2005年09月19日

政治のビジョンとロマン


 本日の産経新聞朝刊の「正論」欄は、政策研究大学院大学客員教授の内田満氏による寄稿で、「蹴散らされたマニフェスト選挙」と題された一稿だった。
 こうした表題をみると、ああ、また自民党の郵政選挙化戦略に対する非難かと想像しがちだが、さにあらず、併せて副題に「檄文としての含意に目を凝らせ」とあるのだが、今次選挙の民主敗北の分析に、マニフェストとスローガンの点から迫った一文となっている。

 今日は月曜なので、web上でも公開されている。(月曜の正論欄のみ毎週公開)
 【正論】「自民圧勝」を読む 政策研究大学院大学客員教授 内田満

 雑記となるが、いくつか思うところを付記してみたい。


 
  第一に、マニフェストが選挙戦の始まる直前に泥縄式に作成されたことである。
 とにかく、十二日間という短い選挙運動期間中にマニフェストに掲げた政策メニューを有権者の間に浸透させることは、まず不可能事というべきであろう。
 (中略)
 イギリス総選挙のように、選挙運動が四週間前後にわたって展開される場合には、選挙戦の中で内政、外交にわたる政策全般について掘り下げた議論を戦わせることができよう。しかし、選挙運動期間が二週間に足りないわが国の総選挙では、事情が全く違う。



 まず最初に、今日の僕の記事の本題ではないのだが、選挙期間の長さということについては、なるほど確かに一考の余地があるかもしれない。
 もちろん、選挙期間の長さというものは、運動それ自体についての候補者及び社会(国民)の負担の問題、あるいは国家の負担という意味では政治的空白時間の問題、さらにはカネ等の問題まで、さまざまな要素を併せ考える必要があるだろうが、ここにあるような政策選挙性の観点からも、またあるいはどのような制度についてもある程度定期的に再考するということの価値からも、一度再検討してみる意義はあるだろうと思う。
 現時点では、上記諸事項を勘案しきれていないので、今日のところは僕の見解は避ける。あらためて考えてみたいと思う。


 
  民主党のマニフェストが、ガリ勉型の優等生のリポートに似て、整ってはいるが、面白みの点で難があり、明日のことは書いてあるが、十年後の社会についての構想がなく、有権者の琴線に触れる響きを欠いていたことである。
 (中略)
  なぜか民主党のマニフェストには、いつも有権者を鼓舞する勢いがない。
 最初のマニフェスト選挙であった二〇〇三年総選挙の際のマニフェスト文書で、当時の菅直人民主党代表は、「最小不幸社会の実現」を政治の目標に掲げた。この目標に新しい夜明けへのときめきを感じる有権者はまずいなかったろう。
 わが国に「マニフェスト」を最初に紹介したのは、百十五年前の第一回総選挙当時、内務省県治局長であった末松謙澄であり、末松はこの言葉に原意を生かして、「選挙檄文(げきぶん)」の訳語をあてた。
 マニフェスト選挙の将来に向けて、「マニフェスト」に込められたこの含意に、いま改めて目を凝(こ)らしたい。



 
  とにかく、選挙運動期間が極端に短いわが国の選挙で、とりわけ重要な意味を持っているのが、マニフェストの中で掲げた政策の目標や内容を簡潔に凝縮して示したキャッチフレーズに他ならない。
 今回の選挙では、この点でも、民主党は、自民党に大きく水をあけられたというべきであろう。
 実際問題として、民主党の「日本を、あきらめない」というキャッチフレーズは、自民党の「改革を止めるな」の迫力に遠く及ばない。
 なによりも、「日本を、あきらめない」というのは意味不明で、そこから読みとれるのは、生活にくたびれた中年男のつぶやきの趣であろう。
 これに対して、「改革を止めるな」は、まことに単刀直入で、「郵政民営化」の是非を問う単一争点選挙のねらいにぴたりと照準が合っている。



 筆者は「『なぜか』民主党のマニフェストには、いつも有権者を鼓舞する勢いがない」と言うが、この『なぜ』の答のひとつには、ビジョンの弱さということがあるのではないかと僕は思う。

 もちろん、民主党のその時々の代表にビジョンがまるでないわけでもなければ、個々の議員それぞれについても、明確にビジョンを持っている人はいるだろう。
 そして例えばここに筆者も紹介している菅氏の「最小不幸社会」というものも、当時のみならず今回の民主代表選挙に際してもやはり氏がくり返し述べているように、これは歴とした氏のビジョンというものだろう。(筆者はこれをあまり評価していないようだが、まあそこは主観的評価ということで、必ずしも全く人に訴えるものがないわけではないだろう)

 しかし、いざ民主「党」のビジョンとなると、たしかにあやしくはなってくる。
 それは、ひとつには、いつも言うことだが党内の思想的立場、思惑の不一致ということがあるだろう。しかしこれについては致し方あるまい。
 そしてもうひとつには、「ビジョン」と「マニフェスト」の順ということがあるのではないかと僕は思っている。これは民主党も考えどころ、対処はできるし、またそれは自民党をはじめとする他の政党についても同様だろう。(今回の自民党はこの点で成功したが今後はわからない)

