2005年11月03日

バレンタイン・スタイル(1)情報関心


 こうした意味でも勝てば官軍、
 ペナントの行方にかかわらず、実に優れた指揮と統御、管理の手腕を見せたプロ野球ロッテ・バレンタイン監督だが、結果的にパのペナント、ひいては日本一の座を射止めたため、巷では彼の指揮管理、統率のスタイルを題材にした記事、書籍、番組等が続々と出ている。

 僕自身、シーズンを通して(むろん前回95年時も含め)彼のやり方を見守ってきた一人として、感じるところ、学ぶべきところも多々あるのだが、なかなかトータルにまとめて書く機会もない。
 そこで、機を見ては小出しに記事にしていってみよう、ということで、タイトルには仮に(1)とした。(実際に続くかどうかは気の向き次第だが ^^;)

 さて、今回は、昨夜の「クローズアップ現代」でのバレンタイン監督の特集番組に刺激され、そこで描かれていたさまざまな氏のスタイルのうち、一点を抽出して少し紹介してみたい。
 それは、「情報関心」というものである。




 情報関心のあり方

 バレンタイン野球が、徹底したデータ野球の一面をもっていることは夙に有名だろう。
 各チーム、ましてプレーオフや日本シリーズにあたっての敵チームのデータを徹底的に収集、分析するわけだが、氏の数十年来の相棒、統計アナリストのプポ氏の指揮のもと、マリーンズは単に量においても他球団の数倍のデータを扱っているといわれている。

 このプポ氏、例えば今季のプレーオフの最中には、チームがホークスと死闘を演じている毎日、福岡ヤフードームの一室で、阪神タイガースの今季全146試合のビデオを全て観ている。
 つまり、単に数字として出てくるデータに限らず、その状況状況に応じた選手のクセ、表情、プレーの選択など、いわばアナログ情報を野球データ屋の目で徹底的に観察するのだ。

 
 千葉マリン球場での自主練習となったこの日、統計アナリストのプポ氏は、ロブソン打撃コーチ、ランペン内野守備走塁コーチとともに“通勤用”の自転車で球場入りした。ペダルをこぐ足取りこそ軽かったが、ある部分だけは疲れ切っていた。
 「目がこんなになっちゃったよ」。眼鏡を外したプポ氏は苦笑い。そこには充血で赤くなった両目があった。無理もない。ソフトバンクとのシ烈な戦いのさなかも、球場のテレビにかじりつき、阪神の今季全試合のビデオを見続けていたのだ。
 全146試合、全プレー、全投球。「最低100時間以上は見たね。早送りするにしても、すべて同じアングルの映像だから気が狂っちゃうんだよ」。だが同じ 150キロの直球でも投手によってコース、角度、球筋が違い、打者のスイングも1球ごとに微妙に変化する。「だから実際の映像を見ないと、詳しいデータは集まらないんだ」と同氏は説明する。いわゆる数字だけでは分からない部分まで、プポ氏は分析するのだ。
 実はソフトバンクとの決戦前にも、プポ氏は相手の全試合をビデオ観戦し分析。
 (ニッカンスポーツ 10月20日記事より)



 ポストシーズンの重要な短期決戦に限らず、シーズン中であれ、そうした各種データは彼の手によって文字通りデータであり統計に加工され、バレンタイン監督は試合前、試合中はもとより、移動の際の例えば新幹線の中でも自分のパソコンを開いて把握分析と作戦構想に余念がない。

 こうした話自体、さらに詳しく話せばさまざまに面白いのだが、今日は措いておく。

 さて、ことほど左様にデータの駆使ということを重視するバレンタイン・スタイルにおいて、特に注目すべきは、その「情報関心」のあり方ということだと思う。

 氏を十数年来取材、観察しているスポーツ・ジャーナリストのレフトン氏は、監督の特徴をこのように言う。

 バレンタイン監督の姿勢というのは、
 「こういうデータがきています」「こういう分析結果が出ています」「こういうことがわかります」と、情報班から情報が上がってくるのを受け取るというスタイルではないのだ、と。そこが普通と違うのだ、と。

 どのように異なるかというと、
 まずバレンタイン監督が、「これはこうではないのか」と仮説を持つ。それは直感や直観であり、あるいは氏の経験知であるかもしれない。
 そこで監督は、その仮説がデータで裏付けられるのか、もしくは否定されるのか、それを情報班に求める、というのだ。

 例えば、レフトン氏は小坂内野手の例をあげていたが、
 小坂というのは野球ファンであればセパを問わず知る人も多いだろうが、ご存知のとおり、小柄で俊足の打者だ。つまり、一般的定石に則っても、ゴロを打って内野安打を狙うことができる、いや通常そうすることを指導されるタイプのバッターだ。

 ある日、バレンタイン監督は小坂の打撃練習を見ていてふと思った。
 彼は、ゴロを狙うより、外野に強い打球を打ったほうがヒットの確率が高いのではないか…
 そこで監督は、小坂の打球ごとの打率等について、情報を分析させる。
 すると、意外なことに、小坂は転がしたときよりも、ライナー性の打ち方をした時のほうがヒット率が高いことがわかった。
 そこで、監督はデータをもって小坂に話をし、本人の納得のうえで、打撃スタイルの改造を行った。

