2004年10月12日

信賞必罰(前編)

 ※ 名将言行録マガジン13号関連記事

 「名将言行録」第13号では、山中鹿之助の主君への諫言から、信賞必罰ということについて少しお話ししました。

 組織と信賞必罰、ということについて、もう少しお話ししてみたいと思います。

 マガジン記事でも書いたとおり、信賞必罰という言葉は、まるで耳新しい言葉でもなく、しばしば語られることです。
 賞すべきを賞し、罰するべきを罰する。

 誰しも当たり前と思っていることですが、しかし、現実にはこれがしっかりと行われていない組織は多いものです。
 しっかり行われていない場合とは、どのような場合でしょうか。

 ひとつは、基準が不明瞭で、その時々の雰囲気や感情に左右されるという場合があるでしょう。
 同じことをしているのに、ある時は賞され、あるときは賞されない。
 また、ある時は罰せられるのに、あるときはそうでない。
 上司等の気分次第であったり、周囲の空気、雰囲気によって左右される。

 また、単純に依怙贔屓ということも、無いようでいて意外にあるものです。
 上司となって勤務評定などを行った経験がある人はよくわかると思いますが、部下を客観的に見るということがいかに難しいか、これは意外なものがあります。
 平素会話を交わすことがたまたま多いか少ないかだけでさえ、思いの外それに影響される自分に驚くこともあります。また、人間である以上、虫の好く好かないということも、そうした感情自体を排除するのは難しいものです。
 こうした客観性を自分に言い聞かせることが意識的である正規の勤務評定のような場においてすらですから、まして、平素の業務の中での称賛や叱責のレベルとなると、相手やその時の気分次第で、明確な基準を欠くことは往々にして起こりがちです。

 また、やや高度な状況になると、マガジンで紹介した鹿之助の例のように、上司が他の気づかいとの板挟みにより、結果的に公正を欠くということもあります。
 鹿之助の例では、他を賞することで他を貶めることにならないか、という気づかいからでした。
 他にも、罰するべきことと賞するべきことが同時に起こった場合の板挟みということもあります。
 時代ものなどでよくある、軍陣の掟を破って抜け駆けをしたが、そこで大きな手柄を立てた、などといった場合です。

 また、組織のシステム的な問題もあります。
 ひとつは、特に大組織において、賞罰システムのマニュアル化が進んだあまり(本来、公正さを期してのものですが)、その賞罰システム自体が形骸化して、単に順番的に、持ち回り的に賞がまわされていくような状態です。妙な平等意識が働いていることもあります。
 これは馬鹿げた悪平等のよい見本ではありますが、こうなると、最早その賞自体、何の有り難みもなくなり、モチベーションに寄与するところは皆無となっていきます。

 もうひとつは、これも大組織において、賞罰システムのシステム化が進んだ結果、現場の直接の上司の手から賞罰権が失われているということもあります。
 現場において直接部下を指導している上司の立場で、自分の権限によって賞や罰を与える権限が無いような場合です。

 さらにひとつ、多くの組織において、罰は厳密に適用されるが、賞についてはきわめて手薄であるということも見られます。
 こうした組織では通常、先に述べたような賞の形骸化が顕著である場合が多いです。

 こうしたことは、どのように着意して防ぐべきでしょうか。
 現時点の私が思うことは、以下のようなことです。

 1 杓子定規覚悟であたる
 2 何を見ても「賞罰は?」と自問するクセをつける
 3 直接権限がなければ、上申やアピール等、自分なりにシステムを工夫
 4 正規でない賞罰、つまり平素の称賛や叱責を上手く使う

 賞罰というのは微妙なもので、実際には、機械のような杓子定規では、かえって血肉の通わないものとなることもあります。これは、運用のセンスともいえることでしょうが、しかしながら、まずは、何より公正さを実現することが先決だと思います。
 そうしたセンスは追々身につけるとしても、まずは、公正であること。そのためには、杓子定規を覚悟で、公正な基準の適用を、まずは心掛けるべきだと思います。

 後述する賞罰の意義にも関わりますが、まずは、部下の行ったこと、結果に対して、いかに些細なことであれ、まずは「この賞罰は?」と胸中に自問する習慣をつけることが有効だと思います。
 何らかの報告を受けるたび、結果を見るたび、必ず「この賞罰は?賞、あり、中くらい、罰、なし」あるいは「賞、あり、大、罰、あり、小」といった簡単なものでもいいのです、それを考える習慣が有意義といえます。
 こうした習慣があれば、賞罰に抜けが出て統一性を失ったり、気分や空気次第で左右されることもある程度抑止することができるのではないでしょうか。

 自らに直接賞罰を決定する権限がないような組織では、自分なりのシステムを工夫するべきだと思います。
 これは、例えば、権限者である上司に上申する、あるいはそうした正規の形式ではなくとも、上司に部下の成果をアピールするなど、自分なりのシステムをつくるのです。
 ちなみに、部下を自分の上司にアピールするということは、特に「賞」において私が個人的に大好きな方法です。上司は、部下の部下のこととなると、あまり知る機会がありません。しかし、人事においては、自分よりも大きな権限を持っているものです。
 しかしそうした実利面よりも良い点は、部下がある日自分の上司の上司にあたるような人物から一言でも褒められたなら、とてもいい気分になれる、ということです。
 あなたは、あなたの上司に、こう言うのです。
 「今回の件は、彼が非常によくやってくれました。かくかくしかじか… 今度もし見かけることでもありましたら、ぜひ一声かけてやっていただけませんか」
 といったふうに。
 上司は上司で、こうしたことを言われて悪い気はしません。自分が目の届かないところの働きについて、
 「お、○○君、先日の件は、よくやってくれたな!」などと声をかけれることは、嬉しいことです。
 先に言ったように、むろん、言われたほうも悪い気はしません。ちゃんと上の人までわかってくれているんだな、とも思うかもしれません。
 もうひとつ、こうしたことは、組織の上下のつながりを良くするという効果もあります。(組織にはきわめて重要なことです)
 ぜひ、大いにこうしたことをやってあげてみて下さい。

 正規ではない賞罰、つまり平素の称賛や叱責をうまく使うということ。
 これは、組織の規定にそった正規の賞罰の次元ではなくとも、上司による称賛や叱責そのものを、しっかり賞罰という認識で行うべきだということです。
 ある意味、これこそ、もっとも等閑になっている賞罰ではないでしょうか。
 先に述べた、「賞罰は?」の自問の習慣でもって、褒めるべきは大いに褒める、叱るべきは大いに叱る、これをしっかりやっていなければ、信賞必罰が実現しているとはいえません。


 信賞必罰が適切でないケースと、それを防ぐべくどのように着意すべきかということを述べてきましたが、さて、ところで、そもそも果たして賞罰が適切でなければならない理由は何でしょうか?
 これは常識的な問いだと思うかもしれませんが、少し考えてみましょう。

 (後編に続く)



posted by Shu UETA at 17:22| Comment(0) | TrackBack(1) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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