「千年の涙 〜 悲しみの皇女"斎王"の謎」
という番組があった。
(製作もテレビ大阪だが、テレビ東京などでも放映されたのか…は不明 ^^;)
千年の涙 〜 悲しみの皇女"斎王"の謎(番組は終わってるけど、一応参考まで ^^;)
斎王というと、歴史に明るい人はご存知だろうが、平安時代まで、天皇の名代として賀茂神社と伊勢神宮に派遣され斎主として常駐していた天皇家の女性。
今回の番組では、伊勢神宮の斎王を描いていたが、「悲しみの皇女」とのサブタイトルにもある通り、悲劇のヒロインというスタンスで描いていた。
番組内容自体は、そう新鮮な内容でもなく、紀行番組的なところも多かった。
が、彼女たち斎王を、「時代に翻弄され歴史に埋もれた」悲劇の人々と描く点に、違和感を覚えながら、「分を尽くす」ということについて考えた。
番組の最後も、
「時代に翻弄され歴史に埋もれた」彼女たち…というナレートでしめくくられたが、
果たして、時代に翻弄されず、歴史に埋もれない人、など一体どれほどいるのだろう?と考えた。
彼女たちの運命を悲劇というのは、自分の希望ではなく斎王などにされて、若い、あるいは幼い身で、京を離れ伊勢などへ赴き暮らさねばならなかったこと、しかも歴史の表舞台ではなく歴史に埋もれた存在であること、といったことによるようだった。
しかし、誰であれ(ましてあの時代は特に)皆、多かれ少なかれ、さまざまな宿命に生きている。
天皇に生まれることも然り(歴史に埋もれはしまいが^^;)、貴族たちもしかり、まして庶民たちはもちろん。
今日のわれわれだって、そうだ。
封建社会でないとか、自由主義、民主主義の世だと言っても、だから誰もが平等な環境に生まれ、育ち、なりたいものに何にでもなれるわけではない。
いつの世でも、今も、結局は皆んな、自分の「分」に生きるしかない。
こう言うと、ネガティブな響きがあるが、そうではなく、積極的な意味で、自分の「分」を尽くして生きるということ。
「分」とか「分際」というと、妙に悪い印象があったり、現に私も昔は好きな言葉ではなかったが、最近は、この「分」という考え方が好きだ。
数年前に、たしか「武道通信」だったと思うが…それに載っていた記事の一部をPCに書き抜いてある。が、誰の文章か書き忘れ、覚えていないこともあり…^^;) そのまま引用しにくいので、その一部のさらに一部の、しかも要旨を少しここに写してみたい。
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この「分」というものは、不可避に運命的に与えられている部分もあるだろうし、また、自分で見つけなければならない部分もあるだろう。
先の例の斎王たちは、天皇の娘などに生まれた人たちであり、日本人らしさをしっかり身につけて育った人たちに違いない。そして皆、粛々と自らの「分」を誇りをもって果たしたのではないだろうか。
畏れながら、今日の
天皇陛下、
皇太子殿下らの方々も、同様にそうしておられるように。
しかし今日においては、自由な社会であればこそ、なおさら、人々にとって自分の「分」を見定めることが難しくなっているかもしれない(無理矢理与えられる程度が低くなった分だけ)。
(もちろん今日であっても、家の事情や、さまざまな状況によって狭められたり、制限されている人も、選ぶ余地少なく、自らの「分」が与えられている人もあるだろうけれど。)
チームスポーツの中で、チーム内で自分のポジションなりの「分」を果たすように、仕事や人生において自分の「分」を果たすには、自分のポジションを見つけなければならない。
それが難しいのだろう。さまよっている人は多い。
しかし、それが自分が持たないものを持つ他者を妬んだり、誹謗したり、あるいは自分の境遇や能力に愚痴ってばかりいるようなことであってはならない。
自分が持たないものではなく、自分が持つものに目を向けたい。
世の中のことは、本来そういうものだ。
戦争のシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)などは、お互いが平等な条件のゲームではない。戦力も異なる。しかし、どんなゲームよりも「リアル」なのは、戦場はもちろん、現に世の中はそうできているからである。
軍人は、敵に比べ自分の戦力が少ないだの、何が無いだのとは言ってられない、いざ政治から命じられれば、与えられたものだけで知恵と勇気を絞って最善を尽くし、勝利を求めるのが使命だ。
しかし、これは戦争に限らず、スポーツでも仕事でも同じではないだろうか。
野球チームの監督だって、ライバルチームと平等な戦力をもって戦うわけではない。
仕事においても、ライバル企業と同様の条件下で競争するのではない。そういうことがあるのは、文字通り遊戯の世界だけだ。
うまく言えないが、人生で、世界で自分の分を尽くすというのは、こうしたものではないだろうか。
こうしたとき、自らの「分」をこれと選ぶという意味では、「才能」というものは天下の宝だと思う。
他人の才能を大切にし、その萌芽、発揮に力を貸すのは周囲の人々の務めだと思うし、また、自分の才能を育て、発揮するのも、人の務めだと思う。
そして自分の「分」を見極めたなら、あるいは仮に見極められなくとも(いつまでも彷徨うより)これこそと決意したならば、その「分」を懸命に尽くしたいものと思う。
そして、それに裏付けられた「誇り」を持ちたいもの。
さきの引用にあるように、人の「分」に格の上下はないが、あるとすれば、どこまで「分」を尽くしたかが人の差になるのだろう。
(事実、尊敬に値するラーメン屋のオヤジは本当にたくさんいる ^^)
私は「五箇条の御誓文」が好きなのだが、中でも、第三項が大好きで、自分の政治に対する信条のひとつでもある。勝手に「志」を「夢」と置き換えもして感じている。
しかし同時に、これは皆がその分を尽くす、そして誰もが分を「尽くせる」ような、そしてそれに倦む(うむ)ことのない世の中を標榜してもいると思う。
官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。 |
こういうことを言い出す度に、まだまだ自分の至らないところを痛感してしまうのだが…
故に、こうして、時々に自分に発破をかけないと。 ^^;)
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