2004年10月05日

成吉思汗と源義経


 さて、前世紀から続いている、ジンギスカンの陵墓探索の国際プロジェクト、近頃音沙汰もなく、どうしているのかと心配していたが、着実にゴールに接近しつつあるようだ。

 チンギスハンの霊廟発見 世界史の謎解明へ前進(産経)

 彼の墓の在処は、世界七不思議の一つにあげられることもあり、長く謎とされてきたが、解明されたところで、そのこと自体以外にそう何かが解明されるような謎でもない。
 が、しかし個人的には、実は、例の源義経=ジンギスカン説的な謎解きの可能性は楽しみにしている。^^;)



 むろん、「義経=ジンギスカン」を頭から信じているなどというわけでもなく、多分に娯楽的な楽しみとしての興味だが、そういう意味では、もとよりこうした「トンデモ」的な話には大好きな性。

 しかし仮に多くの「トンデモ」話のひとつに分類したとしても、この義経ロマンは、かなりその説にそそられるだけの材料があることはある。

 「元」の国号が「源」の音読み「ゲン」だとか、成吉思汗の名乗りが、義経が静御前を想っての名前(たしか…「吉成りて水干を思う」→「吉野でのすいかん袴を思う」→ 吉野逃避行での静御前のすいかん袴)だとかいう話になると、ちょっと笑うしかないが、僕が興味があるのは、次のようなこと。

 1 笹竜胆紋の謎、源氏の白旗
 2 鏑矢の使用

 ジンギスカンの旗印が、源氏の家紋の一つ、笹竜胆に酷似しているのは有名な話。
 以来、今日でもモンゴルでは祝祭の際にこの紋章をつけた幔幕が張られることも、とも。
 また、ジンギスカンの軍は白旗を用いたこと。

 意匠というものは、地理的に全く離れた場所で似たようなものが制作されることは当然あり得るとしても、それにしても似過ぎだし、かつ、笹竜胆には笹の葉と竜胆の花という意味があるが、彼の地では、最早それが何を表したものかわからないというのだから、その関連性を考えてもしまう。

 ちなみに、この点に関する反論として多いのは、笹竜胆は、源氏といっても村上源氏の家紋であって、頼朝、義経ら清和源氏のものではない、よって義経とは関係ない、というものがある。
 これに関して僕の見解はこうである。
 なるほど笹竜胆は村上源氏の代表的家紋であるが、歴史上には、村上源氏に限らず、公家をはじめ多くの家で使用された経歴がある。また、村上源氏の興隆は源平合戦の頃よりずっと後であり、「笹竜胆=村上源氏」は義経の頃の話ではない。現に当時では木曽義仲(無論清和源氏、たしか義賢の子?)が笹竜胆を使用しており、また義経についても旗印に笹竜胆との記録も散見される。頼朝は使用していないが、逆にそれ故、義経が頼朝源氏の紋章とは異なるものを選んでいた可能性も考えやすい(家臣としての自覚には欠けていた人だから ^^;)。

 そして、鏑矢。
 モンゴル軍の集団戦法においては、鏑矢をもって目標を示すことにより、その音のする方に向かって、皆がそこに火力集中を行う(正確には「火」力ではないが)というものがある。
 この方式は当時新規なもので、非常に有効であったようだ。
 この鏑矢というもの、大陸では珍しかったが、当時の日本においては至極メジャーなもの。

 さて、しかし、こうした戦術面に関して見るならば、ジンギスカンと義経に戦術的近似性は実は薄い。
 義経というと、かの鵯越などで騎馬のイメージが強く、安易にモンゴル騎馬軍と結びつけられがちだが、しかし彼の運用は、騎馬隊運用の本領、つまり戦機への迅速投入、突破力の実現というもので、モンゴル軍のような集団騎馬戦というものではない。(むしろ義経の騎馬隊運用センスはナポレオンのセンスに余程近い)

 が、さらに、しかしながら、彼が戦術センスに天才的な閃きを持っていたことは事実であり、そうすると、同じ環境にいても合戦の度にあらたな戦法を開発するのは当然のことであって、まして、日本とは地理的にも民俗的にも異なる環境で戦う場合、日本でと同様の戦いをするとは、かえって考えがたい。
 良質で豊富な騎乗馬と、乗馬に長けた民族、そして広大な平原、こうしたものを手に入れたなら、彼が、あのモンゴル騎馬軍のような戦法を採ることは全く予想に窮しない。

 と…このような話は、やはり埒もない話ではあるが、想像を楽しませるものではある。^^)

