2005年06月14日

多文化共生


 総務省が、新たに研究会を発足するとのこと。

 「多文化共生の推進に関する研究会」の発足(総務省報道資料)

 「多文化共生」という旗印の運動にはかねてから些かの注意を払ってきたのだが、ついに行政が研究会を発足するに及び、いよいよ要監視リスト入りだ。^^;)

 報道資料に「主要論点」としてあげられているものを見る限り、省の主眼としてはきわめて適切妥当なものと思われるが、メンバーを見ると、若干の危惧もある。

 多少の嗅覚をもつひとであれば、その内容を全く知らなくとも、「多文化共生」というその言葉のセンスに、肯定的であれ否定的であれ既に何かを感じるひともあるかもしれないが、僕もそのクチで、ちなみに僕の場合は、初めてこの言葉を見たときから、どうも好きになれないものを感じた側だ。(さらには「多民族共生」という言葉もある)

 しかしながら、「多文化共生」の名のもとに行われている活動は、大部分実に僕には賛同できるものであって、直感に自信のある僕としては些か不思議の感もあったのだが、少し詳しくわかってくると、それに携わる中心メンバーの人々の大部分が、やはり僕には賛同しかねる思想傾向にあるのだということがわかった。^^;)

 「多文化共生」という概念と、そのもとに進められている活動には、大きく二つのカラーがある。
 ひとつは、現にある社会問題への対応というきわめて現実的な視点のものであり、
 他方は、独特の政治的信条に基づくものだ。さらにこの後者の一部に、イデオロギー的なものが若干含まれる。

 前者にいう「現にある社会問題」というのは、日本に居住する外国人の急増と、それにともなう彼らの生活において彼らが抱える諸問題であり、それは、日本語コミュニケーション能力の不足や差別等による就労や居住、教育、医療、福祉等に関するものが含まれる。

 国内の社会問題意識としては、中でも、日本在住外国人児童の就学問題が近年大きな問題としてここ数年問題視されている。(もちろん先にあげたような他の面でも、彼らは大きな問題を抱えている)

 こうした問題への意識というのは、日本のどこに住んでいるかによって大きな隔たりがあり、例えば外国人労働者を大規模に雇用している大工場が多い静岡県や群馬県に住んでいる人にしてみれば非常に身近な問題であろうし、外国人労働者がほとんどいないような地域に住んでいれば、どうもピンとこないかもしれない。
 僕は浜松に2回、計4年近く住んだことがあるが、浜松市や磐田市の状況は…すごい。^^;)
 外国人児童の就学率の低さは犯罪等にもつながっており(僕がいた時にも天竜川の河岸でカップルがブラジル人少年らに襲われるなんて事件があって、天竜川付近は一時期浜松っ子のデートのドライブコースから外れたものだ ^^;)、そもそもはそこから大きな問題意識も共有されはじめた面もある。
 群馬県では先祖を祀る神社や菩提寺がある都合で時折太田市付近を訪ねるが、あの辺りも…すごい。

 今日、正規に登録している外国人だけでも200万人弱の数が日本に滞在しており、韓国・朝鮮と台湾、中国で5割を占めるものの、ブラジルとフィリピンをあわせたものも3割強を占め、彼らは特に生活上大きな障害を感じている場合が多い。

 こうした問題について、早急な対策、救済は喫緊の課題であり、そうした取り組みには、民間であれ行政であれ、僕も大いに賛同し、勉強(まだ研究までいってない ^^;) しているところだ。


 一方で、もうひとつの、政治的信条による立場とは、例えば「移民国家」「多民族・多文化国家」を標榜するものだ。

 その主張は通常、現に目下進行中の上記のような事情に加え、来るべき少子高齢化社会での労働力不足を前提に、その解決法として海外からの労働力流入を不可避のものと考え、かつそこにおいて「移民国家」を標榜する必要性を説くものであり(ここまでは他にもよく主張される論だ)、特に、外国人の基本的人権の厳守、内外人平等原則を強調しつつ、同化政策及び日本人・日本文化に基づくナショナル・アイデンティティの排斥を訴えるものだ。