 これは実はロッテファンには有名な話だが、
 これは一例、実際には、敵チーム、敵打者、敵投手の攻略に向けて、こうしたスタイルが一貫してとられている。

 まずバレンタインの中で、直感(直観、経験知)からくる「仮説」が立てられる。
 その証明もしくは否定をせよという「情報関心」が情報部隊に寄せられる。
 情報部隊は指揮官の情報関心に基づいてデータを整理、加工し、結果をアウトプットする。

 むろん情報班は、指揮官のリクエストを待つまでもなく平素不断に各種の生データを徹底的に収集しているのだが、それはあくまでも情報の在庫を豊富にしておくこと、指揮官のリクエスト(情報関心)に応え得る量と質の基礎データを保有しておくためのものとなっている。

 そこで、常に監督は、これとこれとこれ…について出してみてくれ、という言い方をするのだと、レフトン氏はそうも言う。

 さて、多少なりとも危機管理であるとか戦略戦術に関心のあるひとであれば、「情報関心」あるいは「情報欲求(要求)」の明確化という着意について覚えがあるだろう。

 危機管理といってすぐに思い浮かぶ佐々淳行氏は著作の中で、「情報は天然現象ではない」と力説している。
 いわく、よい情報はただ待っていれば集まるものではないのだ、と。
 情報がない情報がないという指揮官は、情報を雨や雪のような天然現象だと思っている天然居士であると言っている。

 さらにもう少し進めれば、これは、情報の優先度という問題にもつながる。
 すぐに知らせるべき情報と、急ぐ必要のないもの、その緊急度ということは、部下への勝手な期待ではなく、上司が明確に指定しておくべきだということだ。
 「なぜすぐに知らせんっ!」と怒りをあらわにするさまというのは、たまに見かけるものだが、それは指揮官自身の「情報関心」の不明瞭によるものだ。

 実は僕にもそうした着意の覚えはある。
 ある時、僕は、とある重要装備/施設の維持管理を担う任にあったが、勤務は24時間体制のシフト制、僕は常日勤で夕刻には帰るが、夜間休日の間はシフトクルーが残っている。
 トラブルの際にはいつでも駆けつけて状況判断、方策の選択、決心等、所要の指揮と各方面の調整、報告をするため、車で5分ほどのところに住んでいたのだが、
 実際、どのような事態において指揮官を呼ぶべきであるのかということは、むろんある程度慣習的にも常識的にもある種の基準感があるものの、その判断を部下がしなければならないというのは本当はおかしなことだ。(そして実際に真夜中に上司をたたき起こすというのは、ちょっとした抵抗感もある)
 そうした判断の基準は、こちら側が、明確に指定しておかねばならない。僕の場合は、簡潔にリスト化していた。
 例えば、この程度のことでさえ、やはり一種の「情報関心」ということだ。

 今の部下の例ではないが、しかし、組織が大きければ大きいほど、情報部門というのがしっかりと存在し、基本的には自律的恒常的に情報活動を行っている。指揮官もしくは上位組織が格別の情報関心を付与しなくとも、情報部門が独自に組織にとって必要な関心でもって活動を行っている。いわば自動運転といったものだ。
 そうしたある種の自動運転が行われていることは組織の効率の点でむろん必要ではあるが、しかし、真に指揮官あるいは上位組織が主体的に組織を運用していくためには、やはり明確な「情報関心」を与えることが必要だ。

 情報収集の範囲、深度、そして取捨選択の基準、分析と加工の方針、これらはすべて「情報関心」が基準になる。

 プロ野球の監督は、まさに戦う集団の指揮官だが、そうしたスポーツに当然限らず、ビジネスにおいても、行政であれ軍事、外交であれ、指揮官もしくは司令部の「情報関心」のあり方とは、情報活動においてきわめて重要な着意だろうと思う。


 さて、ここまでが一つの話。
 今度は、少し違った角度からも見てみたいと思う。


 もう一度、バレンタイン監督のスタイルを見てみよう。
 彼は、まず自らの観察における直感、直観あるいは経験知から、ひとつの仮説を立てる。
 それを立証もしくは否定し得るデータを求める。

 情報部隊は、いつでも監督のこうした欲求に応え得るべく、さまざまな基礎データを不断に収集整理している。

 もっとも、だからといって情報は常に監督の求める命題に沿ってのみ提示されるわけではなく、ごく一般的な事項、例えば野球であるから一例として相手投手の球種それぞれの特徴であるとか、配球の傾向、投球時のクセといったことは、まさに一般的フォーマットとして提示されるだろう。
 そうした通常活動の上で、別途指揮官の能動的情報活用、作戦立案のための情報活用ということが行われている。