 「ビジョン」と「マニフェスト」の順、というのはどういうことかというと、
 マニフェストなるものを、どのような観点、立場で策定するかということなのだが、つまり、何らかのビジョンなりゴールというものがイメージされて、その実現のために具体的手法としてマニフェストが策定されるのか、あるいは、そうした統一的ビジョンを欠きながら個々のトピック(政策)の持ち寄り(悪く言えば寄せ集め)による総合としてマニフェストとされるのか、ということだ。

 筆者内田氏のように一方的に民主党のみを批判するつもりはないが、少なくとも今回に限ればたしかに自民党側は、明らかにまず「ビジョン」(理念)があり、主な政策はいずれもそれとの矛盾のないよう提示され、なるほどあまり関連しないものについては(内田氏の指摘するとおり)マニフェスト選挙へのお付き合い的なものになっているが、しかし有権者には、まず「ビジョン」(=改革を進めること、その大きな一歩が郵政改革である、それができなくて(反対して)何の改革ができようか)ということが明確に伝わっている。
 かのマニフェスト的なもの(「約束」)についても、そうした総理のビジョンが明らかに最優先的に反映され、すべてを括る要となっている。
 (であれば、スローガンなども当然、なにも頭をひねらずとも自然に決まってくるものだ。)

 一方で民主党については、かねてからマニフェスト選挙ということに拘るあまりか、どうもマニフェストを奉り過ぎのきらいもあるのではないか。
 そして、ビジョンよりも、まずマニフェストありきであって、内容個々を括るべきものが強く共通認識されないまま、個々の政策の持ち寄り(寄せ集め)登載に過ぎなくなる傾向があるようにも思える。
 かつは、その個々の政策も、ちょっと冷めた見方をするならば、いかにも選挙を意識した(まあ泥縄的な)ものが多いように感じられもしたし、あるいは自民との差別化を意識したアンチ自民的に過ぎないものも散見された。
 (であれば、やはりスローガンとなると、あらためて素から頭をひねることにもなるし、各立場に通りのよい明瞭さを欠くものにもなりがちだろう。場合によっては、マニフェストからスローガンを導き出さねばならぬハメにもなり、それは本末転倒とも言い得る)


 今日は民主党批判だの、今さら敗北分析だのということではなく、より一般化して、こうしたことを考えみたいというのが主旨だ。
 現に、自民党についても、今回は適切だったが、次はわからない。
 今回自民党が強固にビジョンを共有し得たのは、ひとえに小泉総裁の熱意と明瞭さによるものに他ならない。

 思うに、大まかな、おおよその方向性ということでは、ビジョンというものは一定の思想グループによって共有されるものだが、より明確な具体性をもったビジョン、ゴール観というものは、結局個人のレベルでしか持ち得ないのではないだろうか。
 つまり、個人によって差異があって当然ということだ。
 であれば、やはり集団指導体制ということでは、ことこの点については難しくもなり、最大公約数的なものを模索して皆が納得できるぼんやりしたあたりに設定せざるを得ない。
 そうしたものが、先鋭さを欠き、具体性を欠きということになるのはやむを得ないこととなる。(難しい、ということであって、不可能ということではない。そうした集団内で明確なビジョンが共有された例は幾多もある)

 リーダーシップというものは、そうした「ビジョン」を示すことをも含むものだと思う。
 そして、リーダーを選ぶということは、彼のビジョンを選ぶということでもあろう。

 小泉総裁は、かつて見ないほどのリーダーシップを発揮している総裁であるが、このリーダーシップは制度からくるものではなく、(制度の範疇ギリギリにおいて)小泉氏自身の力量で実現されている面が強い。
 つまり、人が変われば、総裁が代われば、自民党とてまた変わるのであって、今回の民主党の例は他人事ではない。

 民主党では創設以来慢性的に、リーダーシップが弱い傾向がある。それは、ただリーダーの責に帰するばかりの問題ではなく、大いにフォロワーシップという問題も大きい。
 つまり、自分たちの代表のリーダーシップに服するという心性の欠如傾向だ。
 岡田氏はさほどリーダーシップに優れたタイプとも見えなかったが、しかしより大きな問題はやはり党内のフォロワーシップの欠如であり、ついぞ氏は自らの思うとおりに行動する自由をほとんど持たず、むしろ終始掣肘制約を受け続けていた。

 (余談だが、武家社会や軍隊における階級間の礼式というものは、リーダーをリーダーたらしめるという意味で重要な意義をもっている。もちろん民主的組織における理想ではなかろうが、リーダーシップにおけるフォロワーシップの重要性ということでは同じだ)

 よって、今度の新しい民主代表前原氏についても、この点が心配されるところだ。
 また、小泉自民党については、武部幹事長をはじめ執行部が全くぶれることなく終始腹をくくって総裁を支え続けたことが非常に大きかったし、そうした執行部を中心に、皆が一枚岩となって選挙に対することができたのもやはり勝因の何ほどか一端を占めてもいるだろう。

