2005年06月12日

税制調査会の配偶者控除観


 報道によると、政府税制調査会が配偶者控除の見直し(縮小・廃止)の方向性を鮮明にしたとのこと。

 配偶者控除の見直し提言 縮小し、基礎控除で代替も(産経)

 上記記事で、配偶者控除見直しに関する記述の要旨は次のようなもの。

 
  •  政府税制調査会の石弘光会長は10日、所得課税改革の論点をまとめる報告書に、「配偶者控除」の見直しを盛り込む考えを明らかにした。
     縮小・廃止する代わりに、一定額を無条件に控除する「基礎控除」を拡充することも選択肢の一つと指摘。
  •  石会長は、「夫婦は対等なパートナー。税制で、ことさら優遇する必要はない」と説明。
     全納税者が無条件に年間38万円を所得から差し引く基礎控除の拡充などを視野に、見直しを進める方針を表明



 これまでの流れから当然予測できる方向性であはるが、あらためて、僕はこうした方針には危惧を感じる。

 僕が危惧というには、いくつかの次元にわたるのだが、
 まず、ひとつは税制という一分野の視点で、社会の構想、社会のデザインまで行ってしまうことの問題、
 次に、配偶者控除を個人の「優遇」であるかのようにとらえる視点、
 この二点を特に問題視する。

 まず一点目だが、
 これは税制に限らず、およそどのような分野の検討においてもいえるのだが、それは、特定分野における構想が、その分野の範囲をはるかに越えて社会全体のあり方に大きな影響を与えるのだということが前提にある。
 しかしながら、中でも税制というものは、一国の社会のあり方にきわめて重大な影響を及ぼす。であるが故に、もとより課税とは単に財政収入のみの目的ではなく、多分に社会の各プレーヤーの行動を抑制あるいは助長するための手綱としての意義も有する。

 そうであるから何ら検討も提案もするべきではないなどというわけでは、もちろんない。
 ただ、政府、内閣なり、より上位のレベルで、めざすべき社会、国家のあり方というものがデザインされ、その枠組みの中で個々の研究であるとか提案がなされるべきだということを忘れるべきでないと思う。

 今日の政治各分野の雰囲気は、いたるところで個々の小さな分野ごとにさまざまな構想が思い思いになされて、それがいっそう社会の全体像構想を見えにくくも分裂気味にもしている。

 先日書いた記事で「現代民主主義の病理」という書から引用を採った際にたまたま読み返した同書からの書き抜きに、こうした話と近い観点の記述があるので、ちょっとそれを引いておこう。(見やすくするために部分的に改行を入れた)

  言うまでもなく、専門家は特定の切り口から特定の問題を扱う。
 たとえば、雇用不安が起これば、労働経済学者が口を出す。金融不安が起きれば、金融経済学者の言うことをまずは聞いてみる。これは当然のことだ。
 しかし、労働経済学者が雇用不安に備えるために、日本社会を、あるいは人々の価値観を変革しようなどというのはいささか越権ではないのだろうか。ところが今、生じているのはまさにそうした類いのことなのである。
 もう少し穏やかに言えば、たとえば労働経済学者は「労働」の観点から経済構造の変革を唱える。金融経済学者は「金融」の観点から経済の変革を唱える。マクロ経済学者はその立場から変革を唱える。政治学者は政治学の観点から政治システムの変革を唱える。家族社会学者はその観点から家族制度の不合理を唱える、等々。
 こうしたことが集積し、相互に依存しあって、ともかくも日本社会の改革を、という風潮が形成された。

 しかしそれだけでは、まだ、改革の方向に意味を与えることはできない。そこで、取り出されたいわば改革のイデオロギーが、どちらかと言えば陳腐な市民社会論であった。あるいは、おなじみの近代化論の復活と言ってもよい。
 専門家は、自らの議論の方向づけを必要としており、また進歩派は、社会主義崩壊後の出番を探していたわけである。ここに両者の利害が一致する領域が生まれた。そこで、専門家にとってはわかりやすい、進歩派にとってはなじみ深い市民主義、近代主義がリコールされたのであった。


 もちろん、例えば税制調査会はなにも税制の専門家だけではなく、さまざまな分野から「有識者」なる人々を集めて行われているのであって、上記引用文中の「専門家」とは異なるが、しかし僕が言いたいのは、このようにごく「一部分」に過ぎない分野が「全体像」を規定するようなことは本末転倒であり、また同時に、他のそうしたさまざまな「部分」の同時存在が、「全体像」を分裂させ、混沌とさせるだろうということだ。
 メンバーが専門家であるだのないだの言わずとも、その会合なり委員会、調査会なりが、既に特定分野の専門委員会なのだから。

