2005年08月30日

(名将言行録) 観察力

マガジン「名将言行録」55号関連記事

 「名将言行録」第55号は上杉景勝の第3回でしたが、これまでに紹介してきた多くの優れた武将たち同様、やはり観察力、ものを観る力という点で際立っていた様子が描かれていました。

 このblogでもしばしば引用紹介しておりますが、今回も再度、前回に引き続き「よみがえる武士道」から、そうしたことについて述べられている部分を少し紹介してみたいと思います。


  乱世を生きた武士たちの、事がらをあるがままに見る能力が尋常でなかったであろうことは、彼らの生活ぶりを示すさまざまな史料からも想像がつく。雲の動き、川の流れ一つ見るにしても、戦国武士の眼力と我々のそれとでは、犬の嗅覚と人のそれとぐらいの隔たりがあるにちがいない。しかも、そのような高い能力を身につけていながらも、なお彼らは、事実のあるがままは容易につかみ難いことを自覚し、自らを戒めつづけていた。見る力はあるにもかかわらず、その上でなお見そこなうことはある。武士たちはそのことを警戒し、だからこそより一層分別の大切さを強調したものと考えられる。


 こうしたことは、「名将言行録」においてもしばしば感じることができます。
 まさに常在戦場を心がけの問題ではなく実地に生きた彼らの、しかもそこをたくましく生き抜いて名将との誉れを冠せられたような人物が、この種の「見る能力」に卓越していたであろうことは疑いようがありません。

 「犬の嗅覚と人のそれとぐらいの隔たり」とは一見大袈裟のようでいて、しかし納得もさせられるような例えですが、しかし、「観察力」は「嗅覚」と違って、誰しもその心がけと経験次第で大いに鍛えることができるものでしょう。


  必ずしも生まれつきの素質が劣っているわけでもない大将が、「過ぎたる」馬鹿大将になってしまう原因の多くは、自分の気に入らぬことを認めようとしない「無分別」に由来する。「過ぎたる」とは、事実のとらえ方に過不足があることだ。そして、一番の問題は、見ていながら見ようとしない、こちら側の心の姿勢にある。
 たとえば臆病な大将は、敵の軍勢を見えた以上の大軍だと受けとめ、逆に強過ぎる大将は過小に見積もろうとする。これらはいずれも、あるがままを自ら歪め、偽っていることにほかならない。このように、あるべき一つの判断を外にして、自分に都合のよいように事実を曲げていくあり方は、およそ武士道全般において最も嫌われるマイナス価値であり、駄目な武士の根源をなすものとみなされる。
 「馬鹿」は知恵を盗まれることだという定義も、このことと関係する。そもそも、一を一とする大将の知恵は盗みようがない。というのも、この大将の知恵は動かしがたい事実とそのまま対応しているから、あるのはいわば事実だけであって、盗まれるべき知恵はどこにもないからである。家来が盗もうとするのは、大将が事実を受けとめるときに、何かをつけ加えたり、割引いたりするその傾向である。この大将は、だいたいにおいて事実を過小にとらえる傾向があると見抜かれれば、家来は強気の意見を述べて取り入ろうとする。それが知恵を盗まれることであり、そうなるのは、大将の事実のとらえ方に揺れがあるからである。
 知恵を盗まれる大将のあり方はまた、「計略したをさるる」大将にも通ずる。敵方の謀略に踊らされるのは、一つの事実に対するありうべき判断の他に、楽観的な、あるいは悲観的な、要するに事実と無関係に自分が作り出した判断を置こうとするからである。いいかえれば、事実に即さない憶測や幻想で心が揺れ動いているのである。

 ※「計略したをさるる」:「計略したおされる」とすれば分かりやすいと思います。

 こうした大将=上司、指揮官の話は、現在のさまざまな職場においても、さまざまにうなづかれるところも多いのではないでしょうか。
 「智恵を盗まれる」とは、なんと考えさせられる表現ではないでしょうか。


