2005年10月08日

主権


 今日まさに憲法改正案がさまざまなところで検討されているところだが、憲法といったものにおいて最も根本的なテーマに属するもののひとつでもある「主権」という概念について、ふと近頃いろいろ考えたりする。

 僕は、どうも「主権在民」だの「国民主権」だなどという言葉が好きでなくて…というとちょっとした問題発言のようにも聞こえるが、そうした方面のつもりはなく、単に僕は、民主制に主権者など不要ではないのかと思っている。

 多分に非現実的(よく言えば冒険的 ^^;)、な話なので、気軽にどうぞ。





 真に個人的には、そもそも「主権」などという概念にいちいち万国がいつの時代も付き合う必要などないと思うのだが、もはや日本も今さら急には脱しきれぬくらいに完全にその枠組みに囚われてしまっているし、また、今日のような国際的な時代においては、相手の概念、言葉で自らを説明できることも何ほどか有益であろうとは理解している。
 (保守だのリベラルだのエトセトラといった思想立場の既製品についても同様)

 先年、民主党は「憲法提言中間報告のポイント」として、主権の「移譲」や「共有」などという言葉を使って、庶民レベルでさまざまなあらぬ非難を受けていた。

 
(1)グローバリゼーションと情報化に伴う新しい変化や価値に応えるために。
 ◆国家主権の移譲や主権の共有へ
 ◆アジアとの共生



 もちろん、これには批判する立場も多々あるだろう(し、僕も批判的立場だ)が、「あらぬ非難」というのは、ネット上などでもしばしば散見された、いわく、「主権在民なのに、どこに移譲するのか?政府か?」「外国に主権を移譲して傀儡国家にでもなるのか?」といったようなものだ。
 これを見ると、「主権」という言葉が、一般的レベルではいかにあやふやなものか、ということについてしばし考えさせられてしまう。^^;)
 いやいや、相手にするなとは言うまい、皆んな有権者なのだ。^^) (もちろん憲法改正の国民投票にだって参加するはずだ)

 言うまでもなく、これは、「主権」という言葉の多義的性格による混同だろう。

 ひとつには、国家権力のいわゆる独立性といった「外に向けて」の主権、
 「外に向けて」というならあるいは、領土領水に及ぼす統治権としての主権、
 また、最高性といった「内に向けて」の、権力主体としての国内最高性、
 そして、より一般的感覚としての、国政についての最高決定権としての主権。
 それから、さらに言えば、権力の正統性を裏付ける究極的権威の所在としての主権。

 我が国が主権国家であるということと、政体として国民主権であるということは少し種類の異なる話だ。
 で、以下の話は国民主権という場合の「主権」について。

 いずれにせよ、主権という概念自体が、近代集権国家化の過程で君主権の絶対性、権力の集中を説明すべく生み出されたものであって、それ以前には、例えばあれほど政体のパターンが出尽くした観がある古代ギリシアの政治学的試行錯誤においても見られないものだ。

 そして、その君主との政治的対決において、君主主権のアンチテーゼとして国民主権ということが掲げられた。
 この段階では、実にわかりやすく有意義な宣言であって、要は、国政の決定権は君主ではなく国民に、ということであり、「主権者を無くす」と言うよりも「主権者は国民だ」と言ったほうがはるかにキャッチーだ。(死語 ^^;)

 「主権」なんてものは、ことほど左様に絶対君主の双生児のような出生をもつものであって、それ故に、時代が移り持ち主が移ろうとも、何か暴力的な危険なオーラを発しているように僕には感じられる。まあ、もちろん一般的にそれは過敏にも過ぎるというところだろうけれど、しかし「主権在民」だの「国民主権」だのと高らかに言うときの人の顔というものは、ちょっとこわい。^^;)

 さて、少し視点をかえて、
 はじめて「国民主権」というものを習ったとき(多くは学校の社会かな)、どうも得心がいきにくいというか、気持ち悪く感じたことのあるひとも少なくはないのではないだろうか。僕はそうだったけど。

