2005年10月11日

TV「杉原千畝」


 本日はテレビで、終戦60年ドラマSPとして、「日本のシンドラー杉原千畝物語」が放送されていた。
 反町隆史なら、なかなか似合うかもしれないと思って、いくつかの裏番組を録画しつつ、見てみたのだが…
 やはり案の定、(主人公の人柄を際立たせたいと欲求もあろうが)故意に偏向して、当時の日本政府、ひいては多くの日本人同僚を悪し様に描き立てている。



 「なぜか、日本人だけが知らなかった」とはこの番組の宣伝コピーだったが、
 この番組はさらに輪を掛けて、日本人が知っておくべきその他多くのことを伏せ隠している。

 戦前の日本政府、日本人にとって、国際的な民族差別ということほど神経をとがらせた問題はなく、実に日本人、日本政府は一貫して民族差別の撤廃、平等を訴えて、それこそ世界(といって要は西洋諸国だが)を相手に孤軍奮闘していた。
 国内ごく一般国民の間においてさえ、来日した諸外国人(なかでも黒人)が、およそ世界のどこでも享受できない平等な扱いに感動したというエピソードは枚挙に暇がない。

 しかしもちろんこのドラマでは、主人公の同僚たちは、ユダヤ人に対する異様な差別観を見せる。

 外務省本省の苦悩も全く描かれない。
 実際、日本としては、日独伊の枢軸を視野に、たいへんな板挟みにあったのだが、むろんドラマで描かれる主人公の上官、本省は、ユダヤ難民に対する一顧だに示さない。

 まあ…しょせん二流の娯楽ドラマと思えばやむを得ないことではあるが、しかし、彼ら制作者が言うとおり「日本人が知らない」のをよいことに、これを視聴した人々には、今後はこれが新たな認識にもなり得るのであって、実にドラマというものの影響力を考えると、そしてスタッフ、俳優陣が頑張ってよい作品にすればするほどそれはいや増すのであって、「なんだかなあ」という気分にはさせられる。

 当時のユダヤ人救出に関わる世界各地での日本人の努力は、数々の資料に見ることができるが、国際派日本人養成講座の過去記事から、いくつか引用して紹介しておこうと思う。(掲載号へのリンクは末尾に後述)

 そして、真実を真実のとおり描いたからといって杉原氏の行為の立派さが些かも減じるわけではない。

 (しかしテレビ的には周囲、ましてや軍国主義日本を悪者にしないと盛り上がらないと考えたいのだろう --;) もちろん、駅頭でわき起こった「ニッポン バンザイ」のユダヤ人達の声もドラマでは当然描かない。)

 
 
■7.日本帝国全体の原則■

 ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェーデンにさえも、門前払いを食わされているユダヤ人。「誰もが閉ざした扉を、どうしてあなただけが開いたのか?」レビン教授の届かなかった手紙は問いかける。

 この疑問に駆られて、レビン教授は、杉原の子供時代からの
一生をたどり、さらに当時の日本の外交政策まで、丹念に調べ
ていく。そして発見したのは、扉を開けていたのは杉原だけで
はなかった、という事だった。

 40年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本
領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた。特に目立つの
は、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、
モスクワなどだ。[1,p331]

 その前提となったのが、39年12月の5相会議(首相、外相、
蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要
綱」だった。ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張して
きた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、
公正に扱うべきことを方針としていた。[1,p267][b]

 当時の外相、杉原の直接の上司だった松岡洋右はこう言って
いた。「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、
私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の
考えではない。日本帝国全体の原則である。」[1,p171]

■8.難民を感動させた神戸での援助■

 いわば、ヨーロッパ各地の日本領事館の扉は、人種・国籍に関わらず、ユダヤ人に対しても公平に開けられていたのである。
 そして杉原は、たまたま多数のユダヤ人難民が追いつめられていたカウナスで、職権上許されるギリギリまでその扉を広く開けて、彼らを迎え入れたのであった。

 杉原はソ連の命令でカウナスの領事館を閉ざしてからも、プ
ラハの領事代理となり、そこでさらに多くのビザを出した。こ
の頃、松岡外相は各国派遣大使の大量馘首に着手していたが、
杉原はそれを免れている。外務省は杉原の行為を問題視してい
なかったのである。[1,p448-452]

 松岡の言う「日本帝国全体の原則」は、発給だけではなかっ
た。難民たちはシベリア横断鉄道の終点、ウラジオストックか
ら、船で敦賀港に渡り、神戸に出る。日本の警察官、通関担当
者はみな親切だった。前節のL・カムシ姉妹は、杉原ビザの滞
在期間が10日間なのに、2ヶ月神戸にとどまった。神戸では
ユダヤ人協会や、多くの神戸市民が援助してくれた。その後、
アメリカにいた親戚から届けられたビザでサンフランシスコに
渡った。今はニューヨークの郊外で暮らしている。[1,p437]

