2005年06月20日

(書籍) 「居合の科学」


京 一輔
発売日:2005/05
価格
あまなつ

 居合もしくは剣術その他武術を嗜んでおられる方は必ずしも多くはないのだろうとは思うが、その方面に心得のある方にはお薦めの書。

 サブタイトルに「流派を超えた根本原理」とあるように、各流派の色を超えて、あるいはそれ以前の文字通り「根本」における刀法、抜刀、抜き付け、抜き打ちの理合が、きわめて合理的論理的に解説されていて、いちいち首肯させられる。

 また、「鞘放れの一刀こそが居合のすべて」ともいうべき居合の真髄についても、あらためて認識を深くさせられる。

 技術論においては(もちろんそれが大部分だが)、柄の握りといった基本的なことについてもその理合を解説するほか、特に感じ入ったのは、例えば抜き付ける際に柄頭をどちらに向けて抜いていくかということによる、斬撃力と速度、正確さの使い分けについてや、振りかぶりにおける状況に応じた理合と使い分けなど、あるいは半身・正対という体の変換(ちなみにこれは目下僕が最も研究している事項 ^^;)、などなど、きわめて論理的にして簡潔に持論が述べられており、非常に参考になる点が多々ある。

 また、技術論ではなく、多分に心得的な事項になるが、居合の初太刀というものの意義について、あらためて認識を深くさせられた。
 技術論と異なり、こちらについては広く多くの人にとっても何かしら思うところもあろうかと思うので、一部を紹介しておきたいと思う。

  居合について、「極意は鞘(さや)の内」「勝負は鞘の内にあり」などといわれていることは、居合に触れたことがある人なら誰もが、一度は聞いたことがあるはずだ。それほど居合にとって「鞘の内」は重要であり、流派によっては、居合自体を「鞘の内」と称しているとこもある。

 「鞘の内」とは、文字どおりとれば、刀身が鞘に納まっている状態ということになるが、居合でいう「鞘の内」には、もっと深淵な意味がある。

 居合は、刀をぬいていない「帯刀」状態が前提となっている。そして、その状態から刀を「抜きながら放つ」抜き付けや抜き打ちなどの初太刀が、居合の生命であり、存在意義でもある。

 居合の、最大にして唯一ともいえる武器は、この「刀を抜きながら放つ初太刀」なのである。

 このことから、居合が威力を発揮することができるのは、抜きながらの初太刀を放つまで、ということになる。刀身が鞘に納まっている状態こそ、居合がその強さを保持している状況なのだ。

 これが、術技・技法的側面からみた「鞘の内」が意味することのひとつである。
 抜いてしまった後は、立合と同じで、剣術の世界となる。居合の強みは、ほとんどないともいえる状況である。
 居合は、剣術のように、初太刀が外されても二の太刀、三の太刀と、初太刀と同様、もしくはそれ以上の打突を送ることができる性質の武道・武術ではない。「抜きながら放つ初太刀」が外されることは、即、自分が倒されることを意味するのである。

 そうであるならば、文字どおり「生死を分ける一刀」となる「抜きながら放つ初太刀」を放つ前に、事態を治めることができれば、それに敵う理想はないこととなる。
 これが、心持・心法的側面からみた「鞘の内」が意味することである
 刀を抜く前に相手が引いてくれれば、自分も危険を冒さなくて済む。そしてなによりも、無益な殺生や傷つけることを避け、生かすことができるようになる。
 事態をこうした状況へ導くことが、居合の極意であり、究極の目的なのである。

 そのためには、相手に手を引かすだけの技量が備わっていなければならない。それだけの技量が、相手に引こうという思いを抱かせる「気」を発するのである。
 居合の稽古は、この必要とされる技量を養成し、磨くためのものなのである。
 「鞘の内」は、心持だけのものではない。術技・技法が伴ってはじめて成り立つものなのである。そしてこのことが、居合が武道・武術であることの所以でもある。
 居合を修行していくうえで、以上のことは十分に認識して置かなければならない。

※注) もちろん、居合にも初太刀以降の二の太刀、三の太刀はあります。が、真の優位は、初太刀が外れた時点で失われてしまうというところに、居合の真髄と覚悟があるということです。



 本来、防衛力ということもかくありたいものと思う。
 「威」をもって敵の意図を挫くことが第一。
 しかし万やむを得ぬ場合には、中途半端ではなく、全力を込めた一撃で討ち止める覚悟。

 あるいは、ことさら戦闘、戦いということでなかろうとも、とも思う。(過去記事 (words) 刀

 居合(あるいは武全般)においての究極の目的は「威」(あるいは「気魄」)の示現ではないかと思う。その「威」とは平素のたゆまぬ鍛錬によって培われるものだろうが、もはや平和的手段が聞き入れられぬ状況にあってなお「威」によって無用の争いを避けることができれば(「鞘の内」)、それこそが武の徳となるだろう(武徳)。


posted by Shu UETA at 21:05| Comment(7) | TrackBack(0) | 武術/身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
居合いが一太刀限りを前提とし、
それゆえに、まず抜かないで済む技術を伸ばそうとする。

