2005年08月23日

運転禅・リラックス


今月号の「秘伝」(愛読の武術雑誌 ^^)を読んでいると、高岡英夫氏が、日常において座禅や滝行に代え得るものとして「車の運転」をあげていた。

 一般的には「はあっ?」ってところだろうけれど、実は僕はこれには非常に同感。
 というのも、高岡氏ではないが僕も自分で、車の運転を座禅になぞらえていたことが以前あったから。
 そこで今回のその記事には、違った意味で驚いた次第、僕もあながちズレてるわけではないな、などと。^^;)
 (高岡氏の話というのは常々、評価するには実に判断が微妙なところもなきにしもあらず…ではあるけれど)

 さらに、そこから「リラックス」ということについても考えてみた。


 今回高岡氏が前提として話していることのひとつは、いわゆる長時間の座禅であるとか、滝行であるとか、一般的に苦行としてイメージされるものの効果とは、これも一般的に想像されるような、「忍耐」や「我慢」による「精神力強化」などではなくて、むしろそうした、普通に行えばつらいことを、いかにつらくない方向に意識や身体をもっていくかにあるということだ。

 これは僕は実に同感、100%支持する。

 負荷や我慢などで鍛えた(かに見える)精神力だなどというものは、宗教であると武術であるとを問わず、古から修行者が求めてきたものとはまるで次元が違う。

 我慢をすることに意義があるのではなく、そうした状況においていかにラクな状況になれるかということが肝心で、そこにこそ、いわゆる苦行というものを通して、身体操作的に、あるいは意識の持ち方的に、なにがしかを得る可能性が出てくる。

 これではわかりにくだろうので、例え話を…

 あるプロ野球選手がこういうことを言っていたことがある(しかも何人かが似たようなことを言っているのを聞いたことがある)。
 だいたいプロの野球選手なんてものは、それこそリトルリーグくらいの頃からみっちり野球をやっている場合が多いわけだけど、とりわけ高校から大学にかけてというと、徹底的にしごかれてもいるし、本当にすごい練習量をこなしているものだ。
 今時は、なにかというと、合理的だとか非合理的だとか、練習も効率よく無駄な練習はせずに、なんてことも言われるけれど、しかし昔ながらの激しい練習には独特の効果もあった、と。
 その効果とは何かというと、すっごい負荷の中で、自然に上手い「手抜き」を身体が身につけるということだという。
 それは、コーチ監督が見てない時に手を抜くとかそういうレベルのことではなく、キツイ練習の中で、どうすれば最も効率的な動き、つまりラクな身体操作ができるかということを、無意識のうちにも身体が覚えていく、と。
 これは誰が言ってたか忘れたけれど、例えば長嶋茂雄氏の大学時代というと、当時の野球部は、それはそれは凄い練習…というかシゴキで有名だったらしい。その中で、氏特有のリラックス(あくまで身体操作上の)が生まれたのだ、と。
 そして、仮にもプロになっている選手というのは誰であれ多かれ少なかれそういうことを身につけてきた人たちだ、と。

 武術、特に僕がわかりやすい例で剣術などをやっている人ならば非常にイメージしやすいのは素振りだろう。
 素振りも、必ずしも数をこなすことが良いのだとは僕は思わないが(後述)、しかし、数をこなす意義がひとつだけあるとすると、そうした数(量)という負荷がつのった先に、効率的な動きを身体が覚えるということがある。それは、そうした負荷によって、自然に身体がそれを求めていくということだ。
 (剣道といわず剣術と言っている点で了解されるだろうが、スポーツではなく剣術において筋力強化などということは全く目的に供しないので、量の素振りのメリットとして筋力強化ということは含めない。むしろ筋力に頼る下手な素振りなどして無駄に筋力をつけようものなら弊害になる恐れの方が心配される)

 身体運動の話ばかりしたが、実はこれは頭脳作業にも同じような場合がある。
 例えば僕の経験では、英文の速読(あるいは斜め読み)というのは、勉強というよりも、追いつめられた状況で自然に身に付いていきやすい。
 自分がラクをしたいわけだ、だから少しでも雑に読もうとする、しかし雑に過ぎると内容を落とす、で、もう少しちゃんと読む、もう少し雑に、、、と、自然に微調整していくうちに、コツというものが身に付いていく。

 ああ、考えてみれば…英語といわず日本語とてそうだろう。ただ日常的過ぎて印象されにくいだけだ。
 仕事でも大学でも、限られた時間で大っ量の資料を読まねばならないときに、人は自然にそうしたコツというものを自分なりに身につけていくものだから。

 さて、しかしだから野球であれ武術であれ、そうしたところ(身体がラクを求め、覚える)を目指すためには強負荷と量のトレーニングが欠かせないのかというと、そういうことではない。
 そういう状況に追い込まれれば自然にそうなるというだけであって、意識的にそれを求めて訓練をすることができれば、必ずしもそういう状況に無理に追い込む必要はない。
 例えば、先の英語の例でも、自然に身に付くのを待つ前に、構文的な目の付け所など、コツをある程度学ぶことはできる。
 (ただし、野球のような例えでは、筋力強化という意味での負荷がある程度必要であるのは否定しない)
 (また武術においても、負荷を求めるというのとは異なる意味で、量の質転化ということはまた別にあるが今日は措く)