 おわかりであろうけれども、僕が危惧するというのは、さきにあげた前者ではなく、こちらの立場に対するものだ。

 労働力不足解消のため、海外からの労働力受け入れの拡大が必要であるとの論は「多文化共生」とは別に方々で叫ばれており、(ちなみに僕は異論をもっているが)それ自体はひとつの見識であろうと考えているのだが、それとは別に、そうした社会において「多文化共生」論がイメージし招来しようとしている上述のような社会像、国家像に危機感をもっている。


 冒頭紹介した総務省のこの度の研究会では、主たる論題として次のように掲げられている。

 (1) コミュニケーション支援プログラム
  ○ 言語支援
  ○ 防災・危機管理
  ○ 医療支援

(2) 定住支援プログラム
  ○ 住宅
  ○ 教育
  ○ 労働環境

(3) プログラム実施上の環境整備
  ○ 地方公共団体等の体制整備
  ○ 交流支援
  ○ ITの活用


 これらを見る限りでは、総務省の意図としては、僕が「前者」とした、現実問題への行政対応というべきものであり、実に妥当なものと思う。

 また、代表的な民間団体の活動も、ほぼ思想性とは別の、実に有益な活動である場合が多い。

 例えば、多文化共生センターは、阪神大震災の折に被災地居住外国人の支援といったところから発展した組織だが、今日も外国人のための相談窓口や医療、教育支援の活動を続けている。
 自治体国際化協会は、自治体行政における定住外国人問題を扱っている。

 ところが、総務省の研究会も、メンバーを見ると、まず座長の山脇啓造氏(明治大学教授)は、「移民国家」主張の代表的人物であるし、柏崎千佳子氏(慶応大学助教授)も同様だ。

 山脇氏については、プロフィールに、過去の論文、著作等が掲載されているので、興味のある方はそのいくつかに目を通してもらえばいいと思う。
 中でも最も主張がよくまとめられているのは、「移民国家日本の条件」(PDFです)ではないかと思う。かつ、ちょうどこれは柏崎氏も共同執筆となっている。

 氏は、「移民国家」を提唱し、その国家においては「多文化共生」を唱え、内外人平等原則の徹底と、故に当然ながら基本的人権の厳守、また「同化主義」を否定して(だから「多文化共生」)、かつ「日本国民」という国家アイデンティティの排斥を訴えている。

 ある程度以前からこのblogを読んでいただいている方は、僕がしばしば「多様性」ということを言い、内政においても外交においても「多様性維持」「多様性尊重」を自身の信条としていることをご存知だろうけれど、僕が理念とする「多様性」ということと、山脇氏等が主張するものは大いに性格を異にする。
 それは例えばこうした記述において顕著だ。(「移民国家日本の条件」より)

  従来、日本は「単一民族国家」であるという見方が支配的であった。そのため、「日本民族」による、「日本民族」のための国家、という考え方が、国民国家統合の原理として機能し、「日本民族」に属さない人々を、政治的、社会的共同体から排除する傾向と結びついてきた。そのような狭義の「日本人(民族)」「日本文化」にもとづく「日本国民」というナショナル・アイデンティティのあり方は、将来の移民の増加を考えれば、不適当である。そこで、今後は新たなナショナル・アイデンティティの構築を目指さなければならない。その基礎となるのは、市民権と公共文化である。すなわち、国民としての共通意識の源泉を、市民としての平等な権利と義務、民主主義をはじめとする国の基本理念、および多文化の尊重を含む価値観の共有に求めるのである。民族的出自にかかわらず、平等な社会参加が可能であり、かつ文化的アイデンティティが保障されているという実感を国民が持つことができるならば、同じ政治共同体の成員としての連帯感を育むことが可能となろう。また、そのような連帯感は、大衆文化や経済的なまとまりによっても強められるはずである。
 このように、新たなナショナル・アイデンティティのもとでは、「日本国民」を、ひとつの「民族」として捉えるのではなく、同じ国家に帰属し、かつ広い意味での「文化」を共有する市民の集まりと考える。「日本国民」のなかの多様性を認知することが、そうした発想の転換への第一歩となるであろう。新しいナショナル・アイデンティティの構築に向けては、多数派「日本人」に対する啓発プログラムを重視し、とりわけ、公教育を通じて、「非民族的」な共通意識とそれにもとづく連帯感を育てていく必要がある。


