2005年08月05日

素手の議論


 先日来言及している「構造構成主義」の提唱者、西條剛央氏が、氏のmixi日記で、加藤典洋氏の著書「僕が批評家になったわけ」についての感想として、膨大な「知識」を楯にではない、素手の議論ということについて述べておられた。

 実は僕はこのフレーズに大いに同感し、惹き付けられた。

 氏は次のように書いておられた。

  そして,批評というものが膨大な「知識」を楯に展開するのではなく,基本的には素手で議論してよい,という持論にも多いに共感した。

(中略)

 もちろん,「フッサールがこんなことを言った」とか,「〜の主張は間違っている」と批判したりといった類のことは,その人の本を読んで,理解していないとまともにできやしない。それは当然のことである(その意味でも,僕は公の媒体における「批判」という行為には慎重なのである。的はずれな批判をすることは研究者として極力回避したいことの一つだからだ)。

 メロンを食べたことがない人が,メロンの味を批判したり,メロンについてまともな議論ができないのと同じである(そんな人はいないだろうけど)。
 
 それゆえ,「学問」としては,関連する先行研究や文献を踏まえて(引用して)議論する必要があるのである。


 だが,ある思想や理論の底に流れる「理路」そのものは,その「理路」さえ掴んだという感触があれば,ちゃんと議論することはできる。

 ゆえに,その意味において,膨大な知識を持っているにしか発言権をもたせなかったりするのは,おかしい。

 どんなに知識を持っている偉い人あっても,「1+1=3」といったら,それは基本的に「間違っている」といわねばならない。

 したがって,もし「それは2ではないでしょうか」と過ちを指摘されたのに対して,「君のいうことを聞くつもりはない!」とかキレる人は,権威主義者ではあるが,学者(研究者)ではない。

 そういう人は,「持論」に固執し,「権威」を保守しようとするあまり,研究者として,否,人間として大事なものを失っていることに気付いてはいない。

 学者ならば,「あ,ごめんごめん,そりゃそうだね」と認めれば良いのである。

 間違えを認めることは,誰にとっても難しいことだが,恥ずかしいことではない。

 研究や学問といえども,人間のやることである。

 「『絶対に間違わない』ということは絶対に無理」と言う他ない。

 そしてこのことは「絶対に真である」と言いうる数少ない命題の1つでもある。

 したがって,「間違えること自体」は,なんら恥ずべきことではない。

 恥ずべきは,「間違えを認めようとしない頑迷な態度」に他ならない。


 繰り返すが,自分の理路の過誤を認めることによって,そのひとの学者(研究者)としての価値を損ねることはない。

 「この理路は間違っている」ということが分かっただけで,他の人はそれに惑わされずに,それ以外に道を探れるようになるからだ。

 過誤を認めることによって,学知の発展に貢献したことになるのである。 

 それゆえ,むしろ,そうした開かれた態度は,本物の「研究者」(学者)であることの「傍証」ですらある。

 そうした態度は,建設的な議論を重ねることにより,より優れた「理路」を編み上げていくための,欠かすことのできない「資質」の一つなのである。




 政治的な分野では、僕自身は、よく「良識」「健全な常識観」「道理」ということを言うのだけれど、上記の文中の氏の言葉でいう「理路」というものを加えて、そうしたものの具備ということを大切に考えたいと思う。

 政治的、思想的な分野では、特に、いわゆるインテリ層の間では、こうした「良識」「道理」「理路」ということよりも、既存「知識」「理論」「学説」ということを拠り所にし、またそうした知識の蓄積を誇るような傾向がしばしば観察される。

 「インテリ層」とは何とも対象の幅広い表現だけれども、政治環境的には、真正の学者研究者でなくとも、ごくごく一般の人々の中の「ちょっとしたインテリ」「ちょっとした訳知り」といった人々に、一層この傾向が強いように思われる。

 西條氏は文中、学者の権威主義を戒めておられるが、こうした権威主義はむしろ「ちょっとしたインテリ」の間において何倍も強力だ。
 しかも、西條氏の言う権威主義者は学者として持論にこだわる権威主義的態度だが、「ちょっとしたインテリ」という人々に散見される権威主義的態度とは、自分ではなく権威ある(とされる)他者の権威に纏わろうとする、僕に言わせれば卑怯でみっともないものだ。
 そこでは、なおのこと「知識をもっている人にしか発言権を与えない」雰囲気が生まれる。

 かつ始末に負えないのは、学究の世界においては現実的には「ちょとしたインテリ」などが研究活動に関与することはないが(基本的に彼らは一般の人々なので)、政治世界、社会においては、そうした敢えて言うなら「似非インテリ」が非常に大きな影響力をもっている。

 と言って、知識が不要というつもりがないのは、僕とて西條氏と同じであって、しかし、「理路」を「道理」を掌握して議論を行うことはできるというも同感だ。
 また、そうした前提のない「膨大な知識」などは、利がないとは言わないが、むしろ百害のもとだ。

 いったい、大学というところは洗脳所ですかと思うくらい、政治、法学関連の学生、出身者というのは凄まじい人々が多い ^^;) そうした人々との議論は実に骨が折れる。(むろん、そういう人がいるというだけで、そうでない人もたくさんいる)
 もとより僕はひねくれている故かもしれないけれど、何故そんなにテキストに書いてあることや教授の言ったことをそのまま鵜呑みにできるのですか、と不思議に思わずにはいられないこともしばしば。