 ビザのとれないユダヤ人には、上海に渡る道があった。この国際都市は日本軍占領下で、2万7千人を超すユダヤ難民が比較的安全に暮らしていた。

■9.杉原とシンドラーとの違い■

 杉原は「日本のシンドラー」とよく呼ばれるが、両者の行為は本質的に異なる。私財をなげうって、ユダヤ人たちを助けたというシンドラーの行為は、あくまで個人的な善行である。それに対して、杉原の行為は、「日本帝国の原則」に基づいた国策に則ったものであった。それは、人道と国際正義にかなうものであると同時に、我が国の国益にもつながるものであった。

 日本がロシアからの侵略から独立を守るべく日露戦争に立ち
上がった時、ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力した
のがアメリカのユダヤ人指導者、銀行家のジェイコブ・シフで
あった。日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを
通じて引き受けられた外債によるものだった。日本人はシフの
助力に深く感謝し、ユダヤ人への好意を抱いた。[1,p47]

 1924年成立したアメリカの移民法は、日本人とユダヤ人の移民に対して、もっとも厳しかった。行き先を失ったユダヤ人は難民として中東欧にとどまり、反ユダヤ主義の標的となった。
 日本人移民はアメリカから閉め出され、満州に向かった。

 ユダヤ人が独ソから追い立てられ、米英からも閉め出されて逃げ場を失った時、日本も英米のブロック経済化と、石油や鉄鋼、機械などの対日禁輸政策により生存圏を奪われつつあった。
 この時、日露戦争時と同様、日本は生存のために、ユダヤ資本との結びつきを探っていたのである。

 ユダヤ人と日本人は、共通した悲劇的運命を生きつつあった。
 そこに互いへの同情と連帯の心が生まれるのは、自然の成り行きと言える。

■10.「文明国」とは■

「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がも
っと文明国だということを知らせましょう」

 杉原の言葉は、このような状況の中で発せられたのである。
 それは広大な国土を持ちながら、人種差別感情から日本人やユダヤ人移民のみを厳しく制限したアメリカへの痛烈なしっぺ返しであった。

 杉原の言う「文明国」とは、進んだ科学技術や経済力を持つ国の事ではない。その国策が国益を追求しながらも、同時に人道と国際正義にかない、他国との共存共栄を目指す国と定義できよう。ユダヤ人の虐殺や追放を国策とした独ソは言うにおよばず、人種的理由から厄介者扱いした英米もこの点では「文明国」とは言えない。

 杉原は、少なくとも人種平等という点においては、日本の方がはるかに文明国であることを知らしめようとしたのである。
 その行為は、個人的な善行というよりは、日本国民を代表する公的なものだった。レビン教授は次のように言う。

 私の著書「千畝」は、そう遠くない将来、ハリウッドで
映画化されることになっている。この映画が公開されれば、
世界中の人が「スギハラ」という日本人を知ることになる。

 世界中の人々が、彼の精神や行動を育んだ日本の風土と
文化に強い関心を持つことになるだろう。そして、これま
で以上に日本人に対してさらに深い尊敬の念を抱くだろう
ことを私は期待している。[2]

 杉原への尊敬の念は、日本人全体におよぶべきものだ、とレビン教授は言う。とするなら、現代の我々は、それに値するような「文明国民」となるという課題も同時に継承していると言えよう。



 
 
   大量のビザ発行手続きに関しては、外務省訓令を逸脱してい
ており、これをもって杉原の行為を、国策に反した個人的善行
と見なす見方があるが、五相会議決定、安江機関、犬塚機関と
いう一連の流れの中で見なければならない。杉原自身はユダヤ
人救出の動機を後年、こう述べている。

 それは私が、外務省に仕える役人であっただけではな
く、天皇陛下に仕える一臣民であったからです。悲鳴を
あげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、もしここに
天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか、ということ
でした。陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろ
うか。それとも温情をかけられるだろうか。そう考える
と、結果ははっきりしていました。私のすべきことは、
陛下がなさったであろうことをするだけでした。

 もし外務省に(ビザ発給に関する)訓令違反を咎めら
れたら、私が破ったのは訓令であって、日本の道徳律で
はないと思えば良いと腹を決めました。




 
 
 1919年、国際連盟の創設に際し、人種平等条項を入れるように
提案した(本講座53号、米国大統領の拒否により失敗)事に見
られるように、当時の日本は有色人種の先頭に立って、人種平等
を訴えていた。その立場からしても、ユダヤ人排斥は当然反対す
べきものであった。

