2005年07月15日

民主党:多国籍軍参加の「別組織」


 「国連待機部隊」なる構想はもとより小沢氏らの主導によって民主党内であたためられてきたものであるが、このほど民主党は、そうした自衛隊とは別部隊の整備を柱とした「集団安全保障基本法案」の今国会提出を決めたそうだ。

 国際貢献参加で自衛隊と別組織…法案提出で民主一致(読売)

 報道によると、「国連安保理決議に基づく多国籍軍などに参加するため、自衛隊とは別組織を新設することなどを柱」とある。

 調べてみたが、現時点では当該法案の内容については見つけることができなかったため、具体的詳細は不明だが、上記の一節と、従来民主党内で議論されてきた経緯からすると、おおかた推測されるとおりのものではあろうと思う。

 僕の考えとしては、ある種の別組織の整備そのものは考慮の余地ありと思えるが、それを主張する民主党的根拠、及び民主党の想定する「別組織」の性格について疑問を禁じ得ない。また、国連に対する民主党の神聖視も近来ますます度が過ぎてきているのではないかと思っている。


 再度確認しておくと、
 「国連安保理決議に基づく多国籍軍などに参加するため、自衛隊とは別組織を新設する」わけだが、

 従来、岡田代表なども、海外派遣部隊を自衛隊ではない組織にすることで、「アジア諸国の理解」なるものも得られやすいと繰り返し述べている。

 また江田五月氏がかつて奇しくも「自治労から小沢一郎まで」理解を得ると豪語したとおり、アジア云々以前に、わが国の国内にある根強い軍事アレルギーに対する処方、よく言えば一種のウルトラC、悪く言えばある種の詐術にも近づく、多分に国内向けの打開アイディア的なところもある。

 (そもそも、わが国において「アジア」だの「中国」だのの反発というものが問題になるのは、それらの国が問題にするからというより、それを代弁して憤激する一部の(一応)国民の声によるところが大である。故に、そうした代弁者を国内に持たない諸国について、その反発や摩擦を日本が気にすることはあまりない。多少毒のある言い方をすれば、わが国の民主主義においては、近隣他国も相当の票をもって選挙に参加しているようなところがある。^^;) つまり例えば対中外交も、国内対策的な意味をも多分に含んでいる。ま、これは余談)


 そこでつまりは、「アジア諸国の理解を得るため」「国内の派遣反対派の理解を得るため」、自衛隊ましてや軍隊を派遣するのではありません、自衛隊ではなく、国連決議に基づいた国際協力活動専門の協力部隊を派遣するのです、派兵ではありません、そういった趣旨が色濃く感じられる。

 あくまでそうした動機を根としつつ、補強的にその他の論、例えば、国際平和協力活動においては、軍事部門だけではなく、警察、建築、医療・保健、厚生などの各種民生活動も必要であり、そうした機能をセットした「協力部隊」がより有効である、といった論がついてくる。

 先ほど「詐術にも近づく」と言ったが、勘違いしてはならないのは、軍事力、武力に名など関係ないということだ。
 日本陸軍だろうが陸上自衛隊だろうが、平和協力部隊であろうが、それらによって行使される武力は、武力以外のなにものでもない。
 現に、海外の人々が、日本軍であるか自衛隊であるかなどといったネーミングの妙についてことさらものを思うことなどないし、航空自衛隊は Japan Air Force 以外の認識を受けはしない。

 軍を自衛隊と呼び(ま、たいていの国だって国防軍だが)、少佐を三佐と呼び、戦車を特車と呼びしてやってきたような誤魔化しと、そう遠くはない発想ではないだろうか。
 自衛隊でなく協力隊だろうが、軍事装備をもって派遣される部隊は国家の軍事力の一部以外の何ものでもない。
 (協力隊にそうした軍事武装や戦闘員を一切含めないのなら話は別だが、それでは「自衛隊とは別組織の」と断る必要もあるまい)
 日本人は多くそうした手法に馴れも慣れもしてやってきたところもあり、江田氏の目論見通りまんざら通用しないとも思わないが、こと諸外国にとっては、自衛隊だろうが協力隊だろうが知ったことではあるまい。

 まして、自衛隊と別組織とは言っても、それは結局自衛隊からの出向といった形にならざるを得ないのであって、ローテーション的に人事されるだろう。(もし全く別に一から要員を採用、教育訓練し、装備も独自に取得配備するなどとすれば、それこそ尋常ならざるコストとエネルギーの無駄だ)

