2005年08月28日

産経紙「正論」05.08.28


 本日付産経朝刊の「正論」欄は、元明治大学学長の岡野加穂留氏による寄稿で、「問われるべきは単純化政治の是非〜総選挙を国民投票とするなかれ」と題されたものだったが、僕としては非常に面白い(示唆的)な内容を随分含んでいたので、少し部分的に紹介してみようと思う。

 論旨はあくまで政治の単純化に対する警鐘であり、目下タイムリーな一例として、今回の総選挙を単純な郵政選挙とすることへの批判、そして、なおそのようにするのであれば、郵政改革に関する情報公開を徹底せよということが語られている。


 では、部分的に(僕の興味あるところを)紹介してみよう。

  一九七〇年代後半から八〇年代にかけて、中欧や北欧諸国に"シングル・イシュー・ポリティックス(単一課題政治)"を掲げた小政党が出現した。環境保護団体などを背景とした縁の党、環境党などいわめるアドホック″集団である。彼らは環境政策などをおろそかにした大政党の票を食い、さらに連立政権を組んだ時期もあった。シングル・イシュー政党は小集団の特徴であった。
 小泉首相の郵政民営化への執着は、単一課題選挙の形をとり、総選挙を国民投票と位置付けた。なぜ総合政党なのに争点を単純化したのか。国会議員の身分に無関係な国民投票は総選挙とは基本的に違うのである。



 これが冒頭に掲げられているために、「郵政選挙」への批判が主題とも見えがちだが、これは今回の一連の論旨の中での一例という位置づけ。

 こうした見方はひとつの見方として一理ある。しかしながら、今回の選挙については、やはり、任期満了総選挙でもなければ内閣不信任を受けての解散総選挙でもなく、与党公約に関して与党内で異論、公約否定が相次ぐという異例の事態に対して再度国民の判断を問うべく求めた選挙である(そもそもその公約は前回選挙で国民に約束したものであった)という意味で、必ずしもこうした批判には当たるまいと僕は思っている。
 もし通常の総選挙においてこうした単一課題選挙が唱導されたとすれば、それは全くここに述べられる通りに批判されるべきと思われる。

  もし郵政民営化実現一本の選挙ならば、思い切って踏み込んだ情報公開をすべきであろう。オウム返しに「民でできるものは民で」とか「小さな政府」の繰り返しでは、有権者の納得は得られまい。


 どのようなテーマであれ、民主システムのスジとしてこれは全くその通りである。
 であるが、、、しかし今回の場合、「『民でできるものは民で』とか『小さな政府』の繰り返し」で有権者の納得は得られるだろう。そこが危険といえば危険だ。

 しかし、これが選挙に対する意図的な問題単純化であるのか、そこが世間の関心事たる「論点」となっているからそこを強調するのか、その辺りは微妙なところだ。

 例えば僕自身は従来ここで述べてきているように、金融体制面から、郵政民営化そのものには慎重な立場に立っている。
 反対とまで言わず、慎重と言うに留めているのは、行政改革面においては明らかに郵政民営化のメリットに首肯でき、賛成もしているからだ。
 その天秤を測りかねているが故に、「慎重」という微妙な表現になる。

 しかしながら、現に国会においてもマスコミ世論においても、論点となっているのは行政改革上の話であって、その論点に即すならば、僕は賛成ということになるのであって、現在自分が政権を担っているわけでもなければ、時間的に前述の「天秤」を測り尽くす時間もないことで、今回選挙では小泉自民党を支持することにしている。

  一九九三年の「宮沢・クリントン会談」の約束で、九四年から日米間の市場開放問題を含めた経済・財政・金融などの交渉内容を米政府は公表している。しかし、この中で米側が市場開放と金融自由化に絡む郵政民営化を執拗に要求する部分については、日本国民に知らされていない。これは意図的と批判されても、やむを得まい。
 (中略)
 首相はあえて単一政策選挙に訴えた政治責任からも、選挙戦を通じて主権者に郵政民営化推進の米側の公開資料をすべて示し、有権者の理解を求めるべきである。



