2005年09月11日

代表制・選挙制度


 さて僕は早々に今次総選挙の投票を済ませてきたわけだけど、7時ちょうど頃に行ったために一番乗り、神戸市東灘区第26投票所の投票箱を事前確認したのは僕。^^;)

 知っている人は知っているだろうけれど、各投票所の投票箱について、使用前に中身がカラであること等を確認するのは、最初に投票に訪れた投票者が行うことになっている。当該者が中を確認した後、蓋を閉めて施錠する。(名前は確認される)
 確認行為をやってみたい人は、次回には一番乗りをしてみてください。^^)

 僕はむろんそんな確認行為をしたくて一番乗りを目指しているわけではないが、カラの投票箱に最初に投入される投票は、その「場」に対して相応の初期設定的影響を与え得るような気もして、まあ一種の「呪」を施すべく、ある程度の思い入れがある選挙の場合には早めに投票に赴くことが多い。まあ、いわば、自分の一票だけでは飽きたらず、正当な権利内において出来得る限りの最大限の影響力を行使せんということか。(一見バカらしいが、実は量子物理的にこうした可能性がないこともない)
 というのは無論冗談半分 ^^;)、だが半分ほどは、全くのウソでもない。僕が出馬する時には、全投票所でスタッフに一番乗り投票をしてもらいたいものだ。(僕自身も、候補者の自身への投票としてテレビ報道されることよりも、これを「施す」べく朝一で投票に赴くだろう ^^)

 と、無駄口はともかく ^^;)
 投票先の選択というのは悩ましいものだ。今回もつくづく痛感。
 いったい、民主選挙で選ぶものとは何なのか。僕らは何を選ぶのか。


 僕は兵庫1区の住民なので、選挙区投票については、以下の6名から選択することになる。
 ○無所属新×2 (元市議と現大工)
 ○無所属前×1 (自民党前)
 ○自民新×1 (元国交省)
 ○共産新×1
 ○民主前×1 (党副代表)

 個人の政見も見るとはいえ、僕の場合さすがに共産党候補者は問題外、いかに優れた見識(考え難いが)だろうと、知人友人はおろか家族でも、国政選挙では僕は投票しない。

 残りの5名については一応ざっと各自の政見もチェックはしている。そうすると、基本的には棄権票としたい、というのがまず第一の印象。推して国政の一端を任せたい人物はいない。

 が、現実的にベター論で選ぶとすれば(政党度外視、あくまで個人)、@民主前 A自民新 B無所属新(市議) C無所属新(大工) D自民前 とでもなろうか。(あくまで、敢えて努力して選ぶとすれば、だが)

 @とAは微妙だが、それはAについて過去の実績、データが無いため期待分を考慮してということだが、今回選挙活動を見ている限り、これといって見るべきところもない。

 Dについては前職だが、従来からほぼ見るべきところもなく問題外に近い。父親も国会議員、その秘書から地盤を引き継いだクチだが、自民党ではどうせ党に残ってもこの秋で党基準の定年年齢になるので、いずれにせよ党を出るしかなかっただろう。今年は、前回選挙時の借金を返済していないかどで複数から裁判に訴えられているところである。
 (選挙カーで連呼のフレーズも愚にも付かないもので、これ自体つっこみ所豊富で記事にしたいくらいだが、下卑た記事にしかならないので差し控えておく ^^;)

 さて、しかし上記は候補者個々を見た場合の話。
 実際には、目下わが国の現状である政党政治ということを考慮して政党を選ぶということをする必要があるのは、言うまでもない。
 いかに優れた人物が立候補していようとも、彼が政党と一線を画して個人で国政の場でできることなどは(残念ながら)ほとんどあり得ないのが現状だ。
 したがって、そもそも政党を選ぶのは比例代表であって、選挙区においてはあくまで議員個人を選ぶのが制度本来のスジではあるのだが、その両者の配分程度からしても、現実問題としては選挙区においても大いに政党選択を考慮しなくては、投票者の意図は国政に反映され難い。