 しかし、上記2点はやはり、どうもひっかかる。
 そこで僕が考えるのは、義経ではなくとも(いや、ない可能性のほうが当然高いのかもしれないが)何らかの日本人が関与していたのではないか、ということ。
 それはジンギスカン本人であったかもしれないし、より現実的にするならば、彼の幕僚にいたかもしれない。食客、客将のようなものであったかもしれない。
 けれども、もし笹竜胆に拘るなら、それがジンギスカンの旗印であった以上、客分というよりは、やはりジンギスカン本人がその人物であったというべきか、、、あるいは譲り与えたか…

 ちなみに、モンゴルといわず、ロシア東方の、たとえばウラジオストク周辺には、教会の紋章などにも笹竜胆デザインが多くみられる。その地域では、はるか昔に日本の戦士が渡来してきて建てた城といわれるものもある(この城の紋章も笹竜胆)。
 またアイヌ伝説には、義経が渡海して大陸にわたり、異国の王となったとの伝承もある。

 こんなところから、やはり義経なのか…なんて振り出しに帰りたくなってしまう。^^;)

 ところで、ジンギスカン伝説は別にしても、僕には義経が平泉で死んだとは思えない。
 モンゴル軍を率いていなかったろうとも、平泉を脱出し、北へ進んで北海道にわたり、そこからさらにどこかに渡っていった可能性は高いと思ってる。
 そうでなければ、東北地方北部から北海道にかけて、義経の消息の伝承があまりにも多すぎる。
 多くの人が指摘するように、鎌倉に届けられた首も、その処理日数、旅程日数がかかり過ぎていて、腐乱のため本人確認不可能であったことには、なにがしかの故意を感じる。
 個人的にはさらに、奥州藤原氏と義経の親密、また厳しい遺言に照らして、かくも簡単に義経を裏切り命を奪うことに、心理学的な面での疑問を感じる。
 もちろん、冷徹な政治力学においては、頼朝政権に対抗し得る一方の旗頭としての義経の必要性、そして最早敵わぬと見るや、先手をうって自らこれを討ち、頼朝に捧げる、ということも十分にリアルではあるが…
 しかし、それまでの義経の鎌倉参陣の際に与えた恩、有能な名家の武士はもちろん、かけてやった言葉など、どうしても、より細やかな情感を感じてしまう。ただ僕の人がよすぎるせいかもしれないが ^^;)

 脱線甚だしいが… (いや、脱線を云々するほどの記事でもないが)
 ジンギスカンの墓については、発見を楽しみに、そして発見の暁には、遺体の一部などでも見つかって、遺伝子学的調査が可能ならいいなと思う。もしそれが可能なら、その結果こそ非常に楽しみだ。
 それは、義経伝説に止めをさすとかどうかだけではなく、むしろ、ジンギスカンの遺伝子のその後の拡大がどの程度のものなのかが知りたい。
 Y染色体の拡大はどれほどに広がっているのか。
 ロシア皇帝家とも比較してみたいところだが(建前上はジンギスカンの血が入っているはず)…

 いずれにせよ、今後の調査が楽しみだ ^^)

posted by Shu UETA at 14:25| Comment(3) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今回『チンギス・ハン=義経』説を調べるのに参考にさせていただきました。
面白かったです。
Posted by funfunfun55 at 2006年12月18日 19:36
> funfunfun55さん

 はじめまして

 うちの記事も検索でヒットしましたか…参考にとは光栄ですが、
 たいした内容でもなく具体的論拠も欠く雑談話でお恥ずかしいかぎりです。^^;)
Posted by Shu UETA at 2006年12月18日 23:48
事実に基づくフィクションという事なら、「草原に咲く一輪の花」(柴田哲孝・著「THE WAR異聞太平洋戦記」講談社所収2010)と「義経はジンギスカンになった!その6つの根拠」(丘英夫/アーバンプロ出版センター2005)いうのは如何でしょうか。面白かったですよ。もう読んでおられましたら申し訳なし。
Posted by mituemon at 2013年04月17日 17:18
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

『源九郎義経=チンギス・ハン説』参考元
Excerpt: 序『源九郎義経=チンギス・ハン説』参照元 第一回はこちら→『義経生存説』 参考にさせていただいたサイト様と書籍です。キーワードは『チンギス』『ギス』『チンギス・ハン』『チンギス・ハーン』『ジンギス..
Weblog: るるら〜ゲーム・読書遍歴〜
Tracked: 2006-12-18 19:39
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。