2005年07月02日

仏独露語力養成作戦発起


 まことに唐突ながら、フランス語、ドイツ語、ロシア語を学ぶことにした。^^)
 とは言え、会話能力は後回し(目下の要求はないので)、読解力に主眼を。
 ちょうど今年も半ば、一応の目標としては、年内にそれぞれ新聞の社説を自力でそこそこ読める程度になること。

 というのも、
 実は最近、文字通り目から鱗といった具合に、はたと考えさせられたことがあった。
 それは、「現代日本人は英語情報に異様な偏りがあり、江戸時代のオランダ情報のワンチャンネルとさほど変わらない」という言葉に触れて。

 もっとも、心ある人であれば、そんなことを何も今さら、と言うところだろうが、正直、恥ずかしながら僕は今さらながら考えこんでしまった。


 本屋でたまたま見かけ、たいして内容を確認するでもなく、ほぼタイトルと帯の言葉、そしてにおいで(本や人との出逢いには「直感」が大切)買って帰ったんだけれど、そうした勘が働いたときの例に漏れず、実に有意義な触媒となる本だった。

 この本は、あえて過激なタイトルで人目を引こうというねらいもあるのだろうが、内容としては、今日の日本の政財官民あげての異常なまでの英語ブームに対する警世といったところ。

 まず英語をもって国際共通語のように考える愚、さらに将来においては英語が現在ほどの主要性を失う可能性すらあることを思わぬ愚、英語情報のみをもって世界を読もうとする愚、各個人レベルでの選択は個人の自由としても、国家や社会のほぼ皆が英語に偏ることの危険性、それが高じての「無意識にも『アメリカ』をもって『世界』と感じる」愚かさ、そうしたことについて、述べられている。

  それもそのはずで、大学院に入るにしても就職するにしても英語だけでよいというのであれば、学生が他の外国語に無関心になるのは当然であろう。
 大学に入っても、学ぶ外国語は、中学生と同じく英語だけ。東京大学や京都大学の大学院生でさえも、ほとんどの者は英語以外の外国語文献が読めない。これが、「世界を知り、世界にアクセスする」という日本の国家戦略の実像なのである。日本人の知る世界は、何と小さくなってしまったことであろうか。
 これは、深刻な事態である。グローバル化が進んだと言われる一方で、日本に入ってくる国際情報の大半が、英語圏、とりわけアメリカから入ってくる情報に偏ってしまっている。今日の日本は、極端に言えば、オランダからの情報を西洋に対する唯一の窓口としていた江戸時代の状況にも近いのである。


 書中からの引用であるが、とりわけ、僕は最後の一文にうなったものだ。(むろん、極端に過ぎる例えであることは承知だが)

 これというのの恐ろしいことは、それは何も引用文中に述べられているような語学という問題に限らず、日本人が日本語で読む海外の書籍等も、(古典ででもない限り)その圧倒的大部分が英語圏、とりわけアメリカのものであるということだ。
 新聞記事における海外紙(誌)からの引用等も、これも圧倒的に大部分は英字紙のものだ。
 日本でポピュラーとなる洋画は、上記以上の圧倒性をもってハリウッド映画である。

 実は僕自身は、英語の国際共通語性については、必ずしも同書の筆者ほどに軽んじてはいない。
 (詳細は読んでもらえればわかるが)筆者の言うような、今日から将来にわたる米国の主導性の低減ということ、そして既にその兆しも種々観察されること、こうしたことについては僕も同意だが、しかし、まず英語ほど習得が容易い言語は類を見ないし、表現解像度が抜群に低いということはあるが、それであるが故に、かえって非母国語圏の人々にとっては一定レベルまでの習得が容易であると言え、それは英語が国際共通語的なものとなるための大きなメリットでもある。

 事実上の国際公用語というものは、その時代時代において変化してきており、それこそヨーロッパの歴史や文学に多少なりとも触れたことのある人であれば、かつてのフランス語がヨーロッパ大陸の国際舞台で占めていた公用語の地位を思い浮かべもするだろう。往時の欧州でフランス語を話すことは文字通り国際人の条件だった。(余談だが、ヨーロッパではなくとも、例えば日露戦争の講和会議はフランス語で行われている)

