2005年07月12日

(名将言行録) 危機管理の想像力

マガジン「名将言行録」49号関連記事

 マガジン49号では、「危機管理の想像力」と題して、謙信越中攻めの折の上杉軍渡河連絡用の浮き橋について、降雨増水の際に敵が浮き橋を破壊しようと上流から材木を流す可能性を予期し、あらかじめ対策を構えておいたというエピソードを紹介しました。

 このエピソードはごくごく些細なケースの一例に過ぎませんが、古今東西、世のさまざまな名作戦であり、優れた危機管理施策というものの多くは、優れた想像力を基盤にして生まれ得るものであり、またしたがって、世に名将と名を馳せる人物とは、戦況に対して、あるいはさまざまな危機の可能性に対して、洞察力のみならず実に優れた想像力を持つ人々です。

 今回は、こうした「良き想像力」というものについて少し考えてみましょう。

 「悲観的に準備し、楽観的に実行せよ」とは、危機管理においてしばしば言われる言葉です。
 言うまでもなく、逆に「楽観的に準備し、悲観的に実行する」とは最悪の態度ということになりますが、「悲観的に実行」はともかくとしても、「楽観的準備」ということになると、実に多くの場合に散見される、いわばいかにも素人的態度といえるでしょう。否、素人と言わず、十分平均以上の能力をもったプロフェッショナルであってもこうした態度に陥っている場合が意外に多いものです。

 映画やアニメ、TVドラマなどでは、いわゆる「やられる側」はたいていこうした「楽観性」を備えていますね。^^;)
 敵は〜するに違いない、という態度です。そして結果として、「そんなバカなっ」とか「まさかっ」なんて言います。
 あるいは、悲観的想像力を逞しくする人物は臆病者呼ばわりされます。「臆したかっ」とか「貴様、それでも軍人か」てな風でしょうか。^^;)

 準備段階における「楽観」とは、いわば自分の都合の良いようにしか予測をしない態度です。あるいは、ある程度まで望ましくない結果を考慮しているつもりであってもその度合いが足りない場合もあるでしょう。
 悲観的準備というものはその逆に、もしもこうなったら、もしも当てが外れたら、もしも〜がトラブったら…といった思考態度によるものです。

 身近な例だと…たとえば余程大昔でない限り、運転免許を取るときに自動車学校では「防衛運転」とか「かもしれない運転」なんて言葉を聞いた記憶があるかもしれません。
 「だろう運転」ではなく「かもしれない運転」を、というものです。
 人は出てこない「だろう」ではなく、飛び出してくる「かもしれない」と、対向右折車はこちらを待つ「だろう」ではなくて、右折してくる「かもしれない」と、そういう心積もりで運転しましょうというのが「防衛運転」であるということです。

 危機管理活動においては、危機を未然に防ぐことが最善であり、あるいは未然に防止できずともその被害を最小限にとどめることが求められます。したがって、まず何よりも重要なのは、どのような危機があり得るかを想定することです。ここで不可欠なのが、危機に対する想像力です。
 危機管理というものは何も国家の安全保障や災害対策などといったことだけではなく、基本的にはビジネスであれ私生活であれ、下世話な話では浮気をする時であっても同じです。^^;)

 また、戦闘や競争においてもやはり状況や相手の出方に対する想像力というものが不可欠であろうというのも、説明を待たないでしょう。

 ちなみに、「楽観的に実行する」とは、十分な分析を経たうえで行動方針を決したからには、もはやあれこれくよくよ考えても益はない、計画通りに断行するのみであって、この段階において悲観的態度で行動に迷いを生じてはならないというほどの意味です。


 さて、そうした「想像力」を実際に持つための具体的な着意について、個人的に思うところをいくつかあげてみたいと思います。

 ひとつには、まず何よりも、一定の悲観性を意識的にもつよう心がけるのも手でしょう。
 「悲観性」というと、ここで求めている以上に言葉のニュアンスの広がりがあるため語弊もあるかもしれませんが、さきほどの「かもしれない運転」を思い出してもらってもよいかもしれません。
 危機の可能性を想定する時、敵の行動を予測する時、まずは自分に都合のよい思考をしないという意識的努力です。


 次に、敵や相手がある場合については、相手の行動を自分の規準で考えてはなりません。あくまでも「相手なら」どうするかという意識を持たねばならないでしょう。「定石」や「常識」は、自分と相手が共有しているとは限りません。

