僕は、政治社会の意思決定における信条、信念(あるいは利益観)の対立、さらには国際社会における国家間、文明間の価値観、理念の摩擦ということ、そしてその超克ということに非常な(自分の中では最大と言い得るような)関心をもっている。
先日、SNSのmixiで、構造構成主義という認識概念に偶然出逢った。
僕は武術的関心で、甲野善紀氏のコミュニティー(氏が参加しているわけではない、氏を話題とするという意味)に参加しているのだが、そこで、「構造構成主義」コミュニティーというものが紹介されていた。
いわく、甲野氏の身体操作法探求の方法論を、科学的方法論として位置づけることができる理論であるという。
興味を抱いてそのコミュニティーを覗きにいってみたところ、そこでの議論の土台となるテキストの目次が紹介されていたのだが、これを一瞥すると、いつもの直観が働いた。そこでその場で入会し、早速件のテキストをAmazonで注文。
届いた日の深夜と翌日の深夜、引き込まれるように読んだが、僕にとって非常に魅力的なツールになり得る予感が強く湧いた。
一度目の読了を済ませた今朝早朝から、少なくとも現在、僕は構造構成主義者、あるいは構造構成主義ユーザーとなった。^^)
そのテキストというのが、西條剛央氏による「構造構成主義とは何か」だ。
冒頭に述べたような関心に加え、そして僕が(少なくとも現行のような)民主主義意思決定システムを決して好んでいないようだ、というのは、長い読者の方はうすうす感じているかもしれない。
時折に僕が揶揄してきたように、今日の民主主義システムというもの(特に日米のスタイルにおいて)は、各個あるいは各勢力が自らにとっての利益追求をめぐって闘争し、より声の大きい、あるいはより大きな徒党を形成した勢力がこれに勝利し、利益を分け合うという、僕に言わせれば、分捕り山分けシステムのようなものだ。
自由主義的視点に立てば、縦の闘争ではなく横の闘争であるという意味で、それはそれである種のベターなシステムと言える面もあるのはもちろんだが、いずれにせよこのシステムは、戦闘のような物理的暴力を避けるための智慧といった面が強く、戦闘を非肉体・生命的闘争に置き換えた、というところまでしか到達しておらず、闘争というシステムを脱してはいない。(むろん、「脱する」必要があるかどうかは見解の分かれるところであろうけれど、僕は脱したいと思っている)
さきに、個々は自らの利益追求のみで闘争する傾向があると言ったが、仮にこれが個々の利害得失を越え、自分たちの社会にとって何が良いのかという(「一般意志」的)立場にそれぞれが立ち得たとしても、そこには「信念の対立」ということが起こり、ある意味では個々の利害得失原理よりも妥協の余地ない闘争ともなり得る。
結果的にこれを解決するのは、命題の真否でも確からしさでもなく、パワーであり数でありということになる。いや、そういうことにしようと言っているのが民主主義だともいえる。
国際社会に目を転じれば、やはりそこで観察されるのは、国をプレイヤーとした上記同様の(一見)民主的平和的な闘争であり(例えば目下の国連改革を目指す動きにも顕著)、さらには、互いに相容れない政治的、文明的価値観、信念の対立摩擦と紛争であり、また、文化的にも政治経済的にも一極化と多様性のせめぎ合いである。
そして、僕が自分の政治的理念の柱のひとつに「多様性」ということをあげているのも、長い読者の方々は既によくご承知のことだろう。
西條氏が体系化し提唱する「構造構成主義」の記述で僕が当初何より惹き付けられたのは、「信念対立の超克」という言葉であり、「多様性」という言葉だった。
(しかも、「多様性」ということを、世界の個々の分野における決定の選択要素的存在ととらえるのか、世界のあり方の結果として考えるのかということに対する思索にも非常に示唆的なものがあった)
僕自身は、まだ「構造構成主義」というものについてこの一冊のテキストを一度読んだだけであり、まだまだ完全に十分理解できているとは思っていない。
