忍耐力が全く異なるということであった。人斬りと京を震撼させた男が容易に拷問に屈し軽んぜられた反面、その性柔弱と言われていた者であって一派の中心的な活動家は死ぬまでよく拷問に耐え、口を割ることがなかったという例が多く残された。
 この差が意味するものは、どこまで運動を自分のものとしていたかであるという。自らよく尊皇と攘夷の志をよく解し、我が国の進むべき道に確信を抱いて運動に身を投じていた者は、その身矮小にして性柔和といえどもよく志に殉じ、かたや頑健にして斬り合いでの度胸、剣技衆に秀でた者でも、運動の走狗として働いていたに過ぎぬものは、たやすく苦痛に屈したというのである。
 われわれが前提とするのは、むろんのこと拷問に類するものではないが、人間の苦痛というものに対する強さと弱さを考えるとき、ひとつのヒントとなるのではないだろうか。自分のやっていることの意味を知るとき、人はよく困難に耐え、使命感を堅持することができる。われわれは、隊員たちに、よくよく彼らの仕事とそれに伴う使命というものについて認識させ、理解させ、有事の困難を乗り切る精神的支柱を与えてやらねばならない。


   まとめ

 現代は知恵の時代であると言われている。このことは、現代戦についても言えることである。さきの湾岸戦争を例にするまでもなく、今後の戦争は、ますますハイテク要素の介在を増やし、勝敗を決するものは単なる肉体的強弱や精神論、十年一日のワンパターンの訓練の繰り返しによるものではなくなっている。高度な装備品を合理的システムに構築し、これを運用し戦闘するのは、まったく知恵の戦いである。
 また、その知恵を戦闘行為に傾注するのは、司令部にあって作戦を練る指揮官や幕僚のみではなく、それぞれの末端にあって装備品と向かい合っている幾多の隊員にも求められる時代なのである。司令部で掌握し得るのは、末端部隊保有装備品の標準的なスペックであって、実際の有事の場面においてさまざまな障害の中でこれらのスペックを再構築し、最大限発揮させ得るか否かは、その末端隊員の能力によらざるを得ないのである。これが、司令部にとっての「サイコロの目」なのである。われわれは、このサイコロの出目を最も期待すべきものとするために、日頃から隊員の育成に励まねばならない。
 蒙昧にして無学の人々を相手にするなら、訓練と規律によって彼らを従順な機械にしたてていけるが、自らものを考える者たちは、これをわれわれの任務に「参加」させねばならない。
 そして考えるうちに、私は、使命感という無形要素すらも、隊員を「考える葦」として扱うことで効果的に醸成し得るという思いに至った。
 われわれ初級指揮官は、小隊という末端にあって直接に隊員と接していく中で、彼らの知恵と精神力を育てていかねばならない。その方途として本文中に述べたことは、現在まで自分が身を置いた部隊歴の中で、現時点までに私が自らを省みた反省の中から生まれた考えであり、到達点では決してあり得ない途中経過的なものである。まずは、私自身が絶えず真摯に「考える」ことを通して自らの知恵を磨き、精神的な支柱を太くし、わが部隊能力の最大発揮のために、部下ともども邁進していく所存である。
posted by Shu UETA at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦略戦術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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