2004年10月25日

正義

 spice boyさんの記事(「正しさ」、 「不正義」)を読んで、いろいろ考えた。
 この記事のうち前者はかれこれひと月以上前のものだけど、なかなか考えがまとまらず、日を過ごすうちに、あらためて後者の記事がupされ、今度こそはと(大袈裟 ^^;)十分に考えがまとまらないまま、現時点で思うところを見つめてみた。

 正義。 正しさ。
 この問題は、いつも、難しい…


 名詞に関する定義や、性質に関する説明の多くの場合(「彼は山田君です」「山田君は男性です」「火は熱い」「月は地球の周りを回っています」など)、つまり知識に関するものは、「正しさ」というものをある程度保証し得る(それでさえ科学的知識などは常に否定される可能性を含む場合が多い)が、問題は、思考や概念に関わることの「正しさ」や、まして行いの「正義」といったものだと思う。

 以下は、こうした思考や概念、行動に関わることに範囲を絞って考え、便宜上、「正しい」思考概念を「真理」、「正しい」行動を「正義」と仮に表現することにする。(ちなみに、名詞や性質に関する前記のものは「真実」とでも)

 個人的な感覚をざっくり言うと、まず万事に付け普遍の「真理」というものを僕は信じない。しかし僕にとっての「真理」はそれなりに存在するし、他の人にもそれは存在すると思う。
 同じように、行為について普遍の「正義」というものも僕は信じない。

 「真理」は、たいていの対象について、人によっても異なり得、また自分の中でもその時点によって異なり得るものだと思う。
 (そんなものは真理ではない、という人もいるが、そうした定義の問題は措く)

 「正義」については、より深刻だ。
 「真理」は言うなれば害のない内面的行為だが、「正義」とはある意味「真理」を「行う」ものであって、正義の感覚を異にする他者との間に摩擦、あるいは衝突が起こり得るものだから。

 そういう意味で、僕は「正義」ということがあまり好きでない。
 そういうものを振りかざす所を見ると、虫唾が走る。

 しかし同時に、「正義」に憧れる。
 義を見てせざるは勇なきなり、というが、自ら信じるところを断行する姿勢は、常に自分に求めているものでもある。
 剣は裁断の心、という言葉が好きだが、神代以来の三種の神器の中で剣が表現しているのは「智恵」である。実に深意が感じられる。

 また、憧れだけではなく、何であれ世に有為を行おうとすれば、何らかの自分の正義を自信を持って行うしかない。世と言わず、小さな職場であっても、家庭にあってさえ、そうだと思う。
 そして今の世は、正義を振りかざすことを疎むあまり、かえって清廉の正義感というものが失われがちでもある。

 こうした感覚の葛藤にいつも考え込んできた。
 真理は自己満足でよいとしても、生活、仕事、政治社会の中での自分の行為は、何を選ぼうと自己満足で善し、というわけにもいかない。


 せいぜい現時点で漠然と思うことは、僕の場合こんな風である。

 ■ 真理については、それを求め続けることが大切ではないか。
 ■ そして正義は真理だけでなく「道理」によって行うべきではないか。
 ■ いずれの場合にも、「私」を無くすことが唯一の救いではないか。

■最初のことについては、ちょうど都合よく、生来僕は自分の思う真理に満足するということがない。どんなに納得して、気に入っていても、「もっとよい考え方はないのか」「他の考え方はないのか」ということが常に頭を離れない。人と意見を戦わせていても、いつも心のどこかに「説得されたい」という欲求があって、次々に論理的に反駁するのは、ちゃんと納得できる考えに納得させられたいという欲求の裏返しとなっている。傍から見ると、自分の見解の防衛に躍起になっている図と区別が付きにくいのだが…
 (自分の想う人が自分を好きらしいなどと人から聞いたときに、「そんなわけない」理由を次々並べて、その全てを上手く否定して欲しいような時の心理、といえばイメージが湧くだろうか ^^;)
 真理を知りたいという気持ちが強ければ、誰でもそうなると思う。自分が正しいか間違っているかということよりも、人が本当に真理を探求したいという時には。

 こうした、現状に決して満足せず真理を求め続ける姿勢を無くした時に、「自分の真理」への拘泥が始まるのではないだろうか。
 僕はblogでも「現時点では、」という断りをよく入れるが、これがまさに僕のそうした心理を表している。探求が終わっていると思われたくないのだ、いつも。

■次の、正義は真理だけでなく「道理」によって判断されるべきでは、というのは、僕独特の「道理」という言葉への定義によるので、説明しないとわからないだろうと思う。

 真理とか正義に拘った態度は、大いに社会性や人間味を欠くことも多く、過度の摩擦や対立を招くこともある。
 きわめて自分流で申し訳ないが、僕の「道理」という語感は、真理のように絶対的印象のものではなく、真理に人間の情緒や社会通念を加えたものだ。そして道理による行為を「道義」と考えている。(あくまで僕の個人的意味づけ)(実際には、一般的に「道義」とは道徳的な意味合いである)