したがって多分に正鵠を射ていない点は未だあろうかとは思うが、とはいえ話が進まないので、ざっくりと構造構成主義というものの概観を紹介しておこうと思う。(後に誤りに気づく都度、追って修正)
「構造構成主義とは何か」にサブタイトルが「次世代人間科学の原理」とあるように、構造構成主義とは、そもそもは、人間科学という「学問のるつぼ」のような分野において、単なる専門家の集合という状況からくる「信念対立」を避け、真に専門分野横断的、建設的なコラボレーションを可能とするという要請に応え得る「認識装置」としての科学的認識論として体系化されている。
が、一方で、「継承」による幅広い他分野での活用ということをも前提とされている。
基本的には科学分野での活用ということが前提に(あるいは例に)記述されているが、僕自身は徹頭徹尾、政治経済、社会分野への援用の可能性ということを前提に読んでいる。
(もっとも、科学技術は僕の政策理念の柱のひとつであるので、当然そうした関心は維持しており、実際に、科学技術政策的にも重大な示唆を受け取った。いずれ別途話したい)
構造構成主義は、信念対立の超克と、一般に個々に絶対視されがちな認識法、方法論等の相対化、多様化を図り、それでいて単なる相対主義に陥ることなく、かつ科学性を担保することを目指し、さらには分野の枠を越えての、立体的動的な「知のネットワーク」を目指すものである、、、と僕は受け取っている。
そのため、まず、意味や理論、方法論よりも、「現象」を現象として尊重すること、
そして、その「現象」は、あくまで個々人もしくは社会の「関心相関」(「恣意性」)によって意味づけがなされる(「構造化」)のであって、故に絶対的な「構造」というものはなく、この時点では多様な構造の存在、並立が許容されること、
ここにおいて、個々の主体間の相互理解ということが可能であること、
しかし、多元主義はそれを終着点として相対主義に陥るのではなく、あくまで多様を出発点として、「関心相関」(目的性)的に個々の状況、要求に応じて最適な構造の選択を行うこと、
さらにそこでは「真理」が目指されるのではなく(そのようなものは存在しない)、「信憑」(相互的納得、確からしさ)が目指されること、
かつ、最適構造選択への意志や、現象の構造化による再現可能性、予測可能性等、また、条件統制に代えて「条件開示」(「構造化に至る軌跡」)を行うこと等で科学性を担保すること、
こうした態度である。(と、僕は受け取っている。^^;)
さらに、理論(構造)は、「検証」ではなく「関心相関」的に「継承」することで、開放系として知のダイナミズムを実現する。(検証も「継承」の一形態)
そこでは、研究対象、テーマ、認識論、方法論、理論、概念等々、研究を構成する全ての要素を「継承」の対象とし、何を「継承」するかということも、どのような方法で「継承」するかということも「関心相関」的に選択される。
とりたてて哲学好きということでもなく、また現象学や記号論に馴染みのない人にとっては、きわめて理解し難い用語、概念も多いかとは思うが、本書においては、そうした分野についてもそれらからの援用部分については必要な範囲で丁寧に解説されているので、もし興味があって一読すれば心配することはないと思う。
「関心相関」とは、消極的意味と積極的意味でもって使用されているように思う。
まず、どのような存在も、価値も意味も、それは主体の関心というフィルターを通してしか規定され得ないのであって、主体の関心とは、欲求であり身体的、心的状態により千差万別となる。
砂漠で脱水状態で死にかかっているときに、お金、食べ物、水のうち何が最も価値をもつかということでも、または、「死にそうなほど喉が渇いていたら『水たまり』も『飲料水』という存在(価値)として立ち現れる」ということでも例えられる。
竹田青嗣氏が、ニーチェの「力の思想」から根本仮説的性質を除き、ハイデッガーの論を踏まえて定式化した「欲望相関性」原理を定式化したものであるとされている。
こうした個々の「関心」を自覚的にとらえることで、相互の信念や確信というものに対する相互理解の土台を設定しようということがまず第一にある。