 今日誰しも知る、あるいは信じるように、「日本民族」とは、さまざまな文化や当時の民族が混ざり合って出来てきたものだ。それは土着の国内においてもそうであったし、海を伝って海外からの流入もあったろう、さらに歴史時代に入っても、大陸からの移住帰化は頻々とさまざまな規模で繰り返され、もちろんそれとともに多くの異文化を日本文化に混入するとともに、政治の枢要にも就いたものだ。

 それが長い歴史を通じて、「日本」というものを一体的につくってきた、そして遙か今日において「日本民族」なる自覚をもたらし得るにいたったのは、国内であれ海外からの帰化であれ、異なる文化を持ちつつも、いわゆる「日本」的な共通理念、価値観を共有しつつ多様性を許容してきたからだろう。

 もっと歴史が下る間にも、たとえば天皇・公家と武家、あるいは江戸の三百諸侯による藩制度は、各国々に独自の文化や個性を育んだし、あるいは身分制も手伝って、日本は実に多様性を内包する社会、民族性を育んできた。

 「民族」という概念自体、それは何ら生物学的血統や厳密な人種の同一を示すものではなく、共通の先祖をもつと「信じられ」、あるいは共通の文化を共有すると「信じられ」る集団のことであって、そもそも純血だの混血だのという問題ではない。

 米国はまさに移民国家であるが、彼らほど「アメリカ的」であることを気にし、「アメリカ的」であることを国民に要求する国はあるまい。一般に、それは「移民国家」であるが故のことと考えられている。つまり、異なる文化背景をもつ人々が共同社会を営んでいく上で、国を社会をひとつにまとめる柱が必要なのだということだ。

 山脇氏は、「日本」に根ざすアイデンティティは捨てねばならないと、その代わりの新しいアイデンティティは、「市民権」や「民主主義理念」あるいは「平等」「多文化の尊重」で足りると言う。
 すでにここで「地球市民」的発想に相当に接近してくるが、それを別としても、そもそも人間は、そうした政治的理念のみで容易に氏のいう「連帯感」をもち得るものだろうか。
 であれば、EUはもとより、自由と民主を基調とする世界の大部分は簡単に統合できるだろう。(EUにいたっては、非常に濃密に文化的背景を共有しているにも関わらず、ことはそう簡単ではない)

 「同化主義」と言ってしまうと多分に他文化の圧殺のようなイメージをも伴うので、僕もこの言葉をそのまま支持するつもりはないが、しかし一体の社会、国家である以上、また、もとから存在する社会にさまざまな他所から流入がある以上、やはりそこにはある程度の「同化」は必要だろう。
 ただしその「同化」とは、いわば「扇の要」のようなもの、「大黒柱」のようなものであって、そうした「中心」が保たれるが故にこそ、「多様性」は保たれるものだ。
 その「扇の要」になるものが、アメリカにおける「アメリカ的」であり、日本にあっては「日本的」な何ものかだろう。

 氏は、これからの日本は、世界中から「日本に来てみたい、住んでみたい」あるいは「日本人になってみたい」という国にならなくてはならないと言う。
 僕はこの点、実に同感だ。

 しかしそうした魅力ある国にしていこうと言うとき、世界中の人が「日本に来てみたい、住んでみたい」というその「日本」とは、まさに「日本らしさ」であり「日本的」ななにものかであるほかないのではないか。
 それを捨て去って、「原日本人(氏に言わせれば「多数派日本人」」も「新日本人」も全くの平等に白紙の上に「自由」と「民主」「平等」の新しい国をつくっていこうなどというのは、学者らしいといえば学者らしいが、いかにも空論ではないだろうか。
 なるほどかつてアメリカはそれをやったと言う向きもあるかもしれないが、故に米国はたいへんなエネルギーを国家の一体性の創造と維持にかけてきたのであり、また、そもそも米大陸には(少なくとも彼らの認識において)原アメリカ人などは存在しなかったのだ。そしてやがて国が成立してからは、移民に対する「アメリカ化」の要求は常に努力されてきている。