 というのも、「国民」なんていうものは曖昧なもので、もちろん単独の意志をもつわけでもなく、主権があるといわれても、「どうせ多数決でしょ」とか、「第一、まだ選挙権もないし」とも思ったり。さらに屁理屈を言えば、「昔の人が作った法律とか憲法とかを守らなきゃいけないんだから、昔の国民のほうが得じゃん」とか。

 しかしこうした子供的素朴な感慨というのは的をそうも外してはいないもので、ちゃんと選挙権と国民主権についてや、憲法制定権と主権の問題は学問的にもやはり論じられている。

 国政の決定権ということで、間接民主制である以上、主権を選挙権のようなものだと考えるならば、有権者とそうでない者がいる時点で、主権者とそうでない者がいることになるし、また国会も憲法を破ってはならないのだから、(代議士がイコール国民の意志の代表だとしても)主権は国の最高の権力ではないことになる。逆に、国民(国会)が正しく国家最高の権力であり憲法をも凌ぐとすれば、法秩序も立憲主義も意味をなさなくなってしまう。多数者による少数者の人権侵害だって起こるだろう。

 すると、憲法をより重大に据えて、例えば今書いたような人権侵害も起こらぬよう憲法に保障するし、主権者たる国民の意思を反映した憲法を最高の規範とし、憲法の破壊も否定することで、その憲法を制定する権利こそを国民主権の行使と考えるべきか、という方向に話は進む。
 しかしそうすると、さきの子供じみた感想ではないが、憲法制定時ではない時の国民は主権を行使しないことになる。

 さまざま学説はあるものの、まあ…例えば、結局主権なんてものは行使するものではなく、権力の正統性の問題であり、権威の由来といったものでしかない、ということにもなる。

 あくまで僕の個人的な考えでは、主権などというものを誰にも持たせないのが民主国家ということで良いのでは、と思っている。
 先にも書いたとおり、国民主権なんて言い出した、とある時代とある国の人々は、君主が主権を持っている状態を打破すればよかったのであって、その後、その主権を誰にも持たせない、だから何ごとも皆で話し合って決めるのだ、ということもできたのでは、と。(もちろん、先述のとおりキャッチコピー的価値は大いに認めているけど)

 国民主権などということを言い出すので、個々の国民ではなく総体としての国民だとか、行使不行使の問題だとか、いろいろややこしい抽象議論にもなるのだろう。
 いまさら「百姓持ちたる国」でも「人民の国」でもないだろうし、政治宣伝文句も不要だ。
 申請用紙か何かで、国の主権者の記入欄があって空欄だと国として認められないとかそういうことでもない ^^;)

 「主権者たる国民の…云々」など、なんと空虚な言葉かとも思う。
 が、しかし、我が国においては、特殊事情から、意味がないわけでもないのは了解している。
 それは天皇の存在だ。
 現に、現行憲法では、天皇の存在故に「主権の所在が曖昧になる」ということでケーディス(GHQ民政局)の指示により、「国民」の前に「主権者たる」を書き足している。
 ただ、「何人にも主権を持たせない」という意のことを明記しても斬新だと思うけれど。^^)

 さて、しかし、これも一層個人的な見解だが、
 我が国においては、究極的にはしかしやはり主権は天皇に属すのが正しいのではないかと考えてはいる。
 「正しい」というのは、それが良い悪いということではなく、(極論すれば、仮に悪かろうとも)主権の拠って来たる淵源をたどっていけば、日本の場合は、そうならざるを得ないのではないか、ということだ。
 (いや、これは超保守的とか右翼的とかいう思想立場のつもりは全くなく、単に論理的に ^^;)

 現行憲法起草時前後に金森大臣が、「国体」と「政体」の違いについてGHQに説明したりしているが(国体のもとで政体が変遷する)、例えば「主権」といった概念が我が国の歴史を通じて時代時代には存在しなかったとしても、敢えてそのモノサシをあててみれば、江戸末の大政奉還という概念に至るまで、我が国の主権は常に天皇から与えられ(もしくは少なくとも代行権を付与され)、返還され、また貸し出され ^^;)、という具合であり、今日においても「儀礼的に国事行為のみ」とされつつ、その「国事行為」こそが事実上、天皇による「正統性の付与」として機能していると言えなくもない。
 (ちなみに正統性の付与とはまさに主権の機能のひとつとも言えるが、現憲法に基づく今日一般的な思想では、象徴天皇に権威を付与しているのが国民であるから、国民がさらに上になる、というふうに帳尻を合わせている)