 上記引用の後段部分は今日は本来余分であるのだが、「専門家は、自らの議論の方向づけを必要としており」という一文のためにあえてそこまで含めて引用した。
 この「自らの議論の方向づけ」を上位から与えるものが、目指すべき社会、国家の全体像、グランドデザインというものであって、まずこれがしっかりとデザインされ、指導方針として各分野専門部会に与えられなければならない。

 今日の政治はさまざまな分野に高度に専門化されており、日々、さまざまな分野でさまざまな次元において各種の作業が行われている。そしてそれらはともすると、国家、社会全体に異なるベクトルの力を与えている。
 たとえば、家族や社会の再生ということが言われて施策が練られ、一方では家族や社会の崩壊を助長するような施策が別の分野の施策において策定されもする。

 これらは、いわば全体設計図なきままに個々部分部分の設計と建設にとりかかっているようなものだ。
 目に見える例えとしては、都市計画の成功例と失敗例をみれば、こうした全体計画なき個々思い思いの動きが(たとえそれがいかに良かれと思って努力されたものであるにせよ)どれほど醜悪な構造物を生み出すことになるか、あるいは安全性を欠くものになるか、想像するのは容易だ。

 小泉首相は、「まる投げ」などと揶揄されることもあるが、世間マスコミがそのように非難することの大部分は、必ずしも非難されるべきものではなく、何から何までいちいちトップが指示するものではないということもある(組織でもそうした勘違いをする部下はいる)。
 しかし、こと上記のような意味では、まず目指すべき社会のありようというものを明確にイメージし、全体像が各部分を規程するようにしなければ、すべての施策は支離滅裂となってしまうし、あるいは部分が全体を規定するような僭越と本末転倒が起こってくる。


 次に、次元(視点)を下げて、配偶者控除についてだが、

 調査会の石氏は、「夫婦は対等なパートナー。税制で、ことさら優遇する必要はない」と述べているが、こうした見識は些か浅薄に思えてならない。

 夫婦が対等なパートナーであるのに異論はないが、配偶者控除というものの意義は(そのそもそもの意図がどうであれ)、その対等な夫婦の一方を「優遇する」という視点でのみ機能しているのではない。

 職に就いて働いている者とその配偶者、特にここでは仮に前者と後者を夫と妻(専業主婦)としておくが、その夫と妻を個々にバラバラに考えて、妻という個人についての「優遇」をすることの是非ということではなく、「夫婦」あるいは「家庭」という「組織」「システム」に対する優遇の是非を考えるべきだ。

 もちろん、そのように考えた上でなお、そうした制度は不要であるとする見解もあるだろうが、少なくとも、「夫婦は対等なパートナーであるから云々…」という論は、論点がずれている、もしくは浅いに過ぎる。

 ちなみに僕個人は、上記のように考えた場合、こうした制度の縮小は、今日叫ばれる「家庭、家族の再生」という観点からは(そして僕もそうした主張の支持者だが)、相当の慎重性が必要とされるものと思っている。

 今書いたように、ここからは「僕個人」の見解であって、それに反する見解が「間違っている」などと主張するものではない。一つの立場としての見解だ。

 そもそも、今日過熱する「男女共同参画」ということ自体が、とりわけその運用面において、上述したような「家庭」や「社会」の再生ということと相克するところが多いのだが、
 僕の理想とする考え方は、「男女共同参画」社会とは、男女ともに、個人の希望や志向に合う好きな形で社会に参加できるような社会であるべきであって、例えば特に焦点とされる女性側について見れば、それは社会のさまざまな分野で活躍したいと考えている女性がその意志を妨げられないことを目指すのであって、(非難は多いが)ある意味伝統的な、家庭の十全な維持に任じたいと考えている女性を無理に社会にたたき出すようなものである必要はないし、かえって問題でもある。

 少子化社会到来を踏まえて、労働力の観点からも女性の社会参加が必要だという論もあるが、それはついでにとってつけたような論であって、単純化が過ぎる。

 ず〜っと以前に書いた記事 ^^;) 「専業主婦は失業者?」にも書いたことがあるが、家庭の十全な維持管理ということは「家庭」という組織における立派な分担であって、それを男女いずれが担当するかは個々の家庭の自由であるとしても、外に仕事に出る側の者の効率ということは相当に、家庭を維持管理する側の仕事振りに負うところが大きい。
 さらには、育児、教育という次世代国民の育成という観点においても、この「家庭」は社会的にきわめて重大な役割を担任している。

 単純に人数計算、頭数のみをもって労働力という考え方は非常に原始的なものであって、組織というものがシステムとして考慮され、適宜の分担によっていっそう効率を高めているという今日の常識からすれば、単に社会の労働力の頭数から女性を皆して社会に出さねばならないというのは、会社において収入を得ているのは営業職のみであって、総務や人事、経理は無駄であると言うのと同じくらい乱暴だ。
 もちろん全員が営業をし、総務的、経理的仕事は皆でそれぞれ分担や当番制でやるということも可能であるが、それが結局効率を欠き、おそらくは営業成績をも低下させるだろうことは容易に想像される。

 子供の数のみならず、その教育ということ、心の問題ということでも、さんざんに「家庭」がクローズアップされているにもかかわらず、一方では、両親ともに社会で働かねばならぬような社会を標榜する。

 僕の考えでは、夫婦の二人の一方が社会で働くと働くまいと、そんなことは社会に何ほどの影響もない。ところが、その一方が「家庭」をしっかり維持運営し、社会で働く一方の好環境を物的にも精神的にも支え、次世代国民である子供を立派に養育するということは、何倍も社会に有益である。

 こうした観点から、僕は、国家としては夫婦の一方が家庭に残る選択をしやすいようにこそすべきであって、逆にそうした選択に何の得もない、あるいはむしろ損するような体制を目指すのは愚策以外の何ものでもないと思っている。

 繰り返すが、社会参加の方法の自由ということは、それを求める人にその道を開いておくべきであるということであって、そうした志向を問わず誰もが社会で働かざるを得ないようにすべきものではない。
 女性がパイロットになっても良いが、女性を全員パイロットにさせる必要はない。^^;)

 仕事に夢ややり甲斐をもって男女共同参画に期待を寄せている女性像ばかりに焦点が集まっているが、僕の周囲には、本当は夫を癒し、子供を教育して立派に家庭を運営していきたいにもかかわらず、経済的理由から外で仕事をせざるを得ないという女性だってたっくさんいる。

 ちなみに、かつてやはり税制調査会が配偶者特別控除の割り増し部分廃止について(廃止された)提言した折、僕の以前の職で同期の女性は、配偶者控除なんてなくすべきだと、かなり感情的に主張し、専業主婦を相当に口汚く罵っていた。理由は、働いている女性のほうが損だから、と。
 まあ、人間が大衆となる醜い瞬間を図らずも見てしまったわけだが ^^;)、格別仕事に何らの思い入れもなかった彼女は実際には得だから働いていた。共稼ぎは年収にすると相当に余裕が出る。
 しかし有り体に言えば、僕としては専業主婦(主夫)が家庭にとって得であるようにしたい。それが助成ということだ。(得な面があるということであって、共稼ぎ以上に絶対額で保証するという意味ではもちろんない)

 これは経済的「豊かさ」ということとも関わるもので、僕は、社会の平均的には夫婦の一方が働けば家庭にとって十二分な収入が得られるという社会を考えている。そこでの共稼ぎは、収入のためではなく、夢なりなんなりのためだ。

 かつて森前首相が、子供をたくさん産んだ女性には国家が褒賞してお礼を言うくらいでなければならないということを言って不当な非難を浴びていたが、それと同様、男であれ女であれ、家庭を立派に運営することは、外で働いて賃金を得てくるのと同様(役割分担に過ぎないという意味で)、あるいはそれ以上に価値あることだ(子供を育成するという意味を加えて)。

 僕は、この論題においては、夫婦の家庭における役割分担を固定していないし、そうした前提で、社会における労働と家庭における労働の分担を後押しするような政策を主張しているが、僕個人の家庭においては、やはり妻に家庭をまかせるだろう。いくら難しい話や思想を並べ立てようとも、子供を産むのは女性のみ、乳飲み子の養育に父親より女性が望ましいのも当然のことと考えているから。そういう僕は、それに賛同する女性を妻に選べばよいだけの話。
 先祖先人にはそのように考える者が多かっただけのことであり、彼ら彼女らがことさら男女差別的であったということでは(特に日本の場合は)あるまい。

 こうした観点で、税制調査会が、配偶者控除廃止には、一定額を無条件に控除する基礎控除の拡充で代替という考えには疑問を禁じ得ない。仮に配偶者控除廃止をともかくとしても、全員無条件の基礎控除が、配偶者控除の(真に)果たしてきた役割を代替し得ることなどあり得ない。


 まずは目指すべき国家像、社会像のグランドデザインがなされるべきだ。少なくとも、一時の政権レベルであっても、自政権なりのそのようなイメージを明確に持っておかねばならない。

 そして僕個人のグランドデザインによれば ^^;)、
 税制における配偶者控除に限らず、国家は「家庭」を後押しする政策をとるべきと考えている。(もちろん自由に働き、社会に参画する自由は誰にも保証した上でだが)

 もっとも、僕は従来の「家庭」よりも少し拡大した新しい「家庭」法人のようなものを構想しているが、それについてはまた別の機会に。


posted by Shu UETA at 02:04| Comment(4) | TrackBack(0) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今更言うまでもないのですが、同意。

> 妻という個人についての「優遇」をすることの是非ということではなく、「夫婦」あるいは「家庭」という「組織」「システム」に対する優遇の是非

なるほど。と、思ったのですが(^^;この論だと、配偶者控除は共稼ぎ家庭にも適用すべき、適用できないのなら、一方だけの優遇はダメ、となりそうです。

一方が家庭、あるいは地域社会にいることによる役割とその価値を明確にし、それをコモンセンスにしないと、反対論者からはなかなか理解が得られないような気がします。ただ、この役割が経済価値(金額)に置き換えうるものではないというところが辛いところです。例えば拙ブログの最近の記事「しつけ」で日本人学校の話を書きましたが、あのようなことは、平時勤労している人にはなかなかできない(全くできないわけではない)わけで、家庭に残っている人(地域社会、集団含む)に負うところが大きいのですが、近視眼的にみればなんら経済価値を生み出していないわけです。

また、以前の記事にコメントとしてつけさせてもらいましたが、専業主婦(夫)が地域伝統文化の担い手である、ということも、やはり金銭には置き換えられないのです。

不公平感を感じている人にとっては、ここが一番問題になるかと。
幸福の追求=経済価値の追求のような昨今の風潮ではしょうがないかなという気もしますが、この価値観を変えていかないと、なかなか解決できないような気がします。

> 「家庭」法人

面白そうですね。発表されるのを待ってます(^^
Posted by toybox at 2005年06月13日 15:24
> toyboxさん

 実は、地域社会との関わりということについても盛り込みかけていたんですよ、以前toyboxさんからヒントをもらって以来考えていたので。ですが、書いているうちに拡散してきて、今回は削除して見送りました。自分自身まだうまく考えがまとまっていなかったので ^^;)。引き続きいろいろ調べたり考たりしてみたいと思います。

 労働を金銭に置き換えるというのは難しいですね。

 僕などは、組織の追求目的が金銭的利潤ではない組織で働いていたため、どうもそのへんの感覚がただでさえピンとこない面がありますが、そんな金銭的評価が果たして必要かなあ…とも思います。
 やはりそうした僕の職場においても、組織の主目的に直接関わる仕事と、それを支える仕事があって(槍の穂先と槍の柄なんて言われますが)、例えるならば家庭の主婦(主夫)にあたる仕事もしっかりありましたが、金銭的評価のような数値的貢献度をはかる目安などなくとも、それぞれの仕事の意義ということは十分認識され尊重されていたものです。

 とはいえ、利潤目的であれ会社組織も同様ではないかとも思います。
 僕はしばしば例えますけれど、総務人事の仕事などを会社において金銭的に評価する手法はどうなっているのでしょう。もしそうした手法があれば、それを家庭にも応用できそうですし、ないならば・・・やはり会社と同じだと言うしかないですね。^^;)

 サッカーのアシストや野球のホールドのようなものだと思うのですが。ゴールや点に結びつかなくとも。
 野球も昔は中継ぎ投手を評価したり名誉を与える基準がありませんでしたが、今日ではそうしたものがしっかりと評価されるようになりましたね。
Posted by Shu at 2005年06月13日 17:15
> 総務人事の仕事などを会社において金銭的に評価する手法

前の職場でしたが、報酬を成果主義にしようとしたときに、ここで喧喧諤諤でした。結局答は出なくて、評価テーブルを別に作って解決したのでした。もっとおおまかに、単純頭割して一人当の労働に対する金銭価値を算出することは可能ですけれども、公務員のような場合や、利潤を目的としていないような組織の場合は難しいですね、たしかに。

> それぞれの仕事の意義ということは十分認識され尊重されていた
...
> 野球も昔は中継ぎ投手を評価したり名誉を与える基準がありませんでしたが、今日ではそうしたものがしっかりと評価されるようになりましたね。

こういう考え方がごく当たり前のようになるのに期待したいです。

専業主婦への助成は、「経済的「豊かさ」ということとも関わるもの」とおっしゃられていますが、まさしくそうなんだろうなと思います。
経済的な豊かさは、気持ちの余裕につながりますしね。働いているから損だとか、専業主婦は得だとか、どちらも必要なのにそれではあまりにも悲しいですから。
Posted by toybox at 2005年06月14日 14:09
> toyboxさん

> あまりにも悲しいですから

 本っ当に同感です。
 どうも世の中ささくれ立っちゃって… ;;)

Posted by Shu at 2005年06月14日 21:10
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