2004年10月12日

規制目的二分論に見る利害調整過程の透明性確保

 今日、「法学セミナー」の10月号(10月号というのも今さらだが… ^^;)を見ていたら、時宜もよろしく、独占禁止法改正を見据えての独禁法特集があって、なかなかおもしろかった。

 中で、例の規制目的二分論に関する名大の愛敬浩二助教授の論考があったが、その論中、東大の長谷部教授の論が引用されており、この論説が非常に我が意を得たりといった感じで(僭越不遜ながら^^;)、頗る納得。


 適正配置規制、いわゆる距離制限を例にひいて、お約束ながら小売市場事件と薬事法事件の判例について、積極的政策的規制と消極的警察的規制の差について論説している。
 (法学出身でない人は、こちらに両判例が網羅されていますので参照を(もし興味あれば)。ちょっと他によいページが見つかりませんでした ^^;)
 (薬事法事件のみについてなら、薬局距離制限事件(レジュメ)、薬事法違憲判決(判決文)もありました)


 小売市場事件については、いわば弱者保護ともいえる積極目的規制であって、明白の原則に則って、規制は違憲ではないとの結論、薬事法事件については、国民の福祉、生命健康危険防止という消極、警察的規制であるから、厳格な審査により、よりゆるやかな他の規制手段の有無等の考慮が必要で、この事件では結果として違憲判決となっている。

 この、積極目的規制と消極目的規制という分類について、いろいろ議論されているところだが、立法府の判断尊重の要否がひとつのカギだろう。
 この両者の区分自体が曖昧だということも問題のひとつではあるが。

 さて、ここで長谷部教授の論が引用されていた。
 実は立ち読みにつき、うろ覚えだが…概ね以下のような内容。

  民主過程を、多様な利益集団の抗争と妥協の過程と見るならば、裁判所の役割とは、そうした過程における各利益集団の政治活動が透明、公正に行われ得る環境を確保することである。

 この場合、小売市場事件については、業界の保護を目的として、上記のような利益集団間の調整の場として国会が役割を果たした結果であって、調整過程の透明性はある程度確保されているのであり、裁判所は、立法府たる国会の意思決定を尊重し、明白に憲法に抵触しない限りという、ゆるやかな審査、つまり明白の原則によって判断する。

 一方、薬事法事件については、国民一般の福祉を目的としたという形式であって、明瞭に利益集団間の調整過程によったものではなく、裁判所は、厳格な合理性の基準で審査しなければならない。
 そうすることによって、利益集団には、積極目的立法を目指すというインセンティブがはたらき、対抗利益集団、国民が正確な情報を得るためのコストが低下する。


 実際には、あくまで現実を解釈する論といった感もあるものの、私はこうした意義のとらえ方に概ね賛成だ。

 ちなみに、これを引用した愛敬助教授自身は、うまくまとめたものだと評価した上で、「しかしながら、民主過程を、市民が自ら公的討議への参加などをとおして、よりよい政治経済のあり方を決めていく過程、といったふうに魅力的に描けないものか」とコメントしていた。

 このコメントの気持ちも十分理解できるが、私の感覚では、その「市民」の意識の、少なくとも現状としては、自らの利害以外に「公的な」判断基準を持つ多数の「市民」を想定するのは困難かな…とも思う。
 ここが民主主義システムの理想形と現実のギャップの大きいところ、かつ、目を背けず正視すべき点かと思うし、そのギャップを補うべく、理想型にさまざまに修正を加えながら、少しでもベターなものにしていく努力を続けていく、それが民主政体かな、と。

 現実問題として、日本に限らず(いや多く日本以上に)先進民主主義国家の政治とは、さまざまな利益集団の文字通りせめぎ合いの中で、勝敗なり妥協の調整過程を経て、動いていくものであり、そうしたことを可能としていることだって民主主義政体のメリットのひとつであって、それを認めた上で、だとすればそれらがいかに公正に、透明性をもって進展する環境を整備するかということは、そんなにも魅力を甚だしく欠くとらえ方とも思わない。