 話が拡散気味でもあるかもしれないので、まとめておくと、
 マニフェストなるもの、政策(公約)というものは、やはりビジョン(理念、国家像)実現の手段であるべきであって、まずビジョンありきではないか。(個々の分野別担当者が思い思いに策定したものをただ集めるというものではなく)
 そのビジョンというものは、政党のビジョンの枠内であるにしても、現リーダーなり執行部によってより具体的に掲げられるべきであって、(民主制度で)リーダーを選ぶということは、そのビジョンを選ぶということでありたい。
 そうして選んだリーダーとそのビジョンは、一致してこれを支えるべき(フォロワーシップ)であり、仮に選挙選出等を経たとしても、選挙が終わればもはや本来自分が支持したか否かということとは別にして自らのリーダーを支えるべきだ。(まさに「ノーサイド」だ。理想的には民主主義とはそうしたものであるはずだ)

 そうした意味では、本来は、党首選等の時点で既にビジョンをもって争われ、選択されるべきと思うが、民主党はそれを常に国政選挙になって出してくる(作ってくる)傾向が強い。(今回の前原氏もそうした意味では従来同様、そうしたビジョンをほとんど語っていない。落選した菅氏は少し語っていたが。)
 ちなみに小泉総裁は、当初の当初から自らのビジョンを強く謳って就任しており、選挙スローガンにしても実はことさら選挙準備でつくられたものではなく、常日頃から言っていることに過ぎない。



 最後に、もう一点、
 内田氏は「面白み」という表現をし、また、「有権者の琴線に触れる響き」ということを言い、そしてたとえば、「当時の菅直人民主党代表は、「最小不幸社会の実現」を政治の目標に掲げた。この目標に新しい夜明けへのときめきを感じる有権者はまずいなかったろう。」という例を出している。

 件の菅氏の「最小不幸社会の実現」ということをどのように印象するかは人それぞれであろうし、「ときめき」を感じる有権者がいてもおかしくはない。それは一つの見識であり、ビジョンでもあろう。

 ただ、しかしやはり政権公約に「面白み」がないとすれば、前述してきたような、なにか魂(括るもの、要としての)を欠いた寄せ集め登載的な態度によるところが大きいのだろうと僕は思う。
 そして、気にすべきはこの点であって、それ以上にことさら「面白み」ということは考えないのがよかろうとも思う。(特に民主党は)

 「優等生的」だとか「ときめきを感じない」ということは主観的な言だが、そしてそこからは「ロマン」という言葉も想起されるが、そうしたことをあまり計算するのは、民主制にとっては大きな危険ともなり得るので、注意が必要だろうし、国民側もある程度の慎重さが必要だろう。

 僕としては、民主党は「優等生的」であって良い、ただし、まじめにビジョンを訴えてほしいと思う。

 これは余談だけれども、(そして僕の主観に過ぎないが)リベラル政党というものは一般的にあまり政治的ロマンとは縁がないなのではないかと思う。そしてそれは、一方でともするとロマンに走りがちな傾向も相対的には強いと(僕には)思われる保守政党に対するカウンターとして健全なことではないかとも思っている。

 例えばなるほど菅氏の「最小不幸社会」というものは、内田氏の言うとおり、たしかにあまり胸をときめかせるような種類のものではないだろう。しかし、それは立派に国家ビジョンであって、そうしたことを真面目に追求することは、社会民主的立場の面目躍如だ。

 たしかに選挙戦術的には、有権者の胸をときめかせるような、場合によってはある種のロマンを感じさせもするようなスローガンも欲しいところではあるが、しかし戦術などというものはあくまで手段であって、ビジョンがそれに引きずられるようでは本末転倒、それこそ衆愚政治に近づく。

 この故に劇場型政治などということは一般的にあまり感心されないのだが、しかし小泉政権については、明確にビジョンに則って政策が謳われ、ただ小泉総理のメディアパフォーマンスが優れているに過ぎないのであって、この批判にはあたらないと僕は考えている。
 しかし、そうしたパフォーマンス的部分のみを抽出して真似るようなことが出てくれば、それは警戒が必要だろう。

 あくまでも、ものの順、本質論ということを忘れてはならないと思う。
 戦術は戦術、それは戦略を達成する手段だ。
 戦術が戦略を規定してはならず、戦術は戦略の枠を踏み越えてはならない。
 (言い換えれば、さらに戦略が理念を規定してはならず、戦略は理念を踏み越えてはならない)


 ちなみに僕自身は政治的ロマンが好きだし ^^)、いま日本にはそうしたものがむしろ必要であるかもしれないとも思っているが、しかし、それはそれを目的として求めるものではなく、まして選挙戦術上の観点であまりにそれを(特に民主党などは)無理に考慮するようではいけないと思う。
 (もちろん、あくまで理念の枠内で、選挙に際してもより訴求性の強い方法を考慮することは必要だろうけれど、本末転倒は厳に戒めるべきということ)


posted by Shu UETA at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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