 さらには、今回のイラクもそうだが、不幸にしてもともと複数の民族文化を抱える国家において、民主主義の名のもとにおいても「連帯」なるものがいかに困難なものであるかは、世界中の多くの国で経験されている。
 さきにあげた多文化共生センター代表の田村氏は、「民族とか国籍にアイデンティティを持つ時代は終わった。」「これからは、自分がどのような生き方をしたいか、どういう人と一緒にいて心地いいかという帰属観を持っていくべき」と言うが、「持って行くべき」かどうかは知らないが、人々を洗脳することもできない以上、民族、文化間の政治的対立や摩擦をそれで解決できると考えるのはあまりに脳天気ではないだろうか。それで済むなら、世界の紛争はほとんどがとっくに解決しているだろう。
 それに、僕がO型双子座であって同時にロッテファンであるように ^^;)、民族や国籍をもつことと、自分らしさや自己表現というものは、なにも排他的なものではなく同時に両立するものだ。


 また、話が難しくなるので今日は詳述しないが、基本的人権ということについても、本来、人権なるものは国家によって、国民に対してしか保証し得ないものであって、国内においても国外においても、自国民でない人々を支援し救うとすれば、それは人権云々の問題ではなく、正義感、倫理感、人道、ヒューマニズムというものによる。


 他に団体としては、他民族共生人権教育センターというものもあるが、ここの理事長は例えばこうした意見を同サイトで述べている(有事法制に想う)が、ここではイデオロギー的なものもかなり濃厚に見てとれる。

 山脇氏の場合は純粋に「移民国家」への夢からなのかもしれないが、「新しいナショナル・アイデンティティの構築に向けては、多数派「日本人」(※つまり言わば本物の日本人のこと)に対する啓発プログラムを重視し、とりわけ、公教育を通じて、「非民族的」な共通意識とそれにもとづく連帯感を育てていく必要がある」という考え方は、それこそフランス革命からロシア革命、そして今日のいわゆる左翼思想につながる、国民個々の「原子化」と(仮に偶然であるにせよ)奇妙に符牒が合い、故におそらくは、そうした思想グループも大いに乗ってくることが予想される。


 僕の考え方としては、
 まず、目下の国内居住外国人の直面する諸問題については、正義と人道の観点、及び社会の安定の観点から、速やかに対処が必要。その内容は、例えば多文化共生センター等が今日行っているような各種の(研修プログラム等以外の)活動、支援のようなものとなり、国としてはそれに対する助成ならびに各自治体に対する基準要領の設定等になるだろうし、そうした観点で今回の研究会も催されるものと思う。(座長等、人選が急進的過ぎるきらいはあるが)
 さきにも書いたが、僕もまだ勉強中でもあり、今後研究はしてみたい。

 次に、移民国家論については、少子高齢化問題についても、それがもたらし得る労働力不足についても、現在のところ、僕は海外からの労働力大量移入以外の選択肢が可能であると考えている。
 それは主として経済構造の改革によるものだが、目下最優先で鋭意研究中なので、話はもうしばらく待ってほしい。^^;)

 とはいえ、仮にやはり海外からの労働力大量移入が必要であるとしても、あるいは、前述したように、僕自身、世界中の人々が日本に魅力を感じ、日本に暮らすことを希望するような国にしたいと思っているが、そうした面においても、しかしまず先決は、「日本とは」ということ「日本の社会理念」というもの、そうしたものの確立だと思う。
 これは、今日の日本の状況では、海外からの移住ということを別に、国民自身にとって必要な喫緊かつ重要な課題だが、こうしたものがあってこそ、これが先述の「扇の要」となって、国内的にも、海外からの流入に対しても、それを「要」としながら多様性を維持、保護し得ると考えている。

 今後、総務省の同研究会の動向は見守っていこうと思っているが、ついでながら、(現在仮称とはなっているが)「多文化共生の…」という名称は、研究テーマからしても些か踏み込み過ぎでそう適切でもないのではないかと思う。「国内居住外国人支援の…」などといったふうに何か他にネーミングできないものだろうか。^^;)


posted by Shu UETA at 13:06| Comment(4) | TrackBack(1) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
これ、全然知りませんでした。