次に、多様な「構造」の中から、最も適切な「構造」を選択する際に、明確に目的に沿って判断する、選択するという際に、その「目的」「現象の説明性」といった「関心」で積極的に「関心相関」によって判断するということがある。
非常にざっくりした紹介であり、かつまだまだ自分がこれから勉強しようというところにいるに過ぎないことでもあり、全く理解に供していないかもしれないが、興味をもった方は、ぜひ一読されてみることをお薦めする。
僕自身は、さきに述べたように、政治における意思決定システム、ひいては政治システム、政体そのものに対する構想に援用の道を探っていきたいと考えている。(及び、国際政治体制においても)
僕は五か条の御誓文にある「万機公論ニ決ス」という言葉を自分のなかで大きなキーワードとしているのだが、その方法論ということで悩み続けて半生を過ごしてきている。(いや、決して大袈裟ではないんです ^^;)
少なくとも、現在あるような民主主義システムは全くこの精神を汲むものではないと僕は考えている。
また、(まだこうした場で公開できる水準にないが)ポスト資本主義としての経済理念、経済システム、社会を研究しているのだけれども、そちらの面でも、ちょっとした示唆、直観を現時点で得ている。
方法論的には、「関心相関的」に「構造を選択」する際の、判断基準をどのように設定するかというところに、いま最も関心をもっている。
構造構成主義の本論ではないが、西條氏はこれを提唱するにあたって、従来の科学論等の理論を否定するのではなく、従来理論をメタレベルから基礎づけてサポートするような理論とすることで、強い拒絶や摩擦を避け、受け入れやすさを実現していると述べている。
このことは、何らかの新しい理論、価値観を構想しようと考える上では非常に参考となる。
僕は政治的には革命的な精神志向ではないので、政治理念、社会理念、経済理念ということにおいては、なおさらこうしたことに大きな着意を払いたい。
しばらく勉強してみる過程で、新たな進展があればまたあらためて紹介したいと思う。
ところで、日本人の宗教観というのは、実に構造構成主義的ではないだろうか。
この場合、「構造」として、古神道、神社神道はもとより、仏教、キリスト教、儒教などなど(要素的にはまだまだあるが)、そして日本人は、「関心相関的に」状況状況で、またイベントに応じて、それぞれの「構造」を選択して活用し、それぞれの「構造」の絶対性など認めなければ、その間の優劣などということを考えもしない。
(もっとも、換骨奪胎という点では構造構成主義とてそれはいただけないだろうが ^^;)
それにしても、本来、構造主義と構成主義は対極を為すものであり、その二つが結びついたかのようなこの命名は、なかなかに刺激的であり、また挑発的でさえありますね。個人的には、従来の構成主義との思想的な関係が気になるところです。特に、ここでいう構造構成主義が「structural constructivism」なのか、「structural constructionism」なのか、あるいはそもそも「structural」ではなく「structure-」なのかという点も気になりますね。
何れにしろ、一度時間をとって読んでみたいと思います。
えへへへ
いや実はytさんこそ関心があるのではないかと思っていたのですが。^^)
ちなみに、構造構成主義は、「structural-constructivism」と英語表記では命名されています。
いずれお読みになったら、ぜひytさんの考えも聞かせてください。(メールででも)
こちらでははじめましてです。
>Shuさん
Shuの日記は,僕にとっても非常に刺激的でした。
Shuさんの,構造構成主義理解は,極めて的確であり,ここまでちゃんとその理路を掴んでいただけたことに感動すら覚えています(構造構成主義は「誤解」されることが常です)。
僕は,「理論」は一つの「視点」であり「道具」だと思っています
特定の「理論」をその理路を検証することを怠り,あたかも「信仰」対象のように崇めて,盲信して,相容れない他の理論的立場を,対話することなく,排除してしまう人も見受けられますが,そのようなことこそ構造構成主義が解消したい構図の一つです。