 こうしたことはその時代の国際社会で主導的な位置にある国によって変化するものである。

 日本の特に政官財の英語熱は、堂々と、「米国が世界を主導している」故に「英語は国際共通語」として重要という思考をしている。(かの「二一世紀日本の構想」だってそうだ)
 こうした思考に対する警鐘としては、本書に著者が多くの例を引いて言うまでもなく、昨今は疑問の兆しも出てきていると思う。
 とは言っても、前述したような英語の特性から、英語が重要な地位を占め続けることはそう揺らぐまいと僕は思っているが。

 さて、しかし問題はそうした英語の枢要性の如何ではない。
 英語が永く将来に亘り国際共通語的な地位を保とうが失陥しようが、いずれにせよ問題は、社会における国際情報チャンネルの偏りということだと思う。

 先にも書いたとおり、英語だとか何語だとかいう語学の問題ではなく、英語をはじめ外国語に堪能でない社会大多数の人も、しかし彼らが日本語翻訳を通して見聞している国際情報の大部分が、英語チャンネル(特に米国チャンネル)のもので占められているということだ。

 それが進んだ結果、著者は、日本人の多くが言う「世界」とは、本人が自覚しないまま「米国」を指してしまっていることが多いと指摘する。

 例えば、「黒人」なんて言葉は日本を一歩出れば使ってはいけない、「世界は差別には敏感」なんてことが普通に語られるが、この「世界」は「世界」などではなく「米国」の話に過ぎない、と。(正確には、差別はどこの国にとっても問題だが、「言葉狩り」のようなバカげたアプローチは「米国」の特殊事情であり何ら世界標準ではないという意味で。そしてまさにそれは奴隷制や原住民迫害ということを行ってきた故の米国の勝手な特殊事情に過ぎない。)

 日本の喫煙率の高さは「世界」的に遅れている、という言も、その「世界」は「世界」ではなく「米国」、女性の社会進出も、そこでいつも語られる「世界」とは「米国」と北欧の一部に過ぎない、等々…

 あるいは(このことは当時の僕でさえ子供心に訝しんだものだが ^^;) かつてのモスクワオリンピックは西側諸国のボイコットで有名であり、今でも日本の文献では「西側諸国の不参加により参加国が激減」などと記されることが多い(日本オリンピック委員会のHPでも「西側諸国不参加」と記述されている)が、しかし参加国は前回のモントリオール大会の92カ国が80カ国になっただけ、さらに西側諸国での不参加も米国、日本、西ドイツ、韓国くらいであって、英国もフランスもイタリアもスペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、オーストリア、ギリシャも参加、オーストラリアも印度もブラジルも参加といった具合だ。

 さまざまな海外書も毎月のようにさまざま新刊で書店にならぶが、そのほとんどは英語文献の日本語訳であるし、それは政治や国際情勢、経済、経営といった分野ではとりわけ顕著だ。

 映画もドラマも日本はどっぷりと米国に浸かっている。
 だから、僕らは、米国のことであれば、どんな日常生活を送っているか、仕事や勉強の様子、教育制度や趣味、家族や交友の雰囲気、社会問題、等々、地理感覚まで含めて実によく知っている。
 一方で、これが欧州やアジア諸国、南米、アフリカとなると… ^^;)

 国際情勢を得々と語る人たちも(僕を含め ^^;)、米国情報や米国発信の他国情報にはさまざまに目を通していても、たとえばフランス、ドイツ、たとえばインド、エジプト、そうした国々の論調や、知識人の発信ということには実に疎い。
 ある程度教養があれば、なるほど欧州に関しては、歴史的な事柄についてはそこそこ知識もある。しかし、「今」、目下の事情について、フランスの有識者がどのような論を唱えているのか、ドイツの知識人がどんな論文を書いているのか、インドの新聞がどんな社説を載せているのか、といったことはまるで守備範囲の外であることが多い。それらが目に触れるときには、それは米国マスコミなどのフィルタを通ったあとである場合が多くなる。

 こうしたことを思うのは、いかにも「今さら」ではあるのだろうが、しかし恥ずかしながら僕は、今さらにして、ことの重大さに考え込んでしまった。

 そこで、普通なら「これからは各国発の文献等にも目を通すようにしよう」なんて思うところだが(実際まず最初はそう考えた)、ところが、前述したとおり、古典ででもない限り、国際的に枢要な国々であっても、その国発の文献資料の日本語訳資料といったら実に少ない。ドラマも映画も少ない(映画はまだましだが)。