まさしく江戸時代の平和武道の精神ですね。
それは"常在戦場"ではないからこそ許された思想かと。
しかし、現代の世にはまさにぴったりなものですよね。

可能な限り争いを生まず、解決の道を探る。
しかし、必要な事態が訪れれば、
邪心を捨て、心を澄まし、一閃。
Posted by jk at 2005年06月22日 15:24
> jkさん

 常在戦場とはそもそも平和時の心がけだと思いますが、居合の精神の大部分は、治にあって乱を忘れずというか、平時にあって常に危機を思い、察知あるいは予測し、事前の回避、対処に心を配ることにあると思います。

 ちなみに僕の稽古している流派は後に言うところの居合が表芸なのですが(当時はその言葉がなかった)、戦国期に成立したもので(流祖はあの稲葉一徹と言われています)、いわゆる正座して行うものではなく、立っているもしくは歩いている状態から行うものが主となっています。
 当時はいわゆる平和期ではありませんが、戦場ではない平時における、あるいは戦場であっても戦闘時ではない状況における、危機への心配りが、やはり基礎となっています。

 剣術と居合術はもとより別のものではなく、車の両輪のようなものですが、仰るとおり、まさに現代人にとっては剣術よりも居合術の心を心とすることがより有意義ではないかと思います。
 記事にもあるとおり、居合というのは、抜く、斬るという技術もさることながら、抜くに至るまでの状況操作ということが相当の部分を占めますので。(孫子のいう「勝って後 戦う」あるいは「戦わずして勝つ」に通じるところが大ですから)

 ちなみに、江戸期における武士同士の間での「相互確証破壊」的関係というものに僕は注目しています。
 ドラマで時に見かけるような「切り捨て御免」などということは町人百姓に対してでさえ現実には容易に認められないもので、まして武士同士の私闘となれば(仇討ちを除く)、もはや勝つか負けるかは名誉の問題であって、勝った側も腹を切ることになるのであって、いずれにせよ、刀を抜いたからには生きていることはできないという状況がほとんどです。

 そういう意味で、武家に永く慣習法的に存在した「喧嘩両成敗」という考え方は、現代感覚からは一見無茶と思える面もあれど、しかし前述したような「相互確証破壊」的な刀を抜くことへの抑制をもたらすものであったと思います。

 そこで、武士が刀を抜くからには、自己一身を無きものとして、公であり大なる目的のためであるべき、という心にもなってくるだろうと思います。
 実はこうした意味でも、以前jkさん(当時spice boyさん)と交わしたような(例の過去記事の)気持ちをもっています。

 うおっ、どうも長くなりました ^^;)
Posted by Shu at 2005年06月22日 21:08
> jkさん

 言い残しました ^^;)

 過去記事のような気持ち、と書きましたが、
 それはむろん、争いのようなことだけではなく、たとえば日常生活や、仕事上の議論等においても、不要に相手を論破してへこませるものではないということにもなると思っています。
 それが必要とされるのは(刀を抜くべき場面とは)、何らかの目的に資する場合のみで十分だろう、と。

 これはまさにjkさんとは感覚をともにしているところではないかなと僭越ながら思っています。^^)

 ちなみに僕の場合は、本性として気が強く気の短いところがあるので、かえって、こうした自戒にたどりついたものです(まだまだ未熟ですけど ^^;)
Posted by Shu at 2005年06月22日 21:26
はじめまして。兵庫で英信流居合を学んでいる者です。
「鞘の内」のお話、大変示唆に富んだ文章で勉強になりました。
また時々読ませていただきます。
Posted by 夢草の剣 at 2005年11月29日 18:49
> 夢草の剣さん

 はじめましてっ
 blogも拝見しました
 どうもなかなか近隣のようですね ^^)

 僕はまだまだ他人様に説を垂れるほどの境地ではありませんので、こうした記事をものしていても実に汗顔の至りです。

 が、自分ながらに少しずつでも深めるたびに、居合は剣術の精華、という言葉を実感します。

 お互い、心技体、ますます磨きましょうっ
 と、話していたらまた何本か抜きたくなってきました。^^)
Posted by Shu UETA at 2005年11月30日 19:36
Shu様 こんばんは。拙ブログに御訪問頂いたそうで、誠にありがとうございます。
こちらこそ駄文の羅列でお恥ずかしい限りです。(汗
「居合は剣術の精華」、良い言葉ですね。思えば居合道は現代武道の中で、日本の武の象徴とも言える真剣を用いる唯一の(に近い)武道ですよね。そういう意味でも居合こそ日本武道の精髄と言えるかもしれませんね。
「鞘の内」と言えば、親しくさせて頂いている無外流居合を学んでおられる方に伺ったのですが、無外流には刀を抜かずに気迫のみで圧して相手を追い払うという形があるそうで、凄い技だなと思いました。というか、これぞ究極の形ですね。(笑)
Posted by 夢草の剣 at 2005年11月30日 22:41
> 夢草の剣さん

> 無外流には刀を抜かずに気迫のみで圧して相手を追い払うという形があるそうで

 おおっ それはたしかに究極ですね。
 しかし、凄いというか…それを裏打ちするだけの、内面的充実といいますか武徳といいますか、を涵養するのは並大抵ではなさそうですね。^^;)
Posted by Shu at 2005年12月03日 21:06
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