 高岡氏が言わんとするのもこうしたことであって、故に、高岡氏自身は座禅も滝行も経験して効果は感じたものの、別の意識的稽古によって同じ効果を得ることができるので座禅も滝行も(少なくとも自分には)不要であると言っている。
 そして、そうしたことをせずとも、効率的に同様の効果を得る稽古法を開発普及しようとするのが高岡氏のやっている仕事だ。(運動科学総合研究所


 少し視点を変えて、
 先ほどは量という負荷の話だったが、きわめて日本の伝統的なものに、「型」からくる負荷というものがある。
 ここでは、動きの自在性が制限される状況において、それが故に新たな次元の身体操作が生まれるということが起こる。
 武術の型というものが本来そうであるし、それでは理解しにくいだろうので、より日常的(かつての、だが)な例を出すならば、
 まず日本人の着物というものが、既にある種行動の自由を制限することによって、身動きを洗練する効果を得た。
 あるいは、武士は刀を腰にさしているため、普通に歩けば刀が振られて非常に不快、同時にみっともないのであって、そこで武士特有の線のぶれない歩みということも自然に磨かれる。
 駕籠かきは駕籠を担いで走るのだし、飛脚は飛脚棒を持って走る、するとそこでは、腕を使わずに身体の内部での振り子的操作が必要になってくる。
 座禅にもやはりこうした「型」的負荷ということがある。


 こうした「量」の問題や「動きの制限」ということから、高岡氏は、「車の運転」を座禅や滝行同様の効果を求めることができる(むろん取り組み方次第でだが)ものだと述べている。

  最後に私が考える、現代における非常に普遍的な座禅行に相当する行をひとつ紹介しておきましょう。それはクルマの運転です。クルマの運転というのは、適度に負荷のあるいい鍛錬です。皆さんもクルマに乗る機会は多いと思いますので、ぜひそのように捉えてください。たとえばクルマを10時間運転したら、乗る前よりも降りるその時の方がはるかに身心ともに調子がよくなるような運転の仕方をしてください。それは運転の表面的な技術ではなく、まさに本質的に心身ともにそういう存在の仕方をすることが大事なのです。
 (中略)
 運転中のドライバーは、運転席に拘束され身体の動き、姿勢が制約されています。しかも運転は生死に関わる作業ですから、身心にそれなりの負荷がかかっています。そうした環境で、もっと前向きに考えて、身心の本質的な開発修行法としてぜひとも位置づけて、誰もがクルマに乗る前よりも、運転してクルマを降りる瞬間のほうが身心ともに圧倒的に快適になるように心がけて欲しいものです。
 これはけっして夢物語ではなく、事実私の元でトレーニングを積んでいる某レーシングドライバーは、まさにそういう方向の歩みをしていて、耐久レースで圧倒的な強さを見せています。たとえば1チーム4名のドライバーでエントリーした24時間耐久レースでも、彼ひとりが合計10時間以上も走って、しかもバテることなく安定したタイムを出し、そのタフネスぶりは関係者の注目を集めています。でもそれは肉体的なスタミナではなく、運転そのものがまさに座禅行で、走れば走るほど身心がよくなっていくというサイクルに入りはじめた結果なのです。



 僕も、こうしたことは可能だと思っている。

 僕自身は、いずれそもそも何ごとをするにもリラックスし切っているし、何をどれだけやろうと、生まれてこのかた肩がこるという経験すらまだないタイプではあるのだが、車の運転でもバイクでも、基本的に運転で疲れるということはない。(だって身体的にはただ座ってるわけだから、と僕はよく言うのだが)
 とは言え日本の端から端まで走ったことはないけれど、しかし青森県−神戸間や、浜松−鹿児島間などは何度か往復している。
 青森〜神戸でも、給油ついでのトイレ休憩3回だけだし、浜松〜鹿児島も同じく3回だけ。(かつ一般的に言えば僕は相当速い速度で走っている)
 一人で退屈というつらさはあったけれど、運転に疲れるということはない。

 それは一にも二にも、身体に余計な力を入れないということに尽きるし、たまたま僕は天性そうした性質なのでラクなわけだが、もうひとつ、さきに書いたような「退屈」をなんとかするために、僕は座禅ということを思い出した。(もともと座禅は好きだったので)

 運転しながらでも、呼吸を整えて座禅をしているつもりで心をシーンとさせていくと、座禅同様、あるところから、ある種の無に近い感覚になっていく。脳波的にどうなのかわからないが、いかにも耳学問のイメージ上のα派的感覚だ。
 そしてそうなると、身体はリラックスしているし、それでいて反応が非常によくなる。
 もっとも僕も、これは長距離走行の場合であって(本来が退屈しのぎというか、無駄時間を利用しての稽古の一環なので)、普通に街乗りの際にそんなことはしていないけれど。