 仕方がない、じゃ、自分で新聞くらいは読めるように、あるいは現地語でチャットくらいできるようになるか、と結論した次第。
 映画なんかもこれからはさまざまな国のものを進んで観るつもり。

 さて、で、頭に何語を追加インストールするかということだけど、
 国際情勢を読むにあたって特に注意したい言語として、フランス、ドイツ、ロシア、中国、アラビア語といったところ、あるいは南米を考慮するならこれにスペイン語とポルトガル語といったところと考えた。

 しかし当面の重要プレーヤーというところで、スペイン語とポルトガル語は今回は却下(もしくは先送り)として、また中国については、現時点では日本において比較的まだしも報道や研究もされ、かつもとよりかの国の報道出版は検閲を経たものでしかないことから当面先送り、そこで、まずはフランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語をと考えた。

 とは言え、さすがの僕も多数語を同時にやるのは厳しいので、優先順位を加味した上で、第1次として仏独露の親類語を、アラビア語は来年以降の第2次とすることにした。

 思い立てば即行動。
 早速、仏独露語の勉強にとりかかった。いや、正確には、具体的方法、計画を構想してここ数日を過ごした(もっとも、平素の仕事や勉強もあるので、この間の熱中と時間不足が結果的にblog更新の滞りにつながってしまった。^^;)

 この三カ国語について背景知識はほぼゼロなので、まずは、言語の特徴や文化背景も含めた基本書を読むこと、それと、早速毎日少しずつ、辞書を使いながら各国のネット記事を読むこと。

 前者については、早速書店で格好のものを見つけてきた。

 
佐藤 康
発売日:2005/03
あまなつ
 
清野 智昭
発売日:2005/04
あまなつ

 
黒田 龍之助
発売日:2005/03
あまなつ



 この3冊はいずれも130ページ前後の気楽な本なので、まずざっと読んだあと、何か文法の基本書を入手して、文法、構文を学ぶ。

 さて、後者については、僕自身の英語の経験から、まずは多読に限るということが(少なくとも僕には合う)ことがわかっているので、まずはネットで各国のニュースやサイトを渉猟しようと思う。
 なぜ本でなくネットかというと、当然ながらこの勉強に充てれる時間は全体の中のごく一部、わずかであるので、少しでも時間を節約したい。
 既におわかりの人もいるでしょう ^^;)、そうです、つまりは辞書を引く時間が最大の節約可能ポイント。
 PCのスクリーン上ならば、マウスポインタ辞書が使える。(単語にマウスオーバーすると、辞書で引いた語義がポップアップする。もちろん難解英文を読むときにも重宝)

 英語でずっと以前に使っていたものに「Babylon」というソフトがあって(当時はフリーだったのに --;)、それが多言語も対応していたことを思い出して、すぐに利用を思いついた。
 他では、「ロボワード」というものもある。

 今回は、両方を試してみたところ、ロボワードについては英語は良いのだが、フランス語等の文字認識(マウス翻訳ということでわかると思うが、つまりはOCRと同じ原理で画像的に処理しているので)が悪く、かつ、辞書を追加するにあたって、いくつかの辞書を見つけ出して使ってみたけど、どうも良い辞書が見つからなかった。(純正辞書はフランス語で8千語、話にならない)

 Babylonについては、純正で語数豊富な各言語辞書があるのでそれを使ったが、文字認識も良好で、読み上げ機能(単語の発音を音声で聴ける)もなかなかよい具合、そこで今回はこちらを使うことにした。
 ただし、もともと米国人が海外語を学ぶためのものなので、仏和や独和、露和辞書はなく、いずれも仏英、独英、露英なのだが、英語にはさほどの苦がないので善しとすることにした。(もっとも、最悪そこに使われる英語の意味がわからなくとも、今度はそこにマウスを当てれば、英和辞書で日本語訳は出る)

 これを使って、早速ここ数日は毎日ネットで記事を少量読んでいる。
 出発点としてはYahoo!が有難い。各国ごとにYahoo!があるので、そこからニュースを見たり、お薦めページを見たり、つまりは(死語だが)かつてのネットサーフィンなるものをすることができる。(ただしロシアについてはyahoo!がないので、Яндех(ヤンデックス)Рамблер(ランブラー)がお薦め)
 ちなみにサッカーのコンフェデの総括記事など、フランスやドイツのスポーツ紙記事はサッカーとなるとやっぱり面白い。(個人サイトの記事はもっと面白い ^^;) 僕はツール・ド・フランスも好きなので、今度はその記事なんかも楽しみだ。