 さらに、「敵ならば」と考える際には、相手の「意図」ではなく「能力」に着目しなければなりません。
 いかに頭をひねろうとも、現実に相手の考えを読むことは、どこまでいっても結局は確率論でしかあり得ず、真に相手の頭の中を覗き知ることは超能力でもなければ不可能です。
 しかし、相手の「能力」というものは、客観的に特定することが可能です。つまり、相手がミサイルを撃つつもりかどうかはわかりませんが、相手がミサイルを持っているかどうかであれば、それを知ることははるかに容易です。
 相手の行動パターンを想定する際には、「○○してくるつもりだろうか」という相手の意図に対する推測ではなく、「○○する能力を持っているかどうか」ということに注目して対応を考えなくてはなりません。

 もちろん、意図に対する推測とて必要であったとしても、能力に対するものの方がはるかに確度が高いということを忘れてはなりません。そして、人間というものの性でしょうか、人は往々にして思考順序において「意図の推測」を先にして、そこで安心が得られるとそこで思考を止めてしまう傾向があります。

 「意図ではなく能力に着目せよ」とは、戦略戦術においても鉄則的事項ですので、頭に置いておいて損はない言葉です。相手がそれを「するかどうか」ではなく「できるかどうか」が重要なのです。


 さて、「思考順序」という言葉を使いましたが、ここにおいてもちょっとした着意の余地があるように思います。もっとも、これは前項のような原理的な話というよりは、僕の個人的な提案に過ぎませんが、人によっては参考になるかもしれません。
 これは何も危機管理的な「危機への想像力」を働かせる場合に限らず、およそものごとを思考する際にも言えることですが、「可能性列挙」と「可能性判断」を混同せず、プロセスとして厳密に区分するということです。これは、そうあるべきということではなく、ミスを減らす工夫といった性格のものです。

 「可能性列挙」とは、文字通り、考えられる可能性を並べることですが、人は多くの場合、この「可能性列挙」と、それぞれ個々の可能性についての判断を一緒くたにして物事を思考しがちです。
 もちろん、それが悪いことだというわけではありませんし、ごく軽易なことを考えるのにいちいち列挙と判断のプロセスを別に構える必要もないでしょう。しかし、多少なりとも重要な案件を考える場合、もしくは精密な思考を行う場合には、このプロセスを同時並行で混同して行うことは、思考のヌケやミスを起こしがちです。

 これは、むしろ複数人での会議などを思い浮かべたほうがイメージしやすいかもしれません。
 よくありがちなシーンとして、「まず意見を出していきましょう」とか「思いつくことをあげていきましょう」などといった場面で、誰かが何か言うとその時点で「いや、それはないでしょう」とか「でもそれだと○○は△△ってことでおかしいんじゃない」という風にいちいちその場で反対意見が出てしまうというようなことがあります。
 もちろん会議の際の方法は、テーマや参加者、時間的余裕に応じてさまざまであってよいのですが、ここで言おうとしていることは、自分の頭の中でものごとを考える際に、こうした「列挙」と「判断」をごっちゃ混ぜで行うと、ヌケやミスが起こりがちだということです。
 (特に、人間の思考生理として、両者を同時に行うと、列挙における安易な排除ということが起こりがちで、これがヌケや「まさかっ」につながりやすいものです。無論、慣れれば防げますが)

 「そうかなあ…」とも、「大袈裟だなあ」とも思われがちかもしれませんが、こういう習慣のない人は、ぜひ一定期間試してみてもらいたいと思います。おそらく(平素そうした習慣がない人であれば)思考の精密度がかなり向上する可能性があります。
 そして、こうした思考法が板について慣れれば、「列挙」と「判断」を同時に行う思考法においても自然に精密度が増してきます。

 イメージとしては、数学における場合分けや列挙のような感覚で、機械的、論理的に作業します。これは、ある程度の客観性を守ることにも役立ちます。
 列挙においては、判断をせずに、「論理的に」要素を組み合わせて列挙します。例えば、A、Bという主部、C、D、Eという述部があるとすれば、「A−C」「A−D」「A−E」「B−C」「B−D」「B−E」という組み合わせが(いかにバカげたものを含もうとも)「論理的に」生成されます。判断フェーズにおいても、これら個々について、矛盾や反証を「論理的に」検証します。(主部述部などというのは、あくまで「論理的」ということを説明するための一例です。主部述部というような区分方法で考えるなどということではありません)