 僕も座禅、滝行ともに経験があるが、そんなことより何層倍も重要と思える僕の原体験は、ずっと昔、四国ツーリングで、高知の桂浜から香川県の高松まで単車でノンストップで走ったときの経験だ。
 この時は、下道、夜、雨という三重苦の中を走ったわけだけど、(乗るひとはわかるだろうけど)バイクで夜間、雨中というと相当な集中力が必要になる。しかも当時の僕はスピード命だったので ^^;)、かつ道中大部分を占める山道は徹底的に攻撃的に走っていた。
 自分ながらドキドキするような緊迫感の中で走っていたわけだけど、ふと、途中から意識が透明化してくるというか、シーンとなってくるというか、自分なりのイメージ上の「無」というか、そうした感覚になってきた。すると、状況掌握も操作の反応も抜群に速くなり、しかも全く疲れない、身体のどこにも力みがない、そんな状態になった。しかも、高松でバイクを降りて立ったときにも、通常あるような疲労感が全くない。

 そして今にして思えば、これこそが、「自然にそこにたどりつくための負荷」であり「長嶋さんの大学時代の猛練習」にあたるものだったのではないかと思う。
 その当時はまだ車には乗っていなかったので、果たして「それ以前」に車を運転していたらどうだったかということはわからないけれども。

 しかし当然ながら、こんな経験は人にはお薦めできない。冗談ではなく、運が悪ければ本当に死ぬので ^^;)
 そこで、「負荷から自然に」ではなく「求めて意識的に」ということがここでも言える。

 その「意識的に」の中身を明確に話すことはできないし、人それぞれでもあろうけれど、まずひとつ言えるのは、「リラックス」ということだと思う。

 これは気持ちのリラックスよりも、身体をリラックスさせることが大切。(それがちゃんとできれば、心は自然にリラックスする)
 リラックスなんて簡単なはずなんだけれど、多くの人はこれが苦手である場合が多い。ただ本を読んでるだけ、ただパソコンを操作してるだけ、そんな時でも、僕が見る多くのひとは、肩が落ちていない。首もゆらっとしていない。キーボードを叩く力は妙に力強い。
 はじめは、しばしば自分で身体に意識を向けることだろうと思う。

 練習に最適なのは、わかりやすいという意味でまず「肩」から「首」。
 「肩」は、慣れるまではしばしば意識を向けて、自分のいちばん低いところまで肩が落ちているかどうか。上がっていれば落とす(力を入れて落とすのではなく、力を抜いて落とす)
 「首」は、手のひらに棒を立ててバランスをとるように、背中を真っ直ぐにして、首の力を抜いて、少し重心を変えると後ろや前や横に頭が倒れる状態で、ゆらっと頭を真ん中に保つ感じを味わって、そのゆらっとした感じをいつでもイメージできるようにして、何かしているときでも、そのイメージと比較して力を抜く。(実際には例えば仕事中であっても当然頭は少し前に傾けているので、完全に脱力することはできない。できないが、その「ゆらっ」感を思い出すことに意義がある)

 次にやりやすいと思う練習法は、パソコンのキーたたきだろうと思う。日常的に仕事でも使っているはずなので。
 どうするかというと、いかに最低限の力でキーを打つかということ。
 力を入れずに入れずに、抜いて抜いて、キーがちゃんとたたける最低限の力を出力してみる。それで普通に文章を打っていく。
 とかく無駄な力の入る人というのは、何をしても無駄な力を出力しているもので、当然キーを叩くにもそれは現れてくる。
 これは仕事しながらでもできるので、余計な力を抜くということがどういう身体的イメージかということを意識できるようになりやすいと思う。
 しかも、キーを叩く音は軽やかになるし、いかにもいい音がするようになるはずだ。(メーカーにより無論差はあります。 ^^;)

 ついでに、これは失敗すると被害があり得るので要注意だけれど、何かものを持つ際に、やはり同じように、いかにギリギリ必要な最低限の筋出力で持つかということも面白い。落とさないギリギリの力というものを味わう。
 これは大きなものではなくて、小さいもののほうが練習効果がある。つまり、ペンだとか手帳だとかコップだとか。
 そして、やがては物を見た瞬間にその必要筋出力を判断して最初からその力で持つようにする。

 あるいは、箸で試す手もある。箸で、必要最小限の力でものをつまむ。特に箸の場合は、あえてそうした意識を持たずとも、力を入れてはかえってつまめない物もある。こうした意味でも、箸というものはそれ自体が既に身体操作を開発し得るツールだ。

 単車や車をある程度乗りこなすには、アクセル開度をどれだけ小さな刻みで意識して細かく操作できるかということが重要だけど、これは筋出力についても同様。力を入れる、抜くというon/off状態に近い状態という人もいる。しかし自分が出力する筋力を自在に細かく操作できるようになれば、明らかに動きはスマートになるし、無駄な力も抜けるという寸法。
 往時に聞く、ただ杯を上げ下げしているだけで剣の腕前のほどが知れるというのは、こういうこともあるだろう。


posted by Shu UETA at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 武術/身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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