 そして、当然ながら全体ではなくごく一部を学ぶに過ぎないから、既存知識の中でも特に自分が学んだ学派学説をもって、他の学派学説を否定することになる。
 ここには「信念対立」というものが生まれるが、自ら作り上げた、もしくは少なくとも選択した信念というよりは、単に出逢い学んだ信念というに過ぎない場合もままある(ついた教授がそうであったとか)。

 立憲制というもの、憲法のあり方というものはこれまでも進化(語弊があるか、変化変容としておこう)してきたものだし、今日においても、いずれかの国で新しい憲法ができる際には、何らかの進展が加えられてきている。
 これは、一般の人にはむしろ理解しやすいのだが(それこそ庶民の健全な良識的に)、いったん憲法論などを下手に学んだ者には、学んだ知識(これはあくまで過去に関する知識である)を楯に、新しい概念の提出(たとえば国民の義務の記載といった)に対して、その是非や内容を議論するのではなく、従来の憲法論の立場で「憲法の何たるかを知らないっ」と激昂する人々も出てくる(憲法そもそもの意義は国権制限にあるというのは、なるほどその通りなのだ)。


 何らかの技術を身につける上では素直ということが大切だし、小中高といった教育の間にはむしろ重要な素質だろうけれど、大学以降について、つまりようやく学問の場に近づいてからは、かえって危険だろうなと思う。
 (余談だが、故に、本来素直に取り組んでいるべき義務教育期間に思想的な教育を行うのは非常によろしくない。が、それをこそ精力的に行ってきた傾向が、戦後の教育界には長くあったろう)

 余りにも当たり前のことだが、知識は知識を目的とするものではない(いや、趣味としては結構だが)
 そして、自らプチ・インテリのような知識量を誇らずとも、堂々と理路、道理をもって議論に参加すればよいと思う。
 しつこいが、これは不勉強の薦めではなく、知識の蒐集よりも本質の掌握にこそ集中せよということだ。
 もちろん見識は、ある程度の量の経験の中からしか出てこないが、しかし量の多寡と見識の質は比例するものではなく、むしろ取り組み姿勢の問題が大きい。これはスポーツにおける練習と同じだろう。

 さらに言うなら(これは誰に対してもとはいかないだろうが)、自らの力で新しい理論なり概念を生みだしてやろうというくらいの野心と意欲をもって既存の知識体系に対するくらいの姿勢があってよいのではないか。


 些か視点をかえて、
 さて、政治は、人々、国民に対して、この「理路」「道理」ということを説かねばならないだろう。
 よく言われる「わかりやすい言葉で」というのは、単に使用する用語を選ぶということではなくて、そういうことでなければならない。

 このblogでもしばしば指摘するところではあるが、しかるに、政府は国民への説明ということを余りにも欠く。
 一方で、プチ・インテリたちは、知識を競い、既存理論をこね回すことに終始する。

 また、政治家というのはそもそも学者ではなく、国民の代表、代議者であって、まさに国家的理路と国民的道理で仕事をするのでなければならない。

 大臣というものは不勉強ゆえか(就任の席上公言して憚らない者も多い ^^;)、しばしば配下の官僚組織に丸め込まれてしまうことがあるが、それは、担当分野に関する知識量の絶対的な差による場合が多いようだ。
 しかし、大臣は官僚と同じ土俵で議論するものではないのだ。むろん卑屈になる必要も全くない。逆に言えば知識なぞは官僚に聞けばいくらでも出てくる。要は、そうした知識、理論を踏まえて、どのように本質を掌握し、進むべき方向を指し示すことができるか、だ。
 これは軍隊における将校と下士官の関係と同じだ。
 まさに「素手で議論」すればよいのだ。

 少なくともこの点においては、かの田中角栄氏は文字通り政治家らしい政治家だったろう。(もちろん、知識に関しても氏が相当な勉強家であったことを付言しておく必要はあるが)

 実態はともかく本来は、この故にこそ「政治的判断」「高度な政治的判断」ということも現れてくる。

 そして政治家は、官僚の言葉ではなく、上記のような意味での政治の言葉で国民に語らねばならない。
 国民も、屁理屈や一見高尚な理論にかまわず、健全な良識観でこれを審判すればよい。
posted by Shu UETA at 20:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 拙文を引用していただきありがとうございます!

 マスコミを通してみる政治家の,あからさまな,あるいは「戦略」だとしてもあまりに拙い「感情論」や,信念と理念の欠如した「政治活動」や,結論ありきのとってつけたような「エセ根拠」には,正直ヘキヘキする部分もあります(x。x)゜゜

 ですが,最近,Shuさんのような鋭い本質直観と理念(志),それを実現するための戦略的知性と理路,そしてそれを伝える言語等々の能力を併せ持った方がいるということを知って,とても嬉しくおもっています!
Posted by たけぞう at 2005年08月21日 23:29
> たけぞうさん

 かたじけないお言葉です
 と、う〜む 同じことばかり答えずにはいられません。^^;)

 オウムではありませんが、もうひとつ、
 せっかくのご評価は裏切りませんので、ぜひ期待してお見守りください ^^)v

 僕も、たけぞうさんたち皆さんと、活動分野、領域云々ではない広い意味での良き仲間になれたらと、近頃一層やる気に燃えておりますっ
Posted by Shu at 2005年08月22日 04:35
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