 既に話もイヤほど長くなっているので ^^;)、また別の機会にしたいが、「主権」成立も「国民の権利」獲得過程も、国民(国)の歴史的な要素が大きく、その歴史から全く切り離して取り扱うことはできないものだ。

 もし本当に主権者を無くしたい(もしくは国民主権にしたい)とすれば、例えとは言え畏れ多いことではあるが、天皇家を廃止するべきだろうと思う。
 そうして共和国を樹立し、まあ国民主権でもよいが、僕に言わせれば、主権者なる者の否定を謳えばよいのではないか。
 それこそが本当の革命であって、8月革命説などいかにも猪口才な帳尻合わせの小理屈に思える。(もちろん現行憲法の正当性を説明するツール的理論としての必要性はわかる)

 したがって、考え方としては、主権の所在は天皇にある、しかし天皇は何らかの国民的翼賛を得ずして独自にこれを行使もしくは代行させることはない(歴史的にも大部分そうであったし、現実的に独自行使など不可能だ)、そして今日においては憲法によってその行使を凍結している(本っ当のそもそもは、立憲君主制とはそういうことでは)、とするのが、ごくごく個人的にではあるが僕には気に入る。

 しかも、一般に立憲君主制のメリットとされる、国家の激動、政治的激変時における国の安定と一貫性保持という機能の発揮も、上記のように考えたほうがスジが通る。
 (中でも我が国の天皇制ともいうべき国体は、究極の構造構成主義的メタシステムだと思う)
 英国とても、マグナカルタ以来の経緯からすると、国民主権などとするよりも、国王の主権停止とする方が余程理解しやすいように思えないでもないのだが…


 民主というのは、国民主権という抽象よりも、主権者否定のほうが現実的ではないか、
 という説に、
 我が国にあっては主権は天皇に辿りつかざるを得ないのでは、
 という説を組み合わせると、
 我が国は、天皇の主権凍結という形で主権否定を行い、民主政治を行う、ということでよいのではないか、、と僕は思っている。

 手続き上、主権者でない者が主権者に主権行使を停止「させる」と考えるとおかしなことになるが、主権者が「要求を呑む」ということはアリだろう、まさに「契約」だ。そして憲法には御名御璽が載る。
 日本における天皇と国民の親和な関係から、「要求」などというのも不似合いだが、まあ、「意向」と言い換えたり「翼賛のあり方」と考えれば適当だろう。

 もっとも、これらの論はいずれも、一般的に暴論の域を出ず、僕が生きている間に広く理解されて提案できるようになるとは思い難いけれど。^^;)
 もちろん、綱領や政策理念に載せるつもりもないので、単に空想とも理論遊びとも楽しんでもらえれば結構、深刻な反論、まして危機感は無用です。 ^^)
posted by Shu UETA at 22:29| Comment(2) | TrackBack(1) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たしかに空論だあ、あっ、失礼^^)
そういえば中学校の時、社会科で「国民主権」という言葉を見たとき、ただ漠然とですが「そんなの誰にもないのと一緒じゃん。」と考えたことを思い出しました。
以前から思っていたのですが、日本、イギリス、その他立憲君主制を呼ばれる国々は、実質的には共和制なのでは?
立憲君主制と共和制という定義は現代においては、曖昧になっているし(一昔前は共和制=絶対君主制という雰囲気があったような気もしますが)、区別することに意味がないのでは?
というか新しい定義が必要なのかもね。
Posted by imaichi at 2005年10月09日 05:42
> imaichi

 政治的な手続き関係、政体については、必ず何らかの説明が不可欠だけど、現実を説明しようとするあまり、理屈を弄ぶような方向へどうしても進みがち、
 時折は素朴的常識感でチェックしてみることも必要ではないかなと思います。
 それこそ、一般国民的感覚から遊離の度があまり過剰になり、学者や学部学科専攻でなければわからない、という具合になるのは拙いだろう、と。
Posted by Shu at 2005年10月09日 14:23
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