  「軍鑑」は、正しい認識や判断を動揺させる心の揺れを、主君や仲間を裏切る心と同じく、「ふたごころ」の名で呼んでいる。「ふたごころ」とは、心に嘘偽りがあることをいう。事実のあるがままを歪めることは、自らを偽ることである。しかしそれは、他に対してあるがままを偽り飾ることと、虚偽である点では同一である。というよりも、事実のあるがままを正しく受けとめえない無分別こそが、人を騙したり、あるいは欺かれたりする浮薄な心を生み出すもとだというのである。


 一般的に道徳的観点から語られる「誠実」「正直」ということが、単に道徳的問題ではなく、命をやり取りする本来の武士のあり方と一体のものであるという見方は、新鮮に感じられる方も多いかもしれませんね。


  武士にとって、判断の是非や人物の力量が端的にあらわになるのは合戦の場である。そこでは、判定は生きるか死ぬかという、冷酷な事実として示される。こういう後のない場に身を置くとき、自己の運命を託すに足りる最も確実な足がかりは、動かすことのできない「事実」にしかない。事実を正しく受けとめる「分別」、事実を曲げることなく振る舞う「有りのまま」である。


  武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけのみ」よいような、それこそ「うろんなる」者に命はあずけられぬ。頼むに値する武士、「頼もしい」大将とは、一を一とする、「分別」ある「有りのまま」の人物でなければならない。

 ※「ことうけ」:「言葉受け」と考えてください

  この世界の中で真に頼むに値するものは、有るものは有る、無いものは無いとする精神だけだ。これはまた、人間世界のみならず、神や仏にも必ずや通じるものなのだ。一は一であるということを決して曲げないところこそ、天地宇宙を通じて唯一つ確実な拠り所である。相手が神であれ仏であれ、己れの頼むべき所はそこにしかない。これこそが、武士の発見した「哲学」だったのである。


 このあたりの件りは以前にも引用したことがありますが、やはり数学的思考の精緻さを想像させられますね。


 さて、今回は引用紹介に終始しましたが、それぞれなかなかに示唆を得ていただけたのではないかと思います。

 冒頭にも書いたとおり、「よみがえる武士道」からはしばしば引用紹介していますが、およそわが国の武士道の精神について述べた書物で、なかなかこれの右に出るものはありません。
 ぜひ一度は手にとっていただきたい一書です。



 次回第56号も引き続き上杉景勝です。お楽しみに。

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posted by Shu UETA at 07:12| Comment(4) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おはようございます。T.Tです。またおじゃましてしまいました。
Shuさんの考えは、私が考える上でとても参考になるので・・・。(難しい言葉とかはよく分からないんですけどね。)
私なりにまた色々考えたんですけど、やっぱり「答え」は自分の中にあるな〜と。で、その答えを導くためには、他を通さなけらば見えてこないということ。更に、高い精神をもつためには、他を受け入れる姿勢がなければ超えられないということ。で、気づきは日常の中にあって、それは、その人にとっての「答え」になるのならば、本でも歌の歌詞の中でも、人が口にする言葉でも、星や空や自然の中でも、何でもいいんだ〜と思えるようになりました。となると、自分の心はある意味なんにでもなれて、人の心の中でも自然でも宇宙でも一体化することは可能なのかな〜なんて思いました。(自分の脳の外にでるということに通じると思うのですが・・・)不安や恐れは自分が捉われているから感じるし、相手の心の変化(人に例えると)を尊重していないから不安になるのかなと。(変わるということは自然なことなんですよね)それを受け入れることが自然ならば、揺らぐ必要はないんじゃないかなと。仏も辿っていくと、人がつくった象徴みたいなもので、(仏像とか物質としてはあるけれども)例えばブッタも自分なりの「答え」をみつけたのであって、亡くなった後に色々な人がつけたしたことによって(自分の解釈をつけくわえて誇大化していった)日本に入ってきた後も、色々な人々によって、色々な宗派に分かれていってしまったのかな〜と。そう考えるとやっぱり、もとはひとつの根っこにたどりつくのかとも思いました。で、自分の答えが太い幹だとすると、武将たち(先人たちの)教えは、様々な問題を処理するための考えがちりばめられていて、それが、自分の幹の枝葉になるのかな〜という感じです。(感じばかりですみません。)と、今の自分は考えています。また、長々とすみませんでした。
Posted by T・T at 2005年08月30日 10:35
> T・Tさん

