2005年06月21日

(読書) 「道路の権力」


 
 しばらく(いや、かなり?)以前の話題の書。
 何をいまさらと思う向きもあるかもしれないが ^^;)、実は僕も購入は一昨年、ちゃんとタイムリーに入手していたのだが、結局読まないまま昨夜を迎えていた。

 そもそも購入時の動機からして、実はあまり道路公団民営化そのものに対する関心ではなかった。その政治におけるプロセス、生の雰囲気を見てみたかったのだ。したがって、道路公団民営化というトピックスそのものに照らした時機の云々ということはもとより無関係だった。たまたま、優先順位的に次々に他の本に抜かれていっていた。^^;)

 昨夜突如この本に遅ればせながら「順番」がまわってきたのは、人が世に出るということにしばしばあるのと同じように、ひょんな偶然によるところが大きい。
 実はここ最近また、頭のチューニングというか、頭に負荷を与えて研ぎたてるという期間に入っていて、その一環として、とにかく出来うる思考限界速度で本を読むということも項目にあるのだが、その材料本として格好であるなということで選んだものだ。

 雑多にいくつか感じたことを紹介しておこう。

 まず、ごくごく素朴な感想として、著者であり道路公団民営化のいわゆる「七人のサムライ」の中心人物である猪瀬氏をはじめ、他の委員、あるいは橋本元総理をはじめ一部の政治家といった人々の勉強量とエネルギーの凄まじさということに感じ入った。

 なによりまず著者である猪瀬氏の当時の状況といったら本当に鬼神のような働きぶりだ。
 特に民営化推進委員会が発足してからは、原則的に定期の会議が週二回(一般的な審議会などでは月一回や二た月に一回ということも普通である)、さらにその議論のための詳細稠密な資料収集と分析、一方ではテレビ、雑誌、新聞といった各種メディアでの出演やインタビュ、それらをこなしながら、テレビのレギュラー出演もあれば、本職である著述、雑誌等への執筆、さらには自著のドラマ化番組にあたっての打ち合わせや、あげくには脇役での出演、そのための東北弁の練習、等々、眠る時間がないと本人もこぼしているが、それはそうだろう。
 しかもこの間、たえず各方面から攻撃を受け、精神的なストレスもいかほどかと思われる状態だ。

 もっとも、単に仕事が多いということよりも、そうした中での「勉強量」に僕は感じ入る。
 それは、本書で登場する橋本元総理とても同様だ。
 猪瀬氏が橋本氏と話したときに、昨日出た雑誌の文を既に全部読み、かつポイントを正確に理解していることに猪瀬氏も感嘆したという話も出てくるが、(政治家の大部分がそうでないとしても)それなりの人物の「勉強量」というのは相当なものであろうと思う。
 しかも往々にして、彼らというのは、勉強に充てる時間も相当に限られてもいる。

 勉強量とエネルギー、あらためて僕も奮い立たされる思いだ。


 これもごく感想に過ぎないのだが、猪瀬氏は、推進委員会の活動期間において、「身の危険」ということについても若干触れている。
 いわく、たとえば車のワイパーに紙がはさまっていたりする。見ると、参議院の専用箋にこういうことが書いてある。「人を殺しても刑罰に問われない者がいますよ。せいぜいご注意ください」

 同じく委員に名を連ねる松田昌士氏(JR東日本会長)は猪瀬氏に助言して、「あなたは目立つから狙われるおそれがある。ハイヤーをつけてもらいなさい」と言う。
 ちなみに松田氏は、国鉄民営化に活躍した人物であるが、その当時の体験談には、セキュリティ確保のために、二年半もひとりでホテル暮らしを余儀なくされたともいう。

 こういう話を聞くと、(不謹慎ながら)僕なぞは勇躍してしまう。


 さて、次にもう少し真面目な話をすると、
 「改革」における政治手続き的なことについて、さまざまに考えさせられた。

 この、道路公団民営化が与党内においても実に大々的で根強い反抗にあったことは周知の通りだと思うが、その摩擦の一端には、(もちろん大部分であるにせよ)族議員であるとか利権の問題だけではなく、やはり正規の手続きを軽視するかの観によるところもあったと思う。

 たとえば、初期の行革断行評議会は行革担当相の私的諮問機関であって、政府内にはもとより与党内においても何らの権限もないものだ。
 ところが、小泉首相−石原行革相−行革断行評議会という直結ラインでもって、評議会、なかでも猪瀬氏の主張がダイレクトに総理まで上がっている(官邸で直接総理と話を詰めてもいる)。

