2004年10月26日

推量を排する危機管理

 マガジン「名将言行録」第15号関連記事


 15号では、三好長慶の若い頃の話として、古く新田義貞の言葉と例にして、推量は排さねばならない、ということを長慶が老臣たちに説く場面がありました。
 このエピソード自体は、戦いの場の話ではありませんでしたが、そのような場面においても口をついて出るほどに、長慶の胸には、このことが「鉄則」のように刻み込まれていたのでしょう。

 そこで、「推量を排する」ということを、戦いにおいて、また危機管理的な面から少し考えてみましょう。


 車の免許を持っている人ならば、「防衛運転」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。あるいは、「だろう運転」はダメ、「かもしれない運転を!」といったことを、自動車学校や免許センターで聞いたことがあるかもしれません。

 これは、車を運転している際には、交差点をはじめ、いつでも、「対向右折車はいるけど、こちらを待つだろう」とか「出てこないだろう」「向こうは止まるだろう」などなどといった「だろう運転」はやめて、「こちらを待たないかもしれない」「出てくるかもしれない」「止まらないかもしれない」…と、「かもしれない運転」を心掛けねばいけません、という話です。
 それを、防衛運転と言ったりもします。

 戦いにおいて「推量を排する」とは、こうした防衛運転の考え方にも似ているかもしれません。

 戦いの場において、敵の行動や状況を推測することは必要なことではありますが、あくまで自分の側の安易な推測というものに気を付けなければなりません。
 相手と自分は別の人間であり、思想、価値観、発想パターンも同じではありません。置かれている状況も異なります。すると、相手の行動を完全に予測することは不可能です。
 こうして考えれば、いかにも当たり前と思われがちなことですが、にも関わらず、実際の戦史においては、こうした愚がおかされていることが非常に多いのです。
 まさか、山側から攻めてくることはないだろう。
 最低二日はかかるだろう。
 城を出てくることはあるまい。
 さまざまに勝手な推測をし、それに基づいて作戦を立ててしまいます。

 そして、これは敵に関してだけではありません。
 「状況」に対しても同じです。
 天象気象についても、武器や道具についても、部下についても、種々のさまざまなもの、状況、環境についてです。

 またこれは、何も戦争の場に限ったことではありません。
 スポーツという戦いにおいても同様ですし、また、仕事においてはビジネスの戦いだけではなく、危機管理という面でもあてはまるでしょう。

 さて、注意しなければならないのは、しかし、やはり推測は必要だということです。逆説のようですが、およそ相手が何をするかを完全に知ることも、また明日の天気を確実に知ることもできないからこそ、何らかの推測作業を行い、その推測の的中確率を少しでも上げるべく、情報を集め、分析するわけです。

 そうすると、話は非常に微妙にものになりますが、要は、「安易な推測」を避ける努力をするということ、そして、推測は最後の手段、あくまでも判断においては推測の優先順位を下げる着意、これが大切です。
 この微妙な感覚は多分にセンスにも近づくものですが、常に心中に着意することと経験で身につけていけるものだと思われます。

 では、現時点で私が考えるいくつかの方向性を紹介してみましょう。


■事実と推測の弁別

 着意の第一歩は、事実と推測の弁別意識を持つことです。
 これは、簡単なようでいて、平素意外にしっかり行われていないことが多いものです。
 行動方針に関する思考を組み上げる際には、できる限り、事実のみを積み重ねていくことが大切です。事実に事実を重ね、かつ、事実を思考の礎として、厳格な論理性によって礎の上部を組み立てていきます。
 これは、数学の証明をイメージしてもらえばよいかもしれません。
 公理と定理に基づき、一段一段、一歩一歩、正しい論理のみで組み立てていきます。数学の構造物は、公理と定理と、正しい論理のみで成り立っているものです。