 僕の場合はそこで、政党選択ということで言うと、
 候補者は上記のとおり自民、民主、共産の3党であるので、今回については自民党に勝たさないわけにはいかない(より心情を言えば、民主に勝たせるわけにはいかないというのが正直正確だが)。

 すると、上述二点を考慮した結果、選挙区投票については、自民新(元国交省)の姓名を投票用紙に記入、投函してきたわけだ。
 候補者個人についてはさほど感心できるほどの人物もいなかったのであるから、この自民新の某氏に対する僕の投票は、彼に対する投票ではなく、小泉氏に対する投票のようなものであり、同時に反岡田氏、反民主の票でもある。


 さて、
 今回の僕の思考過程は一例なのだが、とかく、このように投票行動というのは複雑な心境を伴いがちだ。
 僕の場合だって、もし仮にその自民公認候補がいかに不見識であったり不愉快な人物であっても、今回の場合は上記のような思考経路で、その彼に票を投じないわけにもいかないわけだ。
 逆に、民主党候補者がいかに尊敬すべき人物であっても、やはり悩んだ末に、それでも自民候補に投票しただろう。いかに良き人物であれ、彼がイコール民主党というわけではなく、むしろ逆に、民主党の政策に従わざるを得ないのが彼の立場であるはずだから。(もっとも、目下民主党を選ぶという時点で到底僕がその候補者の見識を評価できるとは思わないが ^^;) あくまで仮の話)

 で、あれば、すると、政党選択が必要な状況において、候補者個人などはどうでもよいということになる。まあとりああえずヒトでさえあればいい、あるいはロボットでもよいくらいだ ^^;)
 (まあ… 小選挙区制というのはそういうものだが…)

 実はこの期間中の例えば報道番組のコメンテーターや解説者たちも、「政策をしっかり比較して」だの「マニフェストをよく読んで」などと啓蒙的な発言をしていたが、それらはほぼ全面的に、候補者個人などどうでもよく、政党選択のみに注目されていた。

 そして僕個人も結局そうした観点から投票を行ったのは、さきに書いたとおり。


 一方で、
 代議制度というものは、そもそもにおいては自分の代わりに国政参画を任せ得る個人を選ぶものであったろうと僕は思う。(今もって、僕個人の感覚では、本来はそうありたいものと思っている)
 そこでは、候補者個人のマニフェスト的なことよりも、人格、識見等をトータルに、そうした広い意味での「人格」選択がなされ、「彼に任せよう」という心理が基底にある。

 民主党岡田代表は、自民の郵政選挙に対して、「それだけで判断するのでは他のことが『白紙委任』になる」と日々声を枯らしているが、そもそも厳密には、そうした彼が言うような意味での白紙委任が生じないことなどもとよりあり得ない話だ。(しかし今回の選挙は正当に「郵政選挙」であって然るべきであることはこれまでに記事にしてきた通り)

 マニフェストには国政の全施策項目が載っているわけでもなく(載せられても困るだろう)、またその後の任期中に国政が扱わねばならぬ施策事項が今現在選挙期間中にあらかじめ全て予見できるわけでもない。
 例えば東海・東南海の大地震が任期中に起こった場合、あるいは新たな国際紛争が生起した場合、大規模な金融事態が生起した場合、いずれにせよ、その議論は任期中の議員に「白紙委任」せざるを得ないではないか。
 さらには、マニフェスト比較ということでは、政策事項ごとに、これはA党に賛成、これはB党に賛成ということが起こり得るのであって、そうした場合はどうせよと言うのだ?結局、関心優先順位的に重みづけをして選択せざるを得まい。

 もちろん、だからと言って、候補者の政策を聞く必要がないと言いたいわけではなく、いずれにせよ限界はあるということだ。もちろん、予見できる範囲において、今現在の日本の立ち位置において、今後の大方針について候補者の公約を聞いて判断すべきことはある。
 しかしだ、しかしそれでも本来は、前述したような例を含め、国政議論を「委任」できないような人物を代表者に選んではならないのだ。それを委任できる人物として選ばれるのが「代議士」だ。(あくまでこの段階では「そもそも」論、現実は後述)