 しかし、衆議院においても、自民党内においても、道路関係の委員会が制度として存在するのであって、彼らがこうした手法に反感を持つのはある意味当然でもあり、また、政治的に問題のあるやり方だというのは正論でもある。

 この点、たとえば徳川吉宗の改革における苦心を思い出す。
 吉宗は、有能な官僚をスタッフとして登用したが、しかし老中たちの頭を越して将軍とスタッフが直結して政治を行っていくのは(それがいかに有意義かつ必要な政策であれ)幕府の職制を蔑ろにするものであって、老中たちが大いにねじ込んでくるのは当然であった。
 そこで中期以降の吉宗は、スタッフへとの諮問答申によって作成した政策を、あらためてスタッフから老中を通して将軍まであげてこさせるということをやっている。

 もちろん、いわゆる「抵抗勢力」の根強さ、かつ利権構造と結びついたそれを考えた場合、一概に吉宗の上記のような例をあてはめるべきであったと言うつもりはない。
 しかし、単にメンツを立てるとか、気配りということを目的とするのではなくとも、不要な摩擦とそれに投じられる無駄なエネルギーを思えば、手段としてメンツであるとか気配りということを考慮するのは、ある範囲においては合理的ともなる。

 また、さきに正規の意志決定システムの面々による非難にも一部は正論があると言ったが、それは例えばこの評議会であるとか、その後の民営化推進委員会においても、そうした審議会的なものの権限の強さというものについて、僕も一抹の懸念を持っている。

 たとえばこの道路公団民営化推進委員会は、「七人のサムライ」といわれる通り、たった7名のメンバー構成である。
 お決まりで「有識者」ということで人選がされているが、行政組織法でいうところの3条機関ではなく8条機関ではあっても、国鉄再建監理委員会がそうであったように「限りなく3条に近い8条機関」ということは会の設置法の条文でどうにでもなる。3条機関といえば公正取引委員会などがそうだ。

 この「有識者」という曖昧な位置づけで選ばれたごく少数の人間が国の政策に与える影響を考えれば、多少の虚恐ろしさも感じずにはいられない。
 そしてたかだが7名のこの推進委員会でさえ、議論を集約することはできず、結局多数決の解決となってしまっているわけだ。

 僕は、各省庁の審議会議事録を一通り読むようにしているが、今や、行政における「審議会」の位置づけはきわめて大きい。日々、あらためてそのことを痛感する。

 かといって、さまざまな分野の高度に専門的な政策事項について、一般的に代議士たちが十分な知識をもって議論することは、まして一般世論がそうした問題を適切に議論することは不可能だ。
 であるから、やはり「有識者」による専門的な委員会、審議会というものは必要になってくる。

 もちろん、審議会の決定に政治が従う義務などはない。しかしながら、上述したような理由によっても、余程のことがない限り、審議会の答申であるとか勧告を無視するということは行われ難い。

 一部には(あるいは猪瀬氏もそうかもしれないが)、有識者会議であれば、それは政治家や官僚ではなく「民」を代表しているのであって、そこに大きな正統性を主張する意見もあるが、しかし、「有識者」は国民の代表などでは断じてない。ただ本人が国民を代表して意見しようと考えているのは立派なことだが、しかしそれならば政治家だって官僚だって本来は国民のことを考えて施策するものであるし、そう思って努めている者もいるだろう。また、少なくとも政治家は現実に選挙というシステムで正当に国民を代表している。

 そこで、「有識者」に求められるのは、やはりあくまでもその社会的見識と専門的見識である。
 そして、彼らには、日本の将来を左右する重大な方向付けなどをさせてはならないものだ。
 「まる投げ」という言葉がひと頃言われたが、そういう意味で、最もしてはならない「まる投げ」は、こうした審議会的なもの、諮問機関的なものへの「まる投げ」だと思う。

 今日は詳述しないが、しばらく以前には、日本の将来ビジョンのようなものがこうした有識者による諮問機関に付されたのは記憶の新しいところ。
 しかし、財界人や学者たち(それもわずかな人数である)が策定するビジョンとは、国民世論でもなければ、何の正統性もなく、特に財界の思惑の汚染ということも非常に顕著になりがちだ。こうしたものが政策をリードするようになるのは、大袈裟に言えば政治の死にもつながり得る。