 ただし、こうしていくつかの条件を組み合わせるだけでよい場合はごく簡単な場合であって、むしろそう多いケースではないでしょう。
 ここで、「想像力」というものが大きく影響します。
 つまり、この列挙、可能性のオプションをどれだけ出せるか、です。あるいは先のような組み合わせ的ケースにおいてなら、その組み合わせ「条件」をどれだけ出せるか、です。
 もっとも、単に白紙状態から想像力を働かせるというよりは、やはりある種の論理性によって想像力を働かせるという場合の方が多いでしょうので、これは訓練によって向上し得るものと考えることもできるでしょう。

 次に列挙した各選択肢について判断を行い、「あり得る」か「あり得ないか」を判定することになります。
 正しく「論理的」な処理であれば、ほとんど「機械的」「システマティック」に処理されされる感覚であるはずです。うなったり悩んだりする部分があるとすれば、たいていどこかに論理ではなく主観や推量が入っている場合が多いです。
 ここではあくまでも「論理的に」、「あり得る」か「あり得ない」かが判断されます。

 論理的に洗った結果、矛盾も反証もなく「あり得る」として残ったもの、それが論理プロセスの出力であって、そこに残ったものについて、ここではじめて話は確率論の世界に移行します。この段階で、推量も含め、各種の情報から、それぞれの確度を判断していくことになります。

 こうしたことは、難しい話に限らず、どんなテーマでも同じように練習することができますし、平素から習慣づけることもできます。

 幕末の動乱、幾多の白刃をくぐってきた人物の中に、剣術なぞ実戦では何の役にも立たない、何流の皆伝なんて者よりも、かえって素人の方が余程勝つものだ、と自身の経験を開陳しつつ述懐する人がいます。さて、これをどうとらえるか…

 「へえ、そうなんだ、剣術なんて意味ないらしいよ」と受け取るのは、あまりにも無思考ですね、今日のテーマからすると。^^;)

 例えばまず、考えられる可能性は、@まさにその人の言う通りである Aたまたまその人が、稽古などせずとも天才的に才能があった B人間心理の為す誇張した武勇伝 Cその人の体験、見聞した皆伝者がたまたまペーパー免許者だった(そういう例は実際多い)、ここまでは比較的論理的列挙ですが、あるいは純粋に想像力を広げるならば、Dそもそも真っ当な剣術家に対してコンプレックスがあった E維新後の零落の中での売名行為 F明治初年頃の、武士や剣術というものを時代遅れと排する政府方針へのPR的協力…などなど、いくらでも出てきます。

 次に可能性判断ですが、例えば、@については他の同様証言者の例が乏しく、一方で実戦に名を馳せた諸流儀稽古者がいたことから、あり得ないとは言えないものの確度が高いとは言い難い、Aについては判断不能、あり得るとは言える、Bについては証言が既に幕末を去ること遠く、一般人間心理に照らすならばあり得るとは言える、、、といった具合に考慮していくことになるでしょう。

 攻殻機動隊・公安9課のタチコマが、バトーはさん付けなのに、トグサはトグサくんと呼ぶのはなぜだろう、でも、 ^^;)
 例えば、@特に意味はない、Aバトーには格別の敬慕の念があるから、Bトグサのことは見下しているから、Cトグサを嫌っているから、Dトグサは自分たちより目上ではないと思っている、Eトグサは新入りだから、Fバトーとは一線を置いているがトグサとはよりフレンドリーだから、あるいは想像力を広げるならば、Gトグサには「くん」が語呂がよいから、H最初に紹介された時に「トグサくん」だと紹介されたから、Iトグサ自身が、「さん」だなんてよしてくれと言ったから、、等々々以下省略