 儒書でよく語られる話に、犯罪(盗みだったかな…)を犯した親を当局に訴えて出た息子の話がある。例えばこの場合、息子の行ったことは正義ではある、しかし道義ではない、というのがこの考え方である。(ちなみに孔子も息子を非難しているが、これは「孝」という観点から)
 いや…どうも適切な例ではないが…道義によっても例え親なりと当局に連れて行く必要はあるか… ^^;) しかし言わんとすることはそういう種類のことである。

 正義は真理に基づくのだから、他人の考えを聞く必要などない。しかし道理は、さまざまな真理観を聞くのが、それを探る道のひとつでもある。「一千万人といえども我行かん」というのは潔く勇ましい(僕もこの心理自体は好きだ)が、しかしこれは正義であっても、道義ではないのだろう。

 あるいは「適切」ということも。道義、道理とは、正しいか正しくないかよりも、適切か適切でないか、という判断に基づくものだ。

 うまく表現できなくて申し訳ないが、何も僕は、情によって正義を踏みにじることを善しとしようというのではない。
 しかし、たとえば民主的ということも、万機公論に決すべしということも、これはそもそも絶対の真理があってそれに基づいた正義を行うこととは、むしろ相反する概念だと思う。そんなことができるのは神のみであって、政治体制でいうならば専制君主のわざである。(こうした点で、米国の正義の振りかざし様が帝国主義的批判を受けるのはもっともなことだ)
 さまざまな真理観、立場、想いを持ち寄って、その中に「道理」を探っていくのが、万機公論に決すということだろう、と。
 (そうした意味で、僕は「正義国家」などではなく「道義国家」という標榜が好きである。僕自身のスローガンの一つでもある。しかしそれを言う一部の政治家が「道徳国家」と言わず「道義国家」と言うからには、やはり「道義」には何がしか国語辞典の説明(道徳)以上のニュアンスがあるのだろう。)

■最後に、「私」をなくすということについて。
 真理の主張が対立する場合、必要なのは、「私」を捨てて相向かうことだと思う。自分の(その時点の)考えに執着するのではなく、より大なる目的なり存在を念頭にしたいものと思う。
 それは、真の真理を求める気持ちでもよいし、あるいは自分という「個」ではなく「全」にとってどうなのかという意識である。

 たとえば仕事における会議でさえも、真の目的は会社であれば売り上げなど、組織の目的追求にあるべきところが、自分の意見の否定が自分の人格否定であるかのように自己の意見に拘泥する人もいる。もとより深い考えではなく気軽に言った一言だったのが、それが否定されたところから、その一言の防衛にムキになり、もはやそれを補強することのみに全力を注ぐということもある。ことこうなれば、何かで溜飲を下げさせない限り、もう何を言っても無駄だ。

 あるいは、今日の野党の姿勢もそれに近い。すでに自らの意見は決まっているのであって、何を言われようとも、それに言い返す論を考えるだけであり、国会は道理(ましてや真理など)を探る議論の場ではなく、野党による批判のための批判を政府与党が受け付ける場に過ぎない。

 こうしたことでは、文字通り正義の摩擦と対立が起こるだけだ。
 「個人」を追求してきた戦後日本のやむを得ない帰結かもしれないが、政治に限らず、社会でも、職場でもどこでも、自分よりもう一段上の立場で真理を、正義を考えるという姿勢が欠けていることが実に多い。

 もうひとつ、どんなに真摯な態度で臨み、いかに真剣に考えても、なお真理などというものに人がたどり着けるとは限らない。道理についても、それがベストであると保証することは誰にもできない。しかしそれを断行しなければならないというときに、どのような結果であれ自分が矜持を失わずにいられるのは、それが「私」にとらわれた判断ではなかったと胸張って言える場合のみである。

 葉隠聞書の有名な一節のひとつ、
 「ふたつふたつの場にて 早く死ぬ方に片づくばかりなり」
 これは、判断に迷った際には、死にやすい方を選べということである。なぜなら、迷う時には、自分自身知らず知らずに、我が身が安全な方にどうしても理屈が多くつきがちだから、判断を誤りやすいと。
 そして、死んで失敗しても、我が身可愛さによる誤判断ではないという誇りは傷付かない、と。
 少し違うが、しかし何か似たものを感じる。


 十分に考えがまとまっていない途中経過的な時点で無理をしたせいか、ただただ徒に冗長となってしまったが、こうした感覚を今の僕は持っている。




posted by Shu UETA at 14:06| Comment(0) | TrackBack(1) | 武士道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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不正義
Excerpt: 私は、自分の考え、主観を絶対とは思っていない。正しいとすら思っていない。認識も思考も感覚も人の数だけ存在するものだし、しかも、絶えず変化し続け、一定することはない。ゆえに、絶対の「正しさ」など存在しな..
Weblog: spearmint cafe
Tracked: 2004-10-25 21:58
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