 そうすると、人格識見といったトータルな「人間」を判断することこそが重要であり、やがての国会議論の場においても「彼がそう決断したのなら支持しよう」「彼がそれが良いというのなら信じよう」という心理が可能であるのが本来は望ましい。
 昔でいうところの長老格や顔役的人物への信頼と一任といったものに近いかもしれない。
 そうすると、候補者が声明する公約やマニフェストすら、それら公約自体が彼の見識を判断するための材料に過ぎないのが、むしろ本来ではないかとすら思える。

 よく、女性有権者には候補者のイメージやルックスも影響が大きいなどということが言われもし、それに対して「顔で選ぶなよ」なんてことも言われるが(そしてもちろんことさら女性に限らないが)、しかし実は、それというのはそれほど本義に外れたものでもない面もある。(もちろん一面において、である。なにごとも極端は別だ)
 「この人が選んだ決心なら信じよう」と思えるならばそれは立派に代議士たるのであって、逆に、そう思えないようならば本当は問題だ。
 (ことさら選挙に限らず、人間関係においても「信頼」というのはそういうものだ。いちいち条件に照らし合わせて採点するようなものは信販会社のやることで、人間が人間を信頼するということはそういうものではない。僕がこれと見込んで信頼するが故に、その彼の判断を僕は信頼するのだ)


 再び、さて、
 「本来は」と僕は言ってきたが、しかしこれらは実に原始的というか牧歌的にも近い「そもそも」に過ぎる考え方だ。(重ねて、しかし僕はそれを理想としたいが)

 まず第一に民主制度というものはさまざまに発展変化を遂げてきているが、「政党政治」という概念が生まれると、前記のような個々代議士に対する信頼だけで自らの意図を国政に反映させることは難しい。
 ずっとさきに書いたとおり、その議員「個人」があくまで個人の見識と判断で国政を云々できるようなことなど、政党政治下においてはほとんどあり得ない。ある候補者個人の見識をいかに信頼しようと、実際の政治には、彼ではなく彼の所属する政党の振る舞いこそが反映されるのだ。
 (もっとも同じ政党政治でも風土というものがあり、例えば米国等では議員個人レベルの活動が非常に活発だが、目下の日本においては相当に政治風土事情が異なる)

 第二に、民主主義というものが、ある種の理想とされるような「一般意志」的に、真に国政に対して智恵を集め公論を尽くすということを目指しているうちは、先に述べたような「人格識見への信頼」を託して代表者たる代議者を選ぶことになるのだが、民主主義プロセスとはそれが内包するインセンティブ的にも、そのような一般的公論を尽くす方向にではなく、国民個々の利害主張と対立、調整の手段に過ぎないという方向に結実しがちだ。むろん今日の日本においても例外ではない。

 世論マスコミは、とかく政治家の利害観行動であるとか族議員的風土を論うが、根本的には現行民主制度自体がそうした性格を内包しているのであって、そうした政治家の行動を批判する一方で、国民はやはり同じように自らの利益視点に立って選挙行動を行なっている。
 それは例えば今回の郵政改革に対する特定郵便局長及び家族の振る舞いにしてもそうであるし、個々の政策に対しても、自分の身に引き換えて損か得かという観点で判断しているに過ぎないのが大多数の国民だ。
 こう書くと非難めいて見えるが、これは非難しているのでは毛頭なく、その善悪適否を言っているのでもない。人間のそうした性質を認めた(織り込んだ)上で、そうした利害調整を行おうというのが、民主制度のひとつの賢明の種類でありひとつの立場だということだ。

 こうした「利害調整」ということが前面に出ると、当然ながら候補者個人に対する信頼感云々などということよりも、彼らの提示する約束条々によって判断する、つまり自らの利害を託し得る者を選択するのであり、まさに「採点」に近い態度に徹することにもなる。


 今書いた二点の状況が進んでいくと、そこで民主党の好きなマニフェスト選挙なるものにも結果的に非常に合致してくる。
 (もっとも本家たる英国においては近年マニフェスト選挙性はむしろめっきり下火だが、その理由等については今日は省略)
 (これも余談だが、民主党は外国製のものが好きだ。平素観察している人は諒解されるだろうが、「日本版〜」というものが彼らは好きで、「北欧諸国型の」とか「イギリスのような」「米国の〜型の」「オーストラリアでは」ということが重要政策に関する発言に目白押しだ ^^;)


 最初に書いた「そもそも」的代議士観というものは、しかし潜在意識的にであれ依然として国民の心底の一部にあるのであって、しかし同時に政党政治下における感覚、利害追求的本能、と、これらのものが綯(な)い交ぜになって、心ある有権者の心を千々に乱れさせることになっている。


 どうのような制度、手段を選択するかということは善悪とは別のものであって、それぞれに利不利もあれば意義というものがある。よって、僕もそうした善悪的批判や判断はここではしない。

 そのうえで、あくまで僕個人の理想としては、
 もう少し本来の「委任に足る」代議士、代表者を選ぶということが色濃くなるような制度を模索したいと思っている。

 また、利害調整型(といえば聞こえはよいが、ある種弱肉強食の闘争的システムだ)を離れ、もしくはその程度を低減し得る制度を探求したい。
 (多数決であれその具現の一端である選挙であれ、多数の支配というのは個人にとっても国家にとってもきわめて危険な装置となり得るのは言うまでもない。今回の選挙でも、郵便局員や、まして特定郵便局長及び家族の数がもっと多かったら状況は随分変わったっておかしくないが、彼らは国や社会ではなく彼ら自身の利益を主張しているに過ぎない)

 前者については、政党政治ということについて再度よく吟味してみる必要があるだろう。たとえ政党政治的システムを否定まではしなくとも、議員個人がより主体性、企画性を持ち得る方途をシステム(制度)的に考える必要がある。
 (僕個人は、思考手順的に、政党政治そのものの否定をも思考対象から排除はしていないが)

 後者については、非常に困難だ。(国民の自覚を高める、なんていうような理想論ではなく、あくまで制度によってそうしたインセンティブを整備するということを考えると)
 ここでは現行の国際的に標準的な民主制度を相当に抜本的に考え直す必要もあり、現時点で公言するには、さすがの僕も些か憚られる点もある。(ので、いずれの機会に)


 ただしこれら今日の話に関連してだが、
 もし逆に利害調整機能に徹するならば、現行のような居住地区ごとの代表ということよりも、各種の業種業界及び生活層等からの代表制ということも整備を考慮すべきではないかとは、僕はかねてから考えている。代表制による間接民主制が構築された時代と今日では、国民の利害基盤は大いに異なっているのであって、居住地など意味をなさないことも多い。(重ねて言うが、利害調整に徹するなら、という視点だ)

 またこれも関連事項だが、今日冒頭で問題にしてきた、政党選択と代議士の選択という両者のバランスは、これを両院制度に適用することも考慮することができるのではないかと僕は考えている。(単にアイディアの一つであって、その推進を図っているというわけではない。僕の改革志向はより次元が根本的なので)
 利害的であれ人格信頼的であれ、各選挙区が選んだ代表者たちがきわめて緩い政党枠組みで相当に「個人」として議論をする場と、より国家戦略的、より大方針的、より長スパン的、あるいは思想立場的観点で国民が選択した政党の枠組みで、政党を前面的にした議論の場、その両者を整備するという考え方である。

 (余談)
 昨今大いに議論されている二院制堅持の意義についてだが、なるほど目下の現状では参議院存在の意義は非常に薄いように思われる。なぜならば、衆参両院で構成要素に有意の差が乏しいからであり、さらにその理由は選挙制度によるところが大きい。(候補者にも有権者にも、衆参でほとんど差はない。被選挙権年齢の差と、ある程度全国区著名人が有利となりやすいという程度の差だ)

 二院制のそもそもを辿れば、文字通り衆議の場であり国民代表者の議論の場である衆議院や下院と、識者や国家社会における高度経験者、功労者等による良識の府としての参議院や貴族院、上院によるチェック機能ということがあった。
 その前提においてこそ参議院はチェック機能を主として、参議院に対する衆議院の優越ということが民主的に意味あることとなるのだ。
 (一般的に英語において上院議員は元老院議員と同じ語で表現される場合が多い)

 先日、郵政造反派の参院議員の中心メンバーだった鴻池氏が、機敏にも、総選挙で勝利すれば賛成に転じる旨を表明したが、その際の論拠は、「民意に従う」ということだった。これは政治家のありようとしては実にもっともなことだが、もし参議院というものの本来の意義に思いを致すならば、一転して不見識きわまりない考え方ともなり得る。民意に対する良識的チェック機能ということからすると、上記のような氏の思考過程は、自ら参院の無意義を表明したようなものだ。意見を変えるには何か論拠がいるのは当然だが、であれば建前にせよ何か別の「良識的」論拠が欲しかった。
 とかく今日の政治家の多くには、こうした根本的な思考といおうか本質論ということに対する思索努力が足りないように思われる。

 ともあれ、もし二院制という民主制度のひとつの智恵を維持する方向に考えるのであれば、参議院のあり方について考え直すべきだろう。そもそもの通り、大衆的情動の暴走ということに対するチェック機能ということであれば、それなりに被選挙権もしくは制度的な立候補容易さ加減に工夫が必要であろうし、あるいは、オリジナルを離れて今日において全く別の種類のチェック機能性を工夫することも考えられる。
 先述したような代議士選択と政党選択のバランスということはごくごく一例に過ぎないが、例えばそれであれば、衆院は政党制を緩くし、参院は政党制を前面にして、参院においてはより政治思想的、長期戦略的な国民の民意によって衆議をチェックするということも想定し得る。(もちろんこれはあくまで一例)

 そうではなく、そうしたチェック的機能を不要とするのであれば、ことさら一院制で差し支えなく、参議院を維持する必要はないだろう。

 僕個人は、二院制を支持しているが、それは前述のようなチェック機能を工夫改良するという前提の上においてだ。



 常々言うことだが、道徳教育ではあるまいし、それどころか文字通り個々の生活や人生もかかる場合も多分にあるのであって、国家や社会を考えるときに、単に「国民の自覚」であるとか「政治家の自覚」だの「倫理」だの、官僚についても同様だが、そうしたものを声高に言ったとてなかなかに容易に埒はあかない。
 人心に影響するのは制度(法・ルール)であって、あくまで制度的インセンティブに着意して、どのような制度を整備するかということが、国家であり社会の手綱というものだ。これはあらゆる次元においてのことだが、民主主義国家において代表制のあり方、それを選択する選挙制度のあり方というものは、最も根本的に腐心すべき事項だろう。
 (制度とルールが成員の性質やあり方を規定し得るということは、国家社会といわず、企業や競技をはじめ凡そあらゆる組織において言えることだ。これをたまたま組織に適用して説けば組織管理術になっていく。)


posted by Shu UETA at 10:12| Comment(5) | TrackBack(2) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自民党圧勝でした

ぼくの選挙区では外務大臣の町村氏が出ていますので、彼の靖国参拝はしないという決断は納得できないけれども、(細かく見ているわけではありませんが)保守の考え方には賛同していますので、氏に一票を入れました。

仮に、町村氏が出馬していなければ、Shuさんと同様、議員個人の主義主張あるいは政策にかかわらず自民に投票したでしょう。これは、これまでの民主以下野党の指導力であるとか政権を担うだけの力が不足しているからです。

もう一つ自民を支持する理由としては、日本の政党政治では、国の基本となる政策において、政党によってころころと変わりうる危うさがあるからです。外交にしても内政にしても基本的な路線は、その方向性を政権党が交代しても変えない、ということを保証してくれるのであれば、他党の支持を考慮するかもしれません。

民主党が復活するためには、
・指導者たりうる党首を選ぶこと(だれ?)
・政策に賛同できるのであれば、与党と協力する姿勢を見せること
・烏合の衆はやめる
ではないでしょうか。

マスコミは劇場型選挙だとかいろいろ言っていますが、小泉首相の露出の仕方がうまいということと、その全くブレのない姿勢です。恐らくかなり有能なスタッフがいると思われます。こういった小泉側に対して、民主党は、朝令暮改な態度やなんでも反対している状況ですから、どんなに主張する政策が良くても、国民は信用しないでしょう。今回の自民圧勝は、与党の選挙戦略(小泉首相の個人的資質が大きいとは思いますが)がうまくいった、ということと、民主党の(選挙だけでなく普段の)戦略の失敗が重なったことが原因と考えています。

ただ、今回はちょっと勝ちすぎで2/3を超えるのは、かなりまずいですね。僕自身も自民党を信用しているわけではないですから、人権保護法案など心配なことが多く、その行方には注意しなくてはならないと思います。
Posted by toybox at 2005年09月12日 01:55
typo: 人権保護法案→人権擁護法案
Posted by toybox at 2005年09月12日 04:05
> toyboxさん

> 日本の政党政治では、国の基本となる政策において、政党によってころころと変わりうる危うさがある

 同感です。記事も拝見しました。
 同感とは言いましたが、正直、toyboxさんの記事であらためて考えさせられています。

 米英のような二大政党制と異なるのはまさにその点で、そこにおいてわが国の民主党は二大政党の一方というよりも従来型野党的性格が色濃いのですよね。
 大枠の戦略的方向ということで大方針を共有しつつ、その手段であり言わば戦術において競い合うということになれば、toyboxさんが仰るとおり、僕とて民主党を選択から排除することはないのですが。

 そして、そうした共通基盤の構築という活動に民主党が協力的でないのも、toyboxさんが記事で指摘しておられる通りだと思います。

> 今回はちょっと勝ちすぎで2/3を超えるのは、かなりまずいですね

 まったくです。
 ものは言いようではありますが、自民の成功だけではなく、民主の迂闊ということも多分に原因しているように思います。
 そうした意味でも、上述の点でも、今後は民主の立て直しということに期待する必要がありますね。
Posted by Shu at 2005年09月12日 16:08
面白い記事見つけたので紹介します。
http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2005/0912.html
小泉首相って感情で動く闘将タイプかと思ってたら、以外に知将なんですね。全ての関係者が彼の手の中で遊ばされていたような・・・
この記事、朝日みたいにいちゃもんがついてきてないようなので、真実に近いのかな?
Posted by imaichi at 2005年09月15日 04:56
> imaichi

 ほんとだ面白い。
 たしかに真偽の程度は僕らには分からないとはいえ、しかし十分に肯けるね。
Posted by Shu at 2005年09月15日 08:09
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選挙について
Excerpt: 自民党が大勝した結果になったが、正確には小泉内閣が勝った、といっても良いと思う。郵政選挙だのなんだのと言っているが、結局のところ国民は強いリーダーシップを発揮できる人を選んだ、ということだ。土俵は政策..
Weblog: Biased?
Tracked: 2005-09-12 05:38

分かり易さの代償は?
Excerpt: 小泉首相率いる自民党の歴史的な圧勝劇から一夜が明けた。衆院が解散されたとき、いったい誰がこんな結果を予想しただろうか。二大政党体制に向かっていた日本の民主主義は、今や55年体制へ逆戻りしたかのような様..
Weblog: yt's blog
Tracked: 2005-09-12 22:11
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