マガジン「名将言行録」51号関連記事
名将言行録51号では、上杉謙信と毘沙門天のエピソードを紹介しました。
謙信が毘沙門天を信仰していたことは有名ですが、その彼が、「我なくば毘沙門もありはせじ」、そして「自分が百回も毘沙門天を拝んでいる間には、毘沙門天も五十回や三十回ほどは自分を拝んでいるものだ」と言うエピソードでした。
これは、ともすると非常に不遜な言動ともとれる話ですが、しかし、ここにはむしろ「神と人間」ということにおける本来の日本人の根本的な姿勢が感じられるような気がします。
法話などでは、「仏様を拝んでいるとき、仏様もあなたを拝んでくれているのです」、といった話を聞くこともありますが、これは仏教というよりも非常に日本人的な、正確には神道的な考えだと思います。
日本の神々とは、一神教における神のように人間と隔絶した絶対の存在でもなければ、現に古事記のような神話に見える神々は、必ずしも完成された立派な人格であるとさえ限りません。
また、日本においては、死んだ父祖はみな神となってわれわれを見守ってくれているというメンタリティもあります。
すると、立派であるから神になるのではなく、死ねばみな神になる、ということになりますが、それは正確ではないとも言えます。
つまり、死ねば誰でも神々に仲間入りする、というよりも、そもそも生きている間においてさえ、人々の中には神性が備わっているといったほうが、より日本人の心性に沿うのではないでしょうか。
魏志倭人伝では、当時の日本人(というか倭人)は、生きている人の間でさえ柏手を打って挨拶をしていたと描写されているくらいですし。^^)
仏教においても、「衆人悉皆有仏性」「山川草木悉皆有仏性」ということがいわれます。
ここからは僕自身の主観、ごく個人的な考えになりますが、
どんな相手であれ、人は、相手の中にある「神性」を見て付き合いたいものだと思います。
そういう意味では、僕にとって日本の神話は実に心強い存在です。
なぜといって、そこに出てくる神々は、本当に人間臭く、場合によってはわれわれより余程ひどい性格の神もたくさんいるからです。
それに比べれば、自分の身の回りの人々を一人一人みな神だと思うことなんて、わけもありません。^^;)
一人一人みな神だと思う、というのは言い過ぎ、大袈裟かもしれませんが、しかしやはり、「衆人悉皆有仏性」といったふうには、表面的ではなくとも誰しもどこかには仏性、神性というものを持っている(はず)と考えることはできます。
そしてそのように考えたい、と僕は思っています。
相手も神の一人だと思えば、随分心も広くつきあえるものです。なんせ、いろんな神がいるんですから。
そうした「神性」ということを定義するのは難しいですが、少なくとも、何らかの力や才能というものもその一端であろうと僕は考えることにしています。(むろん、それだけではありませんが)
そこで、僕が夢想しているのは、将来さまざまな才能をもった人々と一緒に仕事をする、「神々の連盟」です。(笑われるかもしれませんが ^^;)
ところが、こうしたことが全く同じように、城山三郎の「雄気堂々」で渋沢栄一の口から語られていて驚いたことがあります。
そしてあるいは、そんな大きな話に限らず、実はもっと身近においても、例えば彼女はいつまでも女神にしておきたいものだ、とも思います。^^)
当初まさに女神のようでもあった彼女が自分の彼女になって、あるいは妻となって、いつの間にかただの人間、ただの同居人になってしまうということは、ごくごく当たり前のことなのかもしれませんが、しかしここで、謙信が最初に言った方の言葉、「我なくば毘沙門もありはせじ」ということが深く感じられます。
自分がなければ毘沙門天もない。
自分がなければ神もない、自分がいるから神もある…これは、人間と神の関係として哲学的にも非常に深いものですが、今日はそこに立ち入るのはやめておくとしても、その中で「人が祈る(拝む)故に神は神たる」つまり「人が神とするが故に神は神たる」という概念などは、上述の例にあてはめると実に意味深です。
何も彼女や妻を面と向かって「拝む」必要はないにせよ ^^;)、しかし、やはり一人の(一柱の、と言うべきかもしれませんが)神として扱うことができれば、幸せだろうなと思います。
それは、やたらと畏まるとかへりくだるということではありません。だって、その論で言えばこちらだって神なんですから。^^)
(実はキリスト教でも新約聖書においては「互いに仕えなさい」などという言葉が非常に多く出ていますが)
なんだかややこしい話とも見えますが、要は心の持ちようとして、僕はそうした心で人に接したいものだなと、そんなことを考えてたりします。
次回は上杉謙信最終回です。
お楽しみに。
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