 この点は実に同感だ。
 しかし、これは今から選挙戦において言うのではなく(仮に野党から批判的に指摘するにしても)、本来国会において、もしくは国会までにおいて議論されてくるべきことであったと思う。

 そしてなるほど政府は、ある程度意図的にこの方面のことを目立たせないようにしてきたと僕も思っているが、しかしそれは個々の議員やマスコミにも問題はあったと思う。
 とうとうそれを国民の関心事にしないまま、今回の選挙も迎えているし、それに関する議論を欠いている状態で、ここに岡野氏が言うようには今さらそれを国民に判断させることもできまい、いかにも判断材料不足だ。

 郵政民営化は、明らかに米国が強く求め、圧力をかけてきていることであるのは事実であり、それは米国の金融戦略においてのことであろうと思われる。
 僕はしばしば、生産主体経済と金融主体経済ということを言うが、米国は既に明白に戦略的に後者を選んだ形跡がある。そして日本は、あまり意識されないまま、ゆるやかに後者を目指しつつあるように見える。
 ここに国家の大戦略、グランドデザインを議論する必要が、本当はある。が、そうしたことが意識されないまま、議論を経ずに、一部の人々によってゆっくり舵が切られつつある。

 むろん、金融主体とか生産主体というのは漠然とした表現ではあり、金融主体経済が生産を行わないわけでもなければ、生産主体経済を標榜して金融戦略を一切もたないものでないのは当然だ。

 現段階では僕は日本経済の金融主体化に反対だが、何よりも議論が必要だと言っているだけで、両者それぞれに理があり、どちらが間違っているということではない。これは選択の問題だから。
 ただし、いずれを選択しても、そこで勝ち抜く、生き抜くことが前提なのであって、その勝算が必要なのは間違いない。そしてたまたま僕は現時点においては、金融主体経済において日本の勝算は薄いのではと考えているだけだ。


  デモクラシーにとって大切なことは、政府の最終決定に対して、すべての人々の賛同を得ることではない。各人がその最終決定に対し、討論を通じて何らかの形で責献していく信念にある。


 実に同感。
 しかし、これを政治家個々の自覚に帰し、国民個々の自覚に帰すのは難しい。
 個々レベルでそうした自覚を持とうと考えるのはよいことだけれども、国は、そうしたインセンティブがはたらくようなシステムを整備することを考えなければ。
 立法システムであれ、行政制度であれ、法制、税制、、、人間というものは、制度の影響を大いに受けるものだ。
 スポーツやゲームにおいて、プレイスタイルがルールによって決まってくるように。
 「罪を憎んで人を憎まず」とは僕も好きな言葉だが、この言葉はそうしたことをも含み得るものだと思っている。

 故に、意思決定システムということについて、必ずしも現行の枠にとらわれず、僕もさまざま苦心思索しているところ。


  小選挙区を作ってみたものの、拮抗する二大政党時代にはまだまだ程遠い現状だ。自民も民主も地方自治体の末端組織である基礎自治体(町村)に足場を持たぬ根無し草"政党ゆえの悲劇だ。選挙で無党派層が決起すれば、逆ピラミッド型の党本部組織は崩れ、政界再編成のきっかけになるかもしれない。


 実は、これこそまさに僕の狙い目でもある ^^;)
 僕は、将来的には(道州制的なものへの移行を踏まえればなおのこと)「基礎自治体」→「地方政府」→「中央政府」という民意と政策の流通路(単なる地域問題でなく国策に及ぶ)の整備を構想しているが、いずれ別の機会に詳述。
 それとは全く別だが、現行においても、例えば僕がつくる選挙区事務所は平素、政策研究所的機能を含有して支持者の積極参加をうながしていきたいと思っている。


 以上、今回は格別統一的なテーマではなく、部分的に抜粋しながらの雑感的なものだけれども、いくつか面白い示唆を含んでいたので気まぐれ的に紹介してみた次第。


posted by Shu UETA at 21:14| Comment(0) | TrackBack(1) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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