 数学の証明に「推測」を論拠に使用することはできませんが、作戦構想や危機管理では、事実を可能な限り行ってなお埋まらない間隙を埋めるべく、そこで初めて推測を採り入れていくわけです。
 この順を誤ったり、混同して進めてはなりません。

 こうした訓練は、平素の仕事等における「報告」のあり方においても行うことができます。
 報告は、事実と推測が明確に弁別されていなければいけません。
 報告をする際は、事実の部分と、推測や自らの考え、コメントの部分が明確に区別できるように報告する必要があります。
 報告を受ける立場にあるときは、報告を聞きながら、読みながら、事実の部分とそうでない部分をしっかり認識して、把握します。

 古来の武士は、事実というものを非常に重視したと言われます。
 管野覚明氏は、著書「よみがえる武士道」で次のように述べています。
  武士にとって、判断の是非や人物の力量が端的にあらわになるのは合戦の場である。そこでは、判定は生きるか死ぬかという、冷酷な事実として示される。こういう後のない場に身を置くとき、自己の運命を託すに足りる最も確実な足がかりは、動かすことのできない「事実」にしかない。事実を正しく受けとめる「分別」、事実を曲げることなく振る舞う「有りのまま」である。

 武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけのみ」よい(※blog注:「言請け」よい=安請け合い)ような、それこそ「うろんなる」者に命はあずけられぬ。頼むに値する武士、「頼もしい」大将とは、一を一とする、「分別」ある「有りのまま」の人物でなければならない。

 この世界の中で真に頼むに値するものは、有るものは有る、無いものは無いとする精神だけだ。これはまた、人間世界のみならず、神や仏にも必ずや通じるものなのだ。一は一であるということを決して曲げないところこそ、天地宇宙を通じて唯一つ確実な拠り所である。相手が神であれ仏であれ、己れの頼むべき所はそこにしかない。これこそが、武士の発見した「哲学」だったのである。

 (blog筆者:「有るものは有る、無いものは無い」「一を一とする」…こうした言葉も、不思議と数学的な世界を想起させるのが面白いですね。)


■相手の意志ではなく能力に着目

 特に戦いにおいて相手の行動を考える場合には、相手の「意志」ではなく「能力」に注目することが大切です。
 相手がどう考えるかという相手の意図や意志は、あくまで推測するしかありません。しかし、相手の「能力」となれば、それは「事実」となってきます。
 相手がそれをしそうかしそうにないかを根拠にするのではなく、相手がそれをできるかできないか、それを重視しなければなりません。
 相手が銃を持っているならば、銃を使うかどうかということよりも、持っているという事実、使うことができるという事実こそが重要なのです。それを前提に、作戦は構想されなければなりません。
 戦争といわず、外交においても、ビジネスにおいても同様です。


■ それでも推測は必要

 先にも述べましたが、しかし、戦場において事実をすべて究明することは不可能であり、そこには、やはり推測という作業が必要になります。
 大切なのは、事実を推測より優先すること、論理を推測より優先することが第一です。

 次に着意するのは、推測は、外れ得るということを念頭においておくということです。推測はあくまで推測であって、それを絶対視して作戦することは、それが外れた場合に重大な危険を招きます。
 推測は推測として、予測が外れた場合の案、方針を複数持っておくこと、これが肝心です。

 第2次大戦中、砂漠の狐と異名をとったドイツのロンメル元帥は、こんなことを言っています。
 それがリスクであれば、うまくいかないときに、立ち直る手段がある。それが賭けであれば、失敗したら、立ち直る手段がない。部隊全体を危険にさらすことになる、と。

 リスクをとることと、ギャンブルは違います。
 事実と論理の間隙を埋めるべく、推測作業は必要ですが、しかしそれをギャンブルとしないためには、前述のような着意、予測が外れる場合の方針などにも留意しておくということが大切です。



 次回16号は、九州の雄の一人、龍造寺隆信です。。
 お楽しみに。


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posted by Shu UETA at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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