ただ,構造構成主義は,一切の前提抜きで非常に原理的に深いところから構築していっているため,様々な領域やテーマに援用することが可能な理路を備えていて,なかなか使い勝手の良いものにもなっているかなとも思っています(それがメタ理論たる所以でもあります)。
是非「政治システム」への継承発展のツールとして活用していただき,少しでもお役に立てれば,理論構築者冥利に尽きます。
僕としては,是非,構造構成主義の編著か,ある雑誌の特集にも加わっていただけたらと思っています(正式なオファーは近日改めてさせていただきます)。
また,Shuさんほどの人であれば,既に多くの執筆オファーがあるかと思いますが,今後機会があれば,単著の執筆をお願いさせていただくかもしれませんが,その際はどうぞよろしくお願いしますm(__)m
構造構成主義に関心をもっていただきありがとうございます。
「それにしても、本来、構造主義と構成主義は対極を為すものであり、その二つが結びついたかのようなこの命名は、なかなかに刺激的であり、また挑発的でさえありますね。個人的には、従来の構成主義との思想的な関係が気になるところです。」
これについては
9章 他の思潮との差異化――構造主義,社会的構築主義,客観主義,そして構成主義
にて詳しく論じておりますので,議論を吟味していただき,ご意見いただければ幸いです。
ちなみに,社会的構築主義とはここでは,Social Constructionism を指しており,構成主義とは,Constructivismを指しています(これらは厳密には分けて論じた方がよいと思っていますので念のため)。
日本では前者(社会的構築主義)が広まっており,後者(構成主義)はほとんど広まっていませんが,海外では,構成主義の学会(ジャーナル)があるように,構成主義の方がより広範な思潮を指していると思われます。
ちなみに,構造構成主義は,現象学的思考法やデカルトの方法論的懐疑を出発点とし,ニーチェの戦略的ニヒリズム,ソシュールの記号論,池田清彦の構造主義科学論,ロムバッハの構造存在論を経由し,構築された人間科学のメタ理論なのでその意味では,そうした「理論構造」は他に類をみないのものになっていると思います。
構造構成主義は,「関心相関性」「恣意性」「構造」といった中核概念によって,貫かれており,そうでありながら,「哲学的構造構成」と「科学的構造構成」という二つの営為領域から成立しているのも特徴です。
その結果として,構造主義が批判されたスタティックさ,客観主義的性質を十分に脱却し切れなかった点を克服し,かつ社会的構築主義の相対主義的性質を超克したのが,構造構成主義となります。
とはいえ,構造構成主義は,従来の認識論を否定するものではありません。
それどころか,構造構成主義をメタ理論とすることで,従来の認識論の理論的欠陥を補完することが可能とするものです。
それぞれの認識論の一部の欠陥をあげつらうことによって,それらを全否定するような議論の仕方をしているうちは,「お湯と一緒に赤ん坊まで流す」ような事態に留まると思います。
そのような不毛な事態から脱却するためにも,構造構成主義をメタ理論として,従来の認識論を一つの認識装置(視点)として,関心相関的に選択することを可能とした意味は小さくないと思います。
このことにより,従来根底に据えられており,信念対立の源泉となっていた認識論が抱えていた根本問題を解消可能となったからです。
長くなってしまいましたので,この辺で終えたいと思いますが,僕はネットやパソコンにはからっきし弱くて,これまで自分のHPも作らず,ハイテクからはできるだけ遠ざかっていたのですが,京極さんからMixiに誘って頂いたのをきっかけに,ネット活動をちょっとするようになり,Shuさんやytさんといった新たな出会いが生まれたので,よかったなーと思っています。
コメントありがとうございますっ
僕の感激の具合は、僕の力量では筆舌に尽くし難いので、今日はそうした奮闘はやめておきますが、本当に感激です。