労働力不足をみこんでの外国人労働者の取り込みをすすめる動きがあることは知っていましたが、それとこれ(多文化共生)は別ですよね…。

ネーミングについてもおっしゃらていますが、あきらかに胡散臭いです>多文化共生

文化の共生なんてありえるわけがない、ってのが僕の考えで乱暴な言い方をすれば喰うか喰われるかです。

Shuさんもおそらく同じような趣旨でかかれていると思われますが、日本は広く諸外国の文化を受け入れる、許容する方ではありますが、無条件にすべて受け入れているわけではなく、日本の文化とか伝統によってフィルターをかけれたものが、受け入れられているのです。ちなみに受け入れた物も、ほぼ日本文化のDNAが注入されていますので、「共生」ということではないですね。

こういうのを共生といっているのなら、それはそれでかまわないのですが、全く別個の文化が日本文化と独立して存在しなくてはならない、と言っているのであれば、そりゃ無理ですよね(--;

この件、僕も考えてみることにします
Posted by toybox at 2005年06月14日 14:44
> toyboxさん

 きっとtoyboxさんも注意を払われるだろうと思いました。^^)

 僕は、そうした活動は知っていたのですが、総務省がこうして正式に(しかもその名称のまま)研究会を立ち上げるとは、今日知りました。

 問題をややこしくしているのは、記事に紹介したいくつかのサイトを見ていただければわかるように、個々の活動自体は、実際かくあるべしと思うような適切なものが多いんですよね、僕もこれは助成すべきだなと思いますし。
 (「多民族共生人権教育センター」はちょっと違いますが ^^;)

 一方で、啓蒙活動的な(「研修プログラム」等)の活動もあり、また個々の活動メンバーはともかく、団体上層部や理論的指導者のレベルでは、居住外国人の支援活動よりも、その先の思想的な部分にかなり熱意を注いでいるふうなんですよね。

 さらに、記事中に書いたように、(偶然であれ)革新勢力の思想とうまく合致する点が多いので、彼らが便乗してくると、ますます論点の切り分けが面倒なものになりそうです。

 まだ今研究会が発足するところなので、すぐに事態が急進する心配はないのですが、日頃から見ていないと、ニュースになる頃には既にのっぴきならない場合もありますので、お互い定期的に観察しておきましょう。^^;)
Posted by Shu at 2005年06月14日 21:25
はじめまして。
僕は自治体職員ですが、
この多文化共生については、
ほんと、現場は試行錯誤しながらの待ったなし、
大変なんですよ。

多文化共生については、
千葉大学の手塚和彰教授(今も現役かな?)のおっしゃっているように
その名称が「統合」であったほうがいいとか、
色々議論のあるところです。

大きき範囲で考えると、
今は、サミュエル・ハンチントンの言う
「文明の衝突」時代です。
しかし、現場の自治体職員として、地域社会のために、身近なできることから、一つずつ地道にしていくことしか出来ませんし、
そうすることが、地域のために、ひいては日本のためになると信じています。

Posted by スリーフィールド at 2005年06月19日 17:08
> スリーフィールドさん

 はじめましてっ

 仰るとおり、自治体や、該当するような地域の住民にとっての「待ったなし」は重々承知しています。
 かつ、僕の知る限り、多くの現場で非常にエネルギッシュに有意義な活動がなされていることに、いたく感じ入っているところです。(裏返せば、国の反応の鈍さ、腰の重さということも ^^;)

 ちなみに、であればこそ、現に居住外国人の方々に関する、及び彼らと住民に関するさまざまな問題に対応する施策対応のどさくさに紛れて、多分に思想的な活動が政治の中央に一定の位置を占めることを警戒しているところです。

 国としては、今回の研究会メンバーの一部の方々の高所での社会改革的な思想にひきずられることなく、より具体的に、現場の施策をいかに現実的に後押しするかということを焦点として取り組んでもらいたいものだと考えています。
 (もちろん、大所高所的視点で、将来的にどのような社会像を構想していくかということも大切ですが、まずは目下の問題に現実的に対応していくことが何よりも今国に求められているところだと思います)

 僕もこの点、いろいろ考えていきたいと思っていますが、今すぐに具体的に力になれず心苦しく思います。
 頑張ってください。
 僕もいずれ力を合わせることができると思います。
Posted by Shu at 2005年06月19日 18:39
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Tracked: 2005-07-15 02:42
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