2004年09月16日

分を尽くす

 先日、テレビ大阪で
 「千年の涙 〜 悲しみの皇女"斎王"の謎」
 という番組があった。
 (製作もテレビ大阪だが、テレビ東京などでも放映されたのか…は不明 ^^;)

 千年の涙 〜 悲しみの皇女"斎王"の謎(番組は終わってるけど、一応参考まで ^^;)

 斎王というと、歴史に明るい人はご存知だろうが、平安時代まで、天皇の名代として賀茂神社と伊勢神宮に派遣され斎主として常駐していた天皇家の女性。

 今回の番組では、伊勢神宮の斎王を描いていたが、「悲しみの皇女」とのサブタイトルにもある通り、悲劇のヒロインというスタンスで描いていた。
 番組内容自体は、そう新鮮な内容でもなく、紀行番組的なところも多かった。

 が、彼女たち斎王を、「時代に翻弄され歴史に埋もれた」悲劇の人々と描く点に、違和感を覚えながら、「分を尽くす」ということについて考えた。
 番組の最後も、
 「時代に翻弄され歴史に埋もれた」彼女たち…というナレートでしめくくられたが、
 果たして、時代に翻弄されず、歴史に埋もれない人、など一体どれほどいるのだろう?と考えた。

 彼女たちの運命を悲劇というのは、自分の希望ではなく斎王などにされて、若い、あるいは幼い身で、京を離れ伊勢などへ赴き暮らさねばならなかったこと、しかも歴史の表舞台ではなく歴史に埋もれた存在であること、といったことによるようだった。

 しかし、誰であれ(ましてあの時代は特に)皆、多かれ少なかれ、さまざまな宿命に生きている。
 天皇に生まれることも然り(歴史に埋もれはしまいが^^;)、貴族たちもしかり、まして庶民たちはもちろん。
 今日のわれわれだって、そうだ。
 封建社会でないとか、自由主義、民主主義の世だと言っても、だから誰もが平等な環境に生まれ、育ち、なりたいものに何にでもなれるわけではない。

 いつの世でも、今も、結局は皆んな、自分の「分」に生きるしかない。
 こう言うと、ネガティブな響きがあるが、そうではなく、積極的な意味で、自分の「分」を尽くして生きるということ。

 「分」とか「分際」というと、妙に悪い印象があったり、現に私も昔は好きな言葉ではなかったが、最近は、この「分」という考え方が好きだ。

 数年前に、たしか「武道通信」だったと思うが…それに載っていた記事の一部をPCに書き抜いてある。が、誰の文章か書き忘れ、覚えていないこともあり…^^;) そのまま引用しにくいので、その一部のさらに一部の、しかも要旨を少しここに写してみたい。
 
  •  日本人の誇りは「分を尽くす」ことで培われてきた
  •  本来、「誇り」とは、他に勝っているから生じ、他に劣っているから失われるという類のものではない。「誇り」とは、他にも代え難い自らの存在意義を内面から支えるものである。
     従って、それは順境の時期よりも逆境の時期においてこそ、大事にされるべきものである。総てを喪ったと思われた瞬間においてでさえ守られるべきものこそが、「誇り」と呼ぶに値する。
  •  野茂投手にせよ、中田選手にせよ、プレーヤーとして所属するチームの中で引き受けた役割、あるいは「分」を誠実に果たしている。
  •  人々が他の誰にも代えられない存在になるのは、人々が社会の中で引き受ける「分」を尽くしていればこそである。
  •  それぞれの「分」自体には、格の上下といったものはない。格の上下があるとすれば、それはそれぞれの「分」を尽くしたかどうかということによって決まる。
     「国益を守れない高級官僚」と「世間の評判の高いラーメン屋の親父」とを比べれば、尊重されるべきが後者であるのは、当然のこと。
  •  無論、それぞれの人々にとって、自らの「分」を尽くすことは難儀なことである。けれども、その難儀なことを繰り返してこそ、自分に対する「誇り」が生じてくる。
     野茂投手や中田選手にとって、メジャー・リーグやセリエAは夢の舞台であるかもしれないけれども、「分」を尽くすには最も難儀な舞台であることであろう。そのような最も難儀な舞台で活躍する彼らが、「誇り高い」と評されるのは、当然のことなのである。
  •  日本が誇れるものは、「人々が自らの分を尽くし、そのことを周囲が尊重してきた社会の有り様」ということではなかろうか。そして、我が国は、そのような社会の有り様を理想として国造りをしてきたのである。
  •  武士階級には武士道という名の「階級規範」があったし、商家における家訓にも見られるように、庶民階級には庶民階級としての「階級規範」があった。また、遊郭の花魁の世界にも、花魁としての作法があり、花魁を相手にする遊客は、たとえ大名や豪商であっても、その作法を尊重することを求められていた。つまり、それぞれの人々は、自らの「分」を守り、他の人々の「分」を尊重することを旨としてきた。
  •  われわれに大事なことは、自らの「分」を見極め、その「分」を誠実に尽くしていくことである。そしてそのことが誇りへと結びつく。


