2005年06月07日

(名将言行録) 無信不立

マガジン「名将言行録」44号関連記事

 マガジン44号では、上杉謙信が国内諸将から請われて越後の国主を引き受ける段のエピソードが紹介されていました。
 ぜひ主君にという声に対して、命令に従わないものがいれば到底指揮などとれないと言って断り、人々が誓詞を出して請うてはじめておもむろに応えたという話でした。
 (ちなみに、マガジンではまだ先になりますが、後に関東管領上杉家を嗣ぐに際しても、やはり再三の要望に固辞を重ねたうえでの応諾となります。)

 あるいは、「無信不立」(信無くんば立たず)という言葉を思い浮かべた人もいるかもしれません。
 最近では、小泉総理の引用で有名かもしれませんが、もとは論語の言葉であったかと思います。

 「信頼」(あるいは「信任」)ということは、指揮において、あるいは政治において、非常に重要な要素です。
 今日は、そのへんのことについて少しお話ししてみたいと思います。

 実のところ、今回の謙信のエピソードに似たような話は、ほかにもいろいろと目に耳にしたことがあるのではないでしょうか。あるいは小説で、あるいはドラマや映画で、あるいはコミックでも。それは実話であるかもしれませんし、フィクションにおいてかもしれません。

 描き方は二通りあるのではないでしょうか。

 ひとつは、当該人物が野望と遂げるに際して、手の届くところまで来たその地位に軽々と就くのではなく、ある種のフリーハンドを得るためにも、また野望を前面に押し出さないためにも、あえて人々の要請、懇願を取り付けるような形にもっていくようなもの。

 もうひとつは、真に固辞する人物を、周囲が何としてもと請い願ったあげく、人々の声に押される形で当該人物がそれに応えるというもの。

 前者のような筆致においては、多分に怜悧な戦略判断ということができるでしょうし、後者においては、より人柄の高潔さが描かれることになるでしょう。

 実際、上杉謙信の心中がいかがであったかはわかりませんし、これは秀吉没後の家康についても、また時代時代の宰相等についてもその内心はわかりませんが、しかし一つ言えることは、意図的な作戦であるにせよないにせよ、こうした形で就任すれば、その指揮権限は強いものになるということです。

 これは、かの時代の国主であるとか天下人であるとか、あるいは今日において社長であるとか首相であるとかといったものでなくとも、さまざまな組織のさまざまな次元でのポストについても同様です。
 身近にイメージしやすいところでは、プロ野球等の監督就任についてもやはり同様でしょう。こういう言い方が適切かどうかはわかりませんが、ある意味「もったいをつけて」固辞するものを、強いて頼み込んで就任を願うということになれば、相当のフリーハンドを手にすることができるでしょう。

 さてしかし、今日のテーマは、そうした「怜悧な」(あるいは悪くいえば「打算的な」)処世術の話ではなく、むしろ、ではなぜそうなのか、といったことを考えてみたいと思います。

 作戦であれ恭謙であれ、そうして人々の声に押される形での就任が、その権限を強く保障し得るのはなぜでしょうか。
 それは、地位を自ら得たのでも、まして奪ったのでもなく、人々の依頼に応えて就いたのであって、すると、そうして請うた人々には自分たちが強いて願っただけの責任が生じるからでしょう。

 また少し言い換えれば、文字通りに人々の「信任」によって就任しているのであり、「信任」した側には信任した責任が生じます。

 いつの時代も、そして民主社会においてはいっそうのこと、人々は他人の責任を追及することが好きですが ^^;)、自分たちがぜひにと推した人物について、その施策等を他人事のように糾弾することはできません。かりに失策をおかしたとしても、「あなたでなくてはだめなのです」と言った自分たちには、ある種の責任の連帯があります。
 また、その人物の指示命令についても、率先して従う責任があります。

 こうした様子をまるで欠く就任においては、逆に、人々は虎視眈々とあら探しをし、失敗を責めようと待ちかまえているような状況にすら、極論すればなり得ます。(基本的に民主政体においてはこれが常態でしょう)
 彼の失敗には何ら自分の責任はなく、むしろ自分にとってのチャンスですらあり得ます。

 もし自分が人に(あるいは人々に)お願いしてまわっての就任であれば、逆に自分の方が、人々に対して頭はあがらず、さまざまな要求についてもそれらを無視することができず、実際的な権限は非常に縮小されたものになるでしょう。

 俗な話をすると、恋愛は惚れた方が負けだ、などということが言われますけれど、こうしたこともわりと何ほどか普遍的な真理を突いているかもしれませんね。^^;)

 最後に俗な話と断って話したとおり、ここまでのことは容易に納得できると思います。
 さて、今度は少し小難しい話を続けてみましょう。

 指揮権の淵源を少し考えてみます。
 上司としての指揮権、命令権です。あるいは国家においては統治権ということにも関係します。

 指揮権であるとか統治権にとってまず必要なのは「正統性」ということです。
 会社や組織においては、しかるべき人事発令系統によって当該役職に任命されることが、その