■3.ユダヤ人の脱出ルートを確保した日本■

 この方針は現実に適用された。当時の日本軍占領下の上海は、
ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だっ
た。ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満州のハルピンを経由し、陸
路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオスト
ックから、敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートを
とった。

 杉原千畝氏が命がけで日本の通過ビザを発行した6千人のユダ
ヤ人難民は、後者のルートを通った。そして、前者のルートで3
万人のユダヤ人を救ったのが、本編の主人公・樋口季一郎少将で
ある。

 ちなみに、当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が
滞在していた。42年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポ
(秘密治安警察)要員が3度にわたって、上海を訪問している。
この事実をつきとめたドイツ・ボン大学のハインツ・マウル氏は、
上海にドイツと同様のユダヤ人強制収容所を建設する事を働きか
けたと見ている。

 しかし日本側は居住区を監視下においたが、身分証明書を示せ
ば自由に出入りできるようにしており、大半のユダヤ人は戦争を
生き抜いて、無事にイスラエルや米国に移住した。

 猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、新たに
難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、ここでも
「全面的にユダヤ人を排斥するのは、(諸民族の融和を説く)八
紘一宇の国是にそぐわない」とした。樋口季一郎少将はこの精神
をそのまま体現した人物であったと言える。



 
 
■6.日独関係とユダヤ人問題は別■

 大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっ
せいに樋口を包囲した。イギリス系の記者が、ぐさりと核心をつ
いた質問をしてきた。

 ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに
水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知し
てして、あのようなことを口にしたのか。

 樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンにや
わらかい微笑をかえして言った。

 日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、
ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のな
いユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来か
らの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを
助ける気質を持っている。・・・

 今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。し
かし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害すること
を、容認することはできない。・・・

 世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考え
てやらない限り、この問題は解決しないだろう。

 樋口の談話は、それぞれの通信網をへて、各国の新聞に掲載さ
れた。関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から逸脱した
言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。ユダ
ヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったもの
であったからであろう。



 
 
 樋口を待っていたのは、「不問」どころか、参謀本部第2部長
への栄転だった。ドイツからの「善処」要求のわずか5ヶ月後に、
このような人事を行ったということは、「人種平等を国是とする
我が国はヒトラーのお先棒は担がない」という強烈なメッセージ
ではなかったか。

 出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつく
されていた。その人波の中には、数十キロの奥地から、わざわざ
馬車をとばして駆けつけてきた開拓農夫の家族たちなどもまじっ
ていた。樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。



 
 
   ゴールデン・ブックは、ユダヤ人の保護・救出で功労のあっ
た人を顕彰するためのものである。この時、吹雪の中で2万人
とも言われるユダヤ難民を救出した樋口季一郎少将、および、
樋口・安江と力をあわせてきた満洲ユダヤ人社会のリーダー、
カウフマン博士もともに記録された。

 恐らく同時期であると思われるが、海軍の犬塚惟重大佐も、
ゴールデン・ブック記載の申し出を受けた。犬塚大佐について
は、いづれ稿を改めて紹介するが、犬塚機関を作って、安江大
佐とも協力しながら、上海のユダヤ人社会を保護した人物であ
る。犬塚大佐は次のように述べて、申し出を辞退したという。

 私の哀れなユダヤ難民を助け東亜のユダヤ民族の平和と
安全を守る工作は、犬塚個人の工作ではなく、天皇陛下の
万民へのご仁慈にしたがって働いているだけである。

 私はかつて、東京の軍令部にいた時、広田外相からこん
な話を伺ったことがある。広田外相が恒例の国際情勢を陛
下に奏上申しあげたうちでナチスのユダヤ虐待にふれたと
ころ、陛下は身を乗り出されて憂い深げにいろいろご下問
なさるので、外相は失礼ながら陛下はユダヤ人を日本人と
思い間違いあそばしているのではないかと不審に存じ上げ
たが、陛下は「いやユダヤとわかっているが、哀れなも
の」と仰せられて、そのご仁愛のほどに恐懼したというの
だ。私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、し
いて名前を載せたければ陛下の名を書くように。



 <同誌関連号へのリンク>

  時間さえ許せば、ぜひ、すべて目を通してもらいたいと思います。^^)

 ■ 届かなかった手紙 〜あるユダヤ人から杉原千畝へ〜
 ■ 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
 ■ 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
 ■ 大日本帝国のユダヤ難民救出

 ■人種平等への戦い
 ■人種平等への旗手 〜米国黒人社会の日本観


posted by Shu UETA at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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