 また、補強的理論のひとつとして先に書いたような、民生機能の必要性についても、それはもっともなことながら、そもそも生命身体の危険程度が高い地域において活動しなければならないが故に国連も国連「軍」を想定もし、各国も軍を一義的に派遣するのであって、もとより軍隊とはそうした民生機能をも含有した「自己完結組織」であるところにそうしたオペレーションに携わり得る特質をもっているのだ。
 周知の通り、治安・警備、給養、土木、衛生・医療、輸送、補給、会計その他、軍が持たないような民生機能などあり得ないのが通常だ。かつ、軍におけるそれら民生機能は、強度の危険環境下、あるいは戦闘下でそうした任務を遂行する訓練をし装備を保有しているのであって、医官一人、調理員一人をとっても、民間の医者、料理人とはわけが違う。

 したがって、そうであるから自衛隊ではなく民生機能をセットした別組織でなければということにはならない。
 別組織の協力隊にしても、危険下で行動できることを前提に訓練、装備すれば、結局自衛隊と同じようなものになるだけだ。(かつ先述同様、同じものを別に作るのは国家コストの無駄だ)

 ただし、餅は餅屋というとおり、軍がそうした各機能をもっているからといって、それが各機能の民間あるいは文民専門組織に比べて高機能、高効率というわけではない。軍においては、先述したとおり、何よりも危険性の高い環境下で活動できるというところに意義がある。
 そこで、軍でなくてはという危険段階を越えてしまえば、そこで徐々に文民・民間の力の活用ということが求められてくる。
 この時点においてはじめて、いくつかのアプローチのオプションが出てくる。

 ひとつは、軍においてそうした戦後民生創造部隊を整備するもの(米軍は目下これを進めつつある)。
 あるいは、NGO等の民間団体を積極的に活用する。(イラクにおいてもこうした組織が大活躍しているのはご存知のとおり)
 また、創造段階に至った時点で、文民警官をはじめ文民及び民間の要員を派遣し、軍から引き継ぐ。

 もし「協力隊」的なものにおいて、自衛隊とは別の意義をもつレベルでの文民パッケージを目指すとすれば、それは上記に言う三番目のようなものになるだろう。(そうした意味において、僕も意義を認めている)
 軍民パッケージであるからといって危機当初から投入するのであれば、それは現下の自衛隊と変わるものではなく、自衛隊であっても機能の上でもとより軍民パッケージであるのは前述したとおりであり、同種のものを別に整備する愚についても書いた。

 同種のものであるにも関わらず(かつ同種なれば同様の理由によって機能の能力効率は制限される)、あえて新設整備し、自衛隊を派遣するのではありませんと言うとすれば、それは先に指摘したとおり、詐術に近いものになるだろう。


 先に触れた通り、戦後復興段階や、既に危機的状況を脱している地域に対する復興オペレーションに参加する部隊としては、各専門能力と即応性の高い軍民パッケージを整備しておくことには意義があると僕も思っている。
 自衛隊の現状と、十分な予算取得の利不利を考慮すれば、そうしたパッケージを自衛隊内に整備するよりは、あらたに即応部隊を整備したほうがよいように思われる。
 しかし前述したように、それは自衛隊の代替ではなく、自衛隊から引き継いでより効果的に機能を果たすためのものだ。派遣地の危険程度は一定以下に下がり、復興フェーズに入っている場面での投入だ。


 また、「別組織」というと一般的には本当に別の、たとえば自衛隊と警察が別であるような別組織が想像されることが多いと思われる(民主党議員の一部にもあるいはそうした誤解をしているのではと思わされるときがある)が、現実には、統合部隊という性格にものになるだろう。
 つまり、自衛隊、警察、消防その他関係諸機関からの差し出しにより統一指揮下に属させ、即応態勢を維持しつつ訓練、研究、教育にあたるようなもの、要員については言わば出向形式だ。

 (参考までに余談だが、こうした論法によれば、例えば米国で軍事行動を実施しているのは陸海空海兵の各軍ではないという言い方もできる。各軍はあくまでも統合軍への戦力差し出し元であり、作戦を実施するのは、統合軍である。別組織の協力隊は、自衛隊、警察、消防その他関係省庁等から差し出しを受けた統合部隊という性格のものになるだろう。)


 さて、ところが民主党においても、そもそもの草分けである小沢氏については、いくつかの発言等を見る限り、僕が今日指摘し非難しているような認識はもっていない様子がうかがえる。
 つまり、どのような名前であれ軍事力は軍事力であると言いもし、ただ、国内においても対外的にも、分けた方が「わかりやすい」という微妙な表現をしている。