 過去の経験からすると、これらのことを数ヶ月も続ければ「読む」力はそこそこできてくるので、順調に伸展すれば、年末頃には、このblogでもフランスやドイツ、ロシアの注目資料や見解なども紹介できるようになると思う。^^;)

 とりわけ、周知のとおりフランスは世界構想においても軍事戦略においても、米国とは実に一線を画した思想を保っている国であるので、フランスなりの世界把握に自分で自由に触れることができるようになるのは楽しみだ。(ロシアも同様)

 かつ、個人的には今後の日本は欧州との付き合い方ということが非常に重要になってくると考えているので、そうした意味でも、この時期にこうしたことに気づくことができたのは有難い。まさに守護霊だとか指導霊とでもいった存在を想定して感謝したい。^^;)

 言うまでもなく、言語を学ぶということは、その国の文化や生活習慣、発想法などということとも一体になっているのであって、それは僕らが英語を学んで英語のみならず、米国事情や習慣にさまざま詳しいのと同じだ。

 冒頭に紹介した本において著者は、「日本人の知る世界は、何と小さくなってしまったことであろうか」と嘆くが、なるほど例えば明治期の日本を思い出すと、そこには英語偏重ということはなかった。
 それは時代が違うからだ、と言い得るかもしれないが、フランス語、ドイツ語とても、少なくともその両雄が並び立つ時点で、既に偏重とは言い難い。
 明治国家の国造りを担った海外留学組には、フランス帰りの者、ドイツ帰りの者、あるいは英米帰りの者、これらの人々が、多分にその留学先の影響をまともに受けながらも、それぞれの知識見識と発想スタイル、思考スタイルということをぶつけ合って国家の創造に活かしたものと思う。ましてや、国際情勢を把握するにあたって、職掌横断的に各国語堪能の者(かつ往々にしてその言語国に愛着を持っている場合も多い)がいるのは非常に有益だ(今日の外務省などは、あくまでも縦割りの中での各国語である点で別)。

 しかし、かえすがえすも、こうしたことは学生時代に気づいておくのだった。あの頃ならばもっと時間はあったのに。(まああの頃に遊んでいたことで得たものも大きいのだが ^^;)
 そもそも、(今も基本的にはそうだが)僕は外国語を学ぶということに、世間一般の人ほどの熱意はない。子供の頃から、むしろ日本語で英国公使を押し切った後藤象二郎のような姿勢をこそ尊敬しても、自分が将来そうした立場に立とうとも、交渉や弁論で重要な感情表現や起伏ということには自国語がベストであり、意味だけを正確に伝えるためのいかに優秀な通訳を用意するかに努力を払いたいと思っていた。
 僕は英語はそこそこ理解するが、それでも、大統領の別荘に招かれて歓談する時ででもなければ、何も英語で交渉しようなどとは少しも思わない。

 ただし、10年ほど以前に多少の宗旨替えをしたのは、情報収集という観点においてだ。自分専属のスタッフやシンクタンクがまだ無い以上、ある程度自分で英語情報にアクセスしないわけにはいかない。^^;)
 今回の思いつきも、言わばその延長だ。
 さらには、自分個人はともかく、上述してきたように、社会全体として考えた場合の危険性を思うと、英語チャンネル一辺倒は改善したい。その上で、ひとつの率先垂範的な意味も多少は持ちたい。

 ところで、このことはまた別に記事にしたいと思うが、
 教育において、今日ではついに小学校から英語とまで構想されるようになったが、僕としてはむしろ、多言語化を提唱したい。つまり、英語一辺倒ではなく、それぞれに義務教育で学ぶ外国語を(もちろん高校以後も)複数の外国語から選べるようにしたいということだ。希望制にするか、希望を加味した割り振り制にするかは別論するとして。
 これはまた別に書いてみたい。

 最後に、今回のテーマとは些かずれるが、「英語を学べばバカになる」では、多文化共生ということについても巻末に多少を割いて論じている。
 多文化や多様性ということが、ともすると、「サラダボウル」ではなく「メルティングポット」のようなものを志向してしまうことについて警鐘されているが、実に同感できる点が多かった。


posted by Shu UETA at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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