 @についてはあり得ないとは言えない Aについては、バトーに格別の愛着があるのは一目瞭然ではあるが、他にもさん付けで呼んでいる相手があるため、それを理由とはし難い、Bについては、あり得ないとは言えないが、観察する限り、見下している様子とは見えにくい、Cについては、嫌っている様子はどのシーンからも見えない、D他にも新人のアズマ等はくん付けで呼んでおり、かつ2nd GIGの途中までは現にトグサが最も新入りであったため、あり得る、Eについても、Dと同じく未だに新入り的印象が払拭されていない可能性はある、Fについてはむしろ逆であり考えにくいGについては、なるほど「トグサさん」は「さ」が続いて語呂が悪いためあり得ないとは言えないが、バトーをくん付けで語呂が悪いわけでもなく、アズマさんと言いにくいわけでもない、HIについては判定不能、あり得るとは言える。
 と、さらに「あり得る」ものを洗えば、確率論的にはD、Eといったところが上に並びそうです。

 こんなものは実にくだらない例ですが、しかし、こうしたプロセス習慣は、実際により難しい問題を考える際や、ヌケがあってはならない危機管理的思考をする際には役立ちます。

 最初の列挙にあがらないことには考慮されないので、繰り返しますが、この列挙をどれだけ出せるかが重要であって、それは論理的に導く力と、想像力を広げる力が求められます。特に戦闘や危機管理においては、まさにここでどれだけ可能性を並べれるかが結果を左右します。

 個人的な感覚では、列挙においては数学的センスが、各個判断においては数学的ロジックと国語的感覚(現代文読解の選択肢問題のように)が役立つようにも思えますが、そして最終的な確率判定ではまさに思考センス、危機管理センスなどが問われるところでしょう。


 さて、「悲観的に」想像力をはたらかせ、あり得るパターンを洗い出して、そして残ったものについて、危機管理や戦いにおいてその全ての可能性に常に完全に対処できるわけではありません。いかに想像力を十分に働かせた結果とはいえ、100の可能性全てに手を打つことが不可能であったり費用対効果に合わないということは往々にあり得ます。
 するとそこで、優先順位をつけるという作業が必要になり、そこで上位に判断されたものについて対策をするということになります。(対策できなかったものについて、それが起こってしまったとしても、しかし、全く想定外であったよりは、特に精神的ダメージがはるかに低減するだろうということはあり得ます)

 この優先順位判断においても、主観的な判断は極力避けたいものですが、その方策のひとつは、一定のモノサシ、基準をもって判断することでしょう。
 通常は、「確度」と「衝撃度」という基準を持つのが一般的です。

 「確度」とは「起こりやすさ」「可能性の高さ」です。
 「衝撃度」とは、起こってしまった場合の衝撃度、ダメージ度です。
 「確度」が高く、「衝撃度」も高いもの、それが最優先の事項です。
 ダメージはたいしたことなくとも「確度」が高い事項について、また、「確度」は低いが起こった場合の「衝撃度」が大きい事項、これらについても、やはり対策が必要でしょう。


 最後に、「観察力」ということについても少し触れておきたいと思います。
 想像力は、いかに「想像」とはいえ、その基盤になる材料が必要です。その材料を見いだすものが観察力といえるでしょう。

 そもそも、観察力、想像力、洞察力は一体のものです。
 「観察力 → 想像力 → 洞察力」という一連の関連です。

 観察力や、そこからの想像力というものは、多分に個人の習慣、性格に負うところが多いものと思えますが、まずはそうした着意を持つことでしょうか。
 何かを見て、いや何を見ても、そこでどれほどものを考えることができるか、です。
 例えば、本誌「名将言行録」にしても、誌面の各エピソードは実に淡々としたものが多いと感じることと思いますが、一見何ということもない短いエピソードにも、どれほどのことを感じ、考え、思いをめぐらし得るか、それとて、「観察力」と「想像力」の一例と言えるかもしれません。そうした手助けのひとつとなればと、折々にこうしてblog記事を紹介しているわけでもあります。(果たしてお役に立てているかはわかりませんが ^^;)


 以上、思うところをいくつか紹介してみましたが、もし何かのヒントや触媒になれば幸いです。
 ところで、今回テーマにした「想像力」というものは、なにも戦いや危機管理ということに限らず、およそあらゆることに関わる人間の重要な能力だとも思います。
 人間関係における他者への気遣いであっても、何かから学ぶ、教訓を得るということであっても、何か新しい発明をするにおいても、新しい説を打ち立てるにも、「想像力」とは実に大きな力ではないでしょうか。



 次号も引き続き上杉謙信です。
 お楽しみに。

 読者登録、解除はマガジンHPからどうぞ。


posted by Shu UETA at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。