 ちなみに、さらに民主党内では、国連待機部隊の身分として、国際公務員として国連に預けてしまうという案も根強くある。
 これは、一国の独善判断によって武力が使用されるのではなく国連という平和を企画する国際機関の判断によって武力が行使され、日本としても歴と軍事面での協力にも汗を流すという、一見クリーンでナイスなアイディアにも見えるが、僕は愚かとしかいいようのない無責任極まるその場しのぎの考えだと思っている。

 一言でいえば、国家としての責任転嫁である。
 自己の決断とそれにともなう責任を回避し、結果に対して国連に下駄を預けて安心するという見下げ果てた態度とも、仮にそのような積もりがなくてさえ、結果としてなり得る考えだ。
 日本のような敗戦国でなく、軍事に対して過度とも思われる繊細さをもっていない国であっても、一国の軍事力の行使ということには苦慮と相当の覚悟、結果に対する責任が生じるものだ。それは政戦レベルにおいても戦術指揮レベルにおいても。

 発案者にしてみれば、日本は血と汗を流さないという批判、一方で日本の海外派兵は断固認めない、集団的自衛権行使は許せないという国内勢力の憤激、その両者に応え得るものとして素晴らしい解決策だと、つまり、日本は血も汗も流します、しかも日本が派遣するのではなく国連が派遣し、使用しますと、悦にいるところもあるかもしれないが、それは小人の猪口才な手練手管というものだ。
 政治に調整や妥協、テクニカルな手練手管ということは必要だが、しかしそれを使ってよい問題と、しっかり正面から解決すべき問題とがある。

 民主党の資料ではしばしば、「明治政府に対して各藩が軍事力を預けたようなイメージ」といった記述もあるが、それとこれとが全く同一視できないのは誰しもわかるだろう。(少なくとも今日の時点では)
 各藩は明治政府というよりも原理的には天皇に土地と民(ここではこれが兵)を返したわけだが、日本国民が日本政府に軍事力を一元管理させたということでもある。

 今日の国連とは、(たとえそれを希求していようとも現時点では)全くもって地球人の政府などではなく、日本人(自衛官あるいは協力隊隊員)の生命与奪の権を与えるいわれがない。
 たとえば自衛官は、国民の負託にこたえることをもって任務にあたり危険を顧みぬことを誓っているのであって、自衛官であれ警官であれ消防官であれ、その国民(の代表)の命じるところに甘んじて危険を度外視して任務に臨むのであり、それを何ら日本国民の総意と無関係な現在の国連(それも安全保障理事会)に譲り渡すということの意味は真剣に考えねばならない。

 民主党はことあるごとに「国連中心」ということをいい、党是の大なるもののひとつに掲げてもいるが、果たして現在の国連についてどこまで現実的にとらえているのだろうか。神聖視の度が過ぎるのではないか。
 今日タイムリーにも安保理拡大が議論され、拒否権の有無も取り沙汰されているが、少なくとも今日において、国連は正義の機関などでは全くない(基幹職員はそれを願ってはいるだろうが)。そこは、国際正義よりも、各国の利害の勝ち負けの場であって、地球人にとっての利益と正義を実現する場では(現状ではまだ)ない。

 もちろん国連安保理決議ということは、国連加盟国の一員として相応の重みを認めるべきものではあるが、といって、それを世界正義の第一義と観じるのは行き過ぎだ。


 集団安全保障を含め、国際協力活動、多国籍軍等へのわが国の参加の是非とその原則等については、本質を避けて双方丸くおさめることばかりに意を払った手練手管の策ではなく、正面からとらえて、後々の疑義なき明快な結論を求めるべきだと思う。
 今をその好機とせず、どうするのかと思うべきだ。

 小沢氏の立場においても、党内の一本化は大切ではあろうが、その取りまとめにおいて誤魔化しがあってはならないと思う。思想的な部分も含め真実相容れない場合は、それは整理せざるを得ないのではないか。徒な妥協で頭数だけを増やしても党は強くはならないのではないかと思う。

 軍民パッケージについては僕は賛成できる。
 ただし、自衛隊の代替派遣というものではなく、復興フェーズ及び人道支援用のパッケージとするべきだ。
 PKF(本来の用語ではないが)的任務には、国際基準並で自衛隊を派遣し協力し得る道を正道において整備すべきと思う。

 日本は日本の安保理常任理事国入りばかりに意識と努力を集中してきたが、前述したような冷徹な現実をも認識しつつ、国連の機能改革ということにもっと力を尽くすべきだと思う。
 特に民主党については、国連中心主義を大きく掲げる以上、その国連秩序をよりよいものにすべく、まさに国運を国連に賭け得るだけのものにすべく、改革を研究し、働きかける努力をするべきだろう。


posted by Shu UETA at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-安全保障・外交 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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