ただ、ご評価については実に汗顔の至り、まったく過分です。実際、そのような立派な人物ではありませんので、相当に割り引いたうえで、今後お付き合いの端にも加えていただければ幸いに思います。
blogで読者に紹介したいという目的で、多少なりともご著書の内容、つまり「構造構成主義」の概要について、初学者の蛮勇を振るってざっくり書きましたが、僕自身の理解の不足について戦々恐々としておりましたので、西條さんご自身のチェックをいただけて大いに安堵しています。
ちょっと取り込んでいたため、mixiでいただいたメールの返事が遅れており申し訳ありませんが、これより速やかにお返事させていただきます。
今後とも、ぜひよろしくお願いいたします。
僕は,他の能力はたいしたことありませんが,「直観」だけは相当なものだと思っているので,おそらく「過分」ではないと思っています(未来からみれば)。
ともあれ,どうぞよろしくお願いします。
うれしいお言葉です。
ええ、しかし期待はしていただいてもそれを裏切るつもりはありません。^^)
ところで、せっかくのお言葉に応じていない部分がありましたので、あらためまして。
> 構造構成主義の編著か,ある雑誌の特集にも加わっていただけたらと思っています
> 今後機会があれば,単著の執筆をお願いさせていただくかもしれませんが,その際はどうぞよろしくお願いします
いずれも有難いお話です。
むろんお断りなどする理由を僕はなにひとつ持ちません。
別件で出版を考えているものはあるのですが、それはまだまだのんびりしたペースですので、当面、構造構成主義の継承についてじっくり考えをめぐらせてみようと考えています。
もし本当にそうした機会がある際は、ぜひ声をかけていただければ幸いです。
丁寧なご回答恐れ入ります。「構造主義が批判されたスタティックさ(中略)かつ社会的構築主義の相対主義的性質を超克」というのは、非常に魅力的ですね。ご著書、ぜひ拝読させて頂きます。
お二人のコメントを拝見しておりますと、「関心相関性」とプラグマティズムの差異など、お伺いしたいことは尽きませんが、まずは読まないことには始まりませんので、読了後また議論の末席にでもお加え頂ければと存じます。
取り急ぎ、お礼まで。
mixiから飛んできたまこすけ侍(京極)です
はじめまして。
関心相関性とプラグマティズムの差異についてコメントです。
関心相関性とプラグマティズムを考えるにあたっては,まず構造構成主義とプラグマティズムを検討した方がよいように思います。
プラグマティズムは,実在仮説に支えられた可謬主義が受け継がれてきたと思います(ローティは除く)。
それに対し,構造構成主義には,そのような実在仮説がない,と僕は思います。
このことは構造構成主義の中核原理である関心相関性とも通じることで,ある種の超越的な実在仮説を仮定した上で役立つものを活用するプラグマティズムと,そうしたものは仮定せず,原理的に仮説から問い直し,論理を導く関心相関性とは理論構造がかなり違う,と僕は思っています。
取り急ぎ
PS. このやり取りを例によってmixiに転載したいのですがよろしいですか(^^;;)。
> このやり取りを例によってmixiに転載したいのですがよろしいですか
まず僕的には無論okです。
ytさんについては、構造構成主義コミュにも入ったと言っていたくらいですので問題ないかと思いますが、一応注意喚起しておきますっ
ご回答恐れ入ります。とにかく、なにぶんまだ手にとっていない著作のお話ですので、プラグマティズムを引き合いに出したのは些か的外れかも知れないと恐々としていたのですが、どうやら完全に的外れという訳でもなかったようで、ほっとしております(笑)
とはいえ、僕はプラグマティズムについてもかじったことがある程度でして、ローティもネオ・プラグマティズムの代表的論者として名前を聞いたことがあるくらいの知識しかありません。ですから、この話題をmixiで続けて議論して頂けるのは願ったり叶ったりです。しばらくはROMに徹しておりますので、どうぞ勉強させて下さいませ(笑)