関東では非常に有意義に日程を過ごし、さきほど無事帰神。
帰神といっても、古神道に鎮魂帰神というような一種神憑り状態になることを指すわけでは当然なく、ただ神戸に帰ったということだ。^^)
土曜の晩、西條さんやAくん、そして後輩のnobと囲んだ食事のひとときは、なんとも楽しい胸躍るひとときだった。
そしてこちらこそは、まさに神々の集いにも比したいくらい、少なくとも後世にはそう称されることを夢見たくもなるようなものだった。^^)
西條さんは、品よく穏やかな物腰の内に、鬼神の如き面目をも秘しているようにお見受けした。
共感の根はそんなところにも、あるかもしれない。
ご本人がそれを諒とするかどうかはともかく、
少なくとも僕から観れば、
僕が自身についてそうであるとも、そうありたいとも、あるいは僕がそれはそうあるべきだと個人的に思うような意味で、彼は一個の侍だ。
出逢いとか縁とかいうものはいつだって、なかなかに個人の力を超えたところからやってくるもののようだけれど、文字通り実に有難い縁を得たものだと思う。
Aくんは、よき先輩を得たかもしれない。
早速、酒のいただき方まで。(体育会系のね ^^;)
しかしそれは彼にとって実によいことだと思う。
僕の後輩のnobは、これで19才か…とAくんに驚嘆していたけれど、しかし僕は同じく君にも期待しているのだよ ^^) (もちろん分野や路線は異なっても)
でなければ、毎度毎度メシやサケに誘いはしない。(正直、酒があるような席に僕から誘うなんてことは実っつに稀なのだから、本来は ^^;)
さて、しかし今回はあらためて、逆説的な意味で「言葉」なんてものの限界を感じた。
言葉をどれほど費やそうと、真に通じないものは真には通じないということを、ひとはいやというほど、幾度だって感じることがあるものだけど、
(そしてそれでもそうした努力を僕は愛するものではあるけれど)
しかし、いちいち言挙げせずとも、通じる相手には通じるものらしい。
言葉はただそれを確認するために、味わうために、昨夜も僕らの間では使われたに過ぎないようだった。
今度は、鍋は余計かもしれないな。
あるいは早々に片づけて、
杯を重ねながら、談論風発といきたいものだ。
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