 この「分」というものは、不可避に運命的に与えられている部分もあるだろうし、また、自分で見つけなければならない部分もあるだろう。

 先の例の斎王たちは、天皇の娘などに生まれた人たちであり、日本人らしさをしっかり身につけて育った人たちに違いない。そして皆、粛々と自らの「分」を誇りをもって果たしたのではないだろうか。
 畏れながら、今日の
天皇陛下、
皇太子殿下らの方々も、同様にそうしておられるように。

 しかし今日においては、自由な社会であればこそ、なおさら、人々にとって自分の「分」を見定めることが難しくなっているかもしれない(無理矢理与えられる程度が低くなった分だけ)。
 (もちろん今日であっても、家の事情や、さまざまな状況によって狭められたり、制限されている人も、選ぶ余地少なく、自らの「分」が与えられている人もあるだろうけれど。)

 チームスポーツの中で、チーム内で自分のポジションなりの「分」を果たすように、仕事や人生において自分の「分」を果たすには、自分のポジションを見つけなければならない。
 それが難しいのだろう。さまよっている人は多い。
 しかし、それが自分が持たないものを持つ他者を妬んだり、誹謗したり、あるいは自分の境遇や能力に愚痴ってばかりいるようなことであってはならない。
 自分が持たないものではなく、自分が持つものに目を向けたい。

 世の中のことは、本来そういうものだ。
 戦争のシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)などは、お互いが平等な条件のゲームではない。戦力も異なる。しかし、どんなゲームよりも「リアル」なのは、戦場はもちろん、現に世の中はそうできているからである。
 軍人は、敵に比べ自分の戦力が少ないだの、何が無いだのとは言ってられない、いざ政治から命じられれば、与えられたものだけで知恵と勇気を絞って最善を尽くし、勝利を求めるのが使命だ。
 しかし、これは戦争に限らず、スポーツでも仕事でも同じではないだろうか。
 野球チームの監督だって、ライバルチームと平等な戦力をもって戦うわけではない。
 仕事においても、ライバル企業と同様の条件下で競争するのではない。そういうことがあるのは、文字通り遊戯の世界だけだ。
 うまく言えないが、人生で、世界で自分の分を尽くすというのは、こうしたものではないだろうか。

 こうしたとき、自らの「分」をこれと選ぶという意味では、「才能」というものは天下の宝だと思う。
 他人の才能を大切にし、その萌芽、発揮に力を貸すのは周囲の人々の務めだと思うし、また、自分の才能を育て、発揮するのも、人の務めだと思う。

 そして自分の「分」を見極めたなら、あるいは仮に見極められなくとも(いつまでも彷徨うより)これこそと決意したならば、その「分」を懸命に尽くしたいものと思う。
 そして、それに裏付けられた「誇り」を持ちたいもの。
 さきの引用にあるように、人の「分」に格の上下はないが、あるとすれば、どこまで「分」を尽くしたかが人の差になるのだろう。
 (事実、尊敬に値するラーメン屋のオヤジは本当にたくさんいる ^^)

 私は「五箇条の御誓文」が好きなのだが、中でも、第三項が大好きで、自分の政治に対する信条のひとつでもある。勝手に「志」を「夢」と置き換えもして感じている。
 しかし同時に、これは皆がその分を尽くす、そして誰もが分を「尽くせる」ような、そしてそれに倦む(うむ)ことのない世の中を標榜してもいると思う。

  官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。


 こういうことを言い出す度に、まだまだ自分の至らないところを痛感してしまうのだが…
 故に、こうして、時々に自分に発破をかけないと。 ^^;)


posted by Shu UETA at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 武士道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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