 つまり現時点で僕が愚考する限りにおいては、有識者諮問機関的なものには、政治が方向性を示した上で諮問すべきだと思う。
 大きな方針を描くのは政治の仕事、その大方針を示した上で、有識者の「識」を傾注させるのでなければ、と。

 ちなみに道路公団民営化推進委員会は、議員の幅広い支持を受けていないとはいえ、総理大臣が強い意志で大方針を示しているのであって、その方針を実現するために活動したというところに、僕が言う意味での正統性が保持されていたと見ることはできると思う。

 ここで、やはり政治家個々の「勉強」と「気概」というものが問われると思う。
 諮問機関に対してであれ、官僚に対してであれ、政治の側からグランドデザインを示すことができなければ、それを他に委ねることになってしまう。

 奇しくも、猪瀬氏は同書の中で、次のようなことを書いている。

  どの高速道路を優先してつくるのか、「箇所付け」と呼ばれるものだが、国交省に顔が利く議員がねじ込んでくるとついつい役人も長いものに巻かれろで妥協してしまう。族議員は圧力をかける。官僚は圧力を受け入れる代わりに、法案を国会で通そうとするときには応援団として利害が対立する省庁を捩じ伏せてもらい、貸しを返させる。本来は政治家が大所高所から天下国家を論じ、細かな箇所付けは官僚が決める。ところが現実は大所高所の国家デザインは官僚が決め、細かな箇所付けに政治家が奔走する情けない状態がつづいている。



 最後に、官僚批判について。
 こうした立場にある多くの人同様、猪瀬氏もやはり官僚というものを社会の悪そのものであるかのように強い不信と非難を重ね重ね述べている。
 しかし、そうしたものはいつも、僕には「ケンカ」のようなものに見える。
 もちろん、官僚体質ということはさまざまに、僕自身も到底批判せずにはいられないことはあるが、それはどのような業界、人物であっても決して完璧であろうはずもなく、例えば猪瀬氏には物書き体質があって不思議はないのと同じだ。
 また、本書にあるような、こと道路公団の問題にしても、もちろん許せないような国交省の無為無策や非常識ということもあるにせよ、道路公団の民営化のあり方等についてのより高次の議論では、単に見解見識の相違ということもある。一方の側から書かれているだけに、他方についてはさながら悪と蒙昧の権化のように記述されているが、単なる論敵に過ぎない部分もある。

 人間一人と一人がともに仕事をする場合においても、そこには、当然見解の相違もあれば、互いに長所も短所もあるだろう。そこをいかにチームとして機能させるかということが問われるのであって、大人として身につけていくべき人間力のひとつでもあるだろう。

 例えば猪瀬氏については、既に立ち上がり以前から、明確に官僚を敵視し過ぎであった面もある。まして委員会が発足すれば、氏は、いかに官僚が非協力的かということを散々書いているが、しかし逆から見れば氏も同じとも言える。
 ともに出せる力を出して日本の将来を明るいものにしようという姿勢は、猪瀬氏についても、やはり全く存在しないかに見える。氏にとって官僚は被告でしかない。

 しょせん組織は人間だ。
 ごめんねと言ったら、相手も、いやこっちこそごめん、というのは、子供の頃などはとりわけ、誰しも経験したことがあるだろう。彼氏や彼女との間でだってそうだ。
 向こうが悪い、向こうが譲らない、といって不要に互いの関係を損ねている様子が、いわば猪瀬氏と国交省の関係でもある。
 そんな猪瀬氏も、橋本元首相や古賀代議士、亀井静香代議士といった(いわば本来こちらこそが本物の抵抗勢力)に面会する際には、そうした態度をとっていない。橋本氏には「お叱りを頂戴しにきました」と切り出している。
 ご本人は気づいていないかもしれないが、やはりそこは一視同仁とはいかず、彼らのような大物議員に対しては、官僚相手のようなケンカ腰や告発者然とした態度の得策でないことを理解していたのではないか。

 僕はことさら国交省を弁護しているつもりはなく、その不届き千万の事は多岐に及ぶと認識している。しかし、事を成すにおいてともに知恵と力を併さずにいがみ合うメリットはない。


 さて、あらためて本書についてだが、道路公団民営化という大作戦の各プロセスのほぼ全貌が、実に生々しく生き生きと描かれていて、政治の現場のさまざまな様子、勘所というものが描かれていて面白い。それこそが、僕がこの本に期待したことだった。^^)


posted by Shu UETA at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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