 (実のところ個人的には、こうした問題をもつ少なくとも現行の民主政システムを信奉してはいないが、まだ次を思いついていないので、現体制においてはという留保つきで、上記のように考えている。)
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posted by Shu UETA at 21:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Shuさんの民主主義に対する考え方がよく理解できて、たいへん面白かったです。僕は法学出身ではないのですが、適切な判例を挙げていただいたのが良かったと思います。民主主義に関する議論はともすれば抽象論に陥りがちですから(愛敬助教授のおっしゃる、討議デモクラシー論などはその典型例です)。

さて、Shuさんのデモクラシー観は、アメリカ政治学の利益集団論(多元主議論)によく似ていると思いました。おのおのが私的利益を追求していくうちに、自然と(神の見えざる手が働いて?)勢力均衡に到達するという解釈です。したがって、この均衡機能が適正に作動するように透明性を高めたり、余計な阻害要因を除去したりすることが、立法や司法の重要な役割である、と。

こうした解釈をShuさんがお持ちであるということは、僕にとっては嬉しい驚きです。Shuさんは法学畑のご出身でいらっしゃるのでしょう?普通、法学者の方はもっと規範的な「べき論」で民主主義をとらえているものと思っていましたから。Shuさんのデモクラシー観は、政治学畑の住人である僕には非常に馴染み深いものです。

さて、僕の意見も述べねばなりません。Shuさんのお考えと、大きくは変わらないと思いますが…。

>自分の利害以外に「公的な」判断基準を持つ多数の「市民」を想定するのは困難かな…
とも思う。

同感です。こうした市民が多数存在することが、民主主義システムが成立する唯一の条件ではありません。私的利益を否定して公的利益のみを強調することは、むしろ全体主義に近づく怖れもあると思います。

「公的な」判断基準が求められているのは、非統治者である利益集団、市民の側ではなく、統治者である立法府ではないでしょうか。個々の政治決定は私的利益の調整の結果にすぎなくとも、政治家が「公的な価値観」と結びつける努力をしなければ、政府の政治的
求心力が揺らいでしまいます。形式的にはデモクラシーを取り入れている南米諸国、東南アジア諸国の政情が不安定な理由は、政府が「あからさまな私的利益」を追求しているからでしょう。

すいません、長く書きすぎました。
Posted by priestk at 2004年10月14日 21:01
> priestkさん

 いえいえ、長さは全っっったく気にしなくて結構ですよ。スペースを気にするあまり意図が十分に伝わらないよりは。^^)
 こうしたことを短く書けというほうが余程無理がありますしね。

 さて、たしかに、公的立場の過度の追求の危険性は尤もなことですね。特に私が非常に陥りがちな陥穽です。(要注意要注意 ^^;)

> 政治家が「公的な価値観」と結びつける努力をしなければ

 これが問題ですよね。
 これをただ政治家個々人の良心に期待するしかないとしたら、それは大きなセキュリティホールになりますよね。
 システムとしていかにそうしたインセンティブを確保するか、また、それだけに頼るのではなく、それが保障され得る何らかのシステムが整備されないといけませんね。
 考えどころです。

 さて、ところで僕は法学部に在籍でしたが、大学時代にはサークル活動以外していなかったので、法学出身といっても、なんちゃって(死語)です ^^;)
 法学者は、法の解釈と運用に目を向ける余り、「べき論」的性格になりやすいのでしょうね。立法という立場の学者さんは、また違った視点を持ちやすいのでしょう。
 出身に関わらず、僕は政治学への指向が強いので、また多少視点も異なっているかもしれません。
 しかしその方面で正規の教養プロセスを踏んでいないため、priestkさんのような人からいろいろ勉強させてもらおうと思っています。

 実は、「政策過程」を入手して、これから読むところです。
 素直な学生でしょ?今後ともよろしく、です。^^)
Posted by Shu at 2004年10月14日 22:31
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