 このとき、指揮官バレンタインの頭には作戦構想の仮説があり、その裏付けもしくは否定のためにデータを活用するというスタイルがあるということになる。

 ここで僕が思うのは、
 およそ戦闘や競争、戦略や戦術、作戦ということにおいてのみならず、「思索」ということにおいてもこれは実に示唆に富むということだ。

 例えば数学的発見であれ、もちろんその他あらゆる学問的思索であれ、またさまざまな仕事、業務における発案であれ、真に一歩を進める新しい考えとは、下からデータを積み重ね、思考を積み重ねしてはなかなかに得られないものではないかと思う。(あくまで個人的感覚だが)
 そこには必ず、ゴール地点における「仮説」があって、その「仮説」を得ることこそが、発見の核心であり、センスであり、場合によってはまさに天才のきらめきだろう。(いわゆる飛躍、段階のシフト)

 直観する、直感がする、というのは本来、その次元のことだと思う。

 これは、例えばニュートンがリンゴの木から落ちるのを見たときでも、戦史に名高い名将たちが画期的戦術を思いついたときでも、幾多の例に見ることができるきらめきだ。

 たとえば情報社会と言われて長い今日、インターネットを泳げば「情報」というものは文字通り掃いて捨てるほどに氾濫している。巨大なゴミ溜めの中からいかに宝を見つけるか、ということが言われるが、しかしそれも、「何を求めているのか」という「情報関心」なくしては何が宝かも決まらない。

 ネットに限らないが、そこから情報を集めて組み合わせて何かを得ようとしても、単に積み木遊びやブロック遊び同様、ただ並べ替え、言い換えしているだけに過ぎない場合も多い。
 (しばしば学生の卒論などが往々にして「つまらない」と言われがちなのは、それが単に情報の整理や組み替え、並べ替えでしかない場合が多いからだと思う。その場合に欠けているのは、筆者自身の立証しようとする「仮説」であり、視点であり、数ある情報を有意に織っていくべき縦糸たる「意志」だろうと思う)

 僕はバレンタイン監督の話をしながら、「経験知」という言葉を使ったが、直感であるとか直観というものは、その人の中に積み重なってきたあらゆる知見や経験から生み出されるもので、人間力ともいうべきものではないかとも思う。
 バレンタイン監督が自軍の選手を見て、敵チームを、敵選手を見て彼が「仮説」を持つとき、それは彼の長い野球経験の全体から、さらには野球以外の人生のすべてのシーンから生まれてくるものだろう。
 (レフトン氏はバレンタイン監督の野球に限らぬ好奇心の強さというものに感嘆していた。ちなみに余談だが、バレンタイン氏は、学生時代には社交ダンスの全米チャンピオンを3年連続、あるいはパンケーキの大食い大会優勝など、さまざまな経歴の持ち主でもある ^^)

 であるが故に、「思考」というものは本来その人のトータルな人格に自生する草木のようなものであって、そこに何が育つかということは、その土地の豊かさによるだろう。

 理論が理論として提示されるとき、それは下から順をおって論理的に展開され、結論にいたる。
 しかし、矛盾するようだが、その理論が最初に思考されるときには、頭の中では、霧の向こうにかすんでいたとしても、既にゴールの輝きがさきに見えているものではないかと思う。(いや、ごく個人的な感覚だが)
 そして、そこにいたる道をさまざまに論理的に模索していくのだが、その過程が得意なひとと苦手なひとというのはある。
 しかし優れた経営者や政治家には、そのゴールの輝きを見つけ、そこまでの道は部下の専門家に調べさせるというタイプの人も多い、そしてリーダーとしてはそれで十分だと僕などは思う。

 こうした話自体がまさに個人的な「仮説」でしかないが ^^;)、
 そしてあたかもそうした手法はある種天才的な一部の人の話であるかのようにも聞こえたかもしれないがそうではなく、(もちろん生得もしくは後天的を問わずセンスというものはあるかもしれないが、それだけでなく)その人自身の性向であるとか気の持ちよう、気概ということも大きいのではないかと思う。

 もっとも、この話は、「予断」をせよということをいっているわけではなく、「予断」と「直観直感」の差は実に微妙に筆舌し難いのだが、この間のことは、いずれまた何か書いてみたいと思っている。

 しかし、いつも常にあてはまるわけではないが、「仮説」を立てる勇気というものは大切だと思う。
 あるいは、仮説が立つセンスというものは、得難い宝だと思う。
 (科学者にしてみれば、何をいまさら、ということだろうけど ^^;)

 もちろん、先の経営者や政治家の話ではないが、世には適材適所、それぞれがそれぞれの分を尽くすということがあるのであって、誰もがバレンタイン監督になる必要もなく、あるいはプポ氏の側になる人も大切、遙にゴールが見えちゃう人だけでなく、そこまでの道を調べるのに優れた人だって大切であるのは言うまでもないが。

 僕は… 能力の大小はともかく、タイプとしては、どうも途中の道を見つけること、理論武装(理論的帳尻)が苦手なタイプだ。故に、求む人材、といったところか ^^;)
 どうもなさけない ^^;)
posted by Shu UETA at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦略戦術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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