 僕も(と言っていいと思いますが)、結局何かを納得するということは、あらかじめ自分の中にそれをもっていたことについてでしかあり得ないと思います。
 であれば、それは「思い出す」ということにも非常に似てきますが、まさに「思い出す」ために、さまざまなきっかけを要するもので、もちろんそれは自分の中での思索もありますが、何か他の人の言葉、文章や他の何か、それは現象であるとか風景であるとか、そういう「示唆」のようなものを僕はいつも探しているような気がします。
 あるいは僕は「触媒」という表現も好きなのですが。

 一方で、いわゆる「自分」や「自分の中」というものは「小さい自己」ということもできて、哲学的にも一般的理屈においても人は結局自分を通して、自分の脳を通してしか世界を見れないのであるということに論理的にはなりますが、しかし、僕はそうした「小さい自己」を超えた何らかの認識(仮に「大なる自己」とでも)というところにも人はアクセスし得るのではないか、とも考えています。(その場合の「思い出す」はさらに深い意味を持ち得ます)
 それが先のwordsで書いた「脳の外に出る」ということです。

 哲学的に厳密な論理の積み重ねではそれはあり得ないことになりますが、しかし、それは明白な事実の積み重ねに拠るが故のことであって、現在われわれが明白に知り得ていることが未だこの世界の一部に過ぎない可能性は十分にありますし、科学分野においても、「脳」は記憶の倉庫のようなものであるよりも、空間の記憶にアクセスする送受信機である可能性すら取り沙汰されています。(個人的には僕は大いにそれを支持しているところですが)(本では「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」がお薦めです)

 僕は禅が好きなのですが、例えば禅において目指される境地の一端にある、対象との「一体化、transaction」的なものは、まさに「脳(小さい自己)」の外に出ようとするものでもあろうと僕は感じています。(そしてこれは武術においても目指される境地です)

 と、そんなことを僕は試行錯誤しているところです。^^)
Posted by Shu at 2005年08月31日 11:11
>Shuさん

 私の思いや考えにたいして、真剣に受け止めこたえていただきありがとうございます。恐縮です。 Shuさんのコメントを読んでいくうちに、たくさんの見落としている部分に、また気づきました。 Shuさんはその事に気づいて、それを「違うんじゃないの?」というわけでもなく、文章の中でさりげなく伝えてくれているのがよく分かりました。Shuさんの器の大きさをあらためて感じます。(見落としていた部分について述べはじめたらきりがないので控えます。)
 Shuさんの考えや思いのつまった文章を前にすると、頭をあげることができないような気持ちになります。文章はその人の思いを書いているわけだから、ある意味その中には心が入っているのかとも思いました。心が人(物体の意味での)からはなれることによって残る残余ならば、相手の成長等を願い思いをこめた文の中にこそ神・仏等がいる・・・。ということは、文だけでなくよい思いのなかすべてにいる。ということは、いい自分でいることが大切ですね。自分が存在しているということが、すでに宇宙と一体化していることかもしれません。そう思うとすべてが愛しい存在に思えてきますね。(悪はそうおもわなけど、この世に2つの世界が必要なら、悪ともうまく共存しなければならないということになる気がします。心の中という意味でも・・・)
 無心の意味の中に「無邪気」という意味があるみたいですが、無邪気に笑いあえることが、やっぱり幸せなことなのかもしれない気がします。
 わ〜、また長々とすみません。できの悪い生徒(私はそんな気分です。)なので、すごく迷惑かけてますよね・・・。(時間をさいていただいているので)Shuさんの紹介してくれた本、探してよんでみます。それでは失礼します。

Posted by T・T at 2005年09月01日 09:03
> T・Tさん

 どうぞあまり過分な評価はしないでくださいね ^^;)
 人と人は、こうして話すことで、お互いそれぞれに自分が考えていることもあらためて明確化したりできるもので、一方が与え他方が受け取るというような単純なものではありませんもんね。
 互いに触媒になれるような関係、会話ができれば素晴らしいですよね。
Posted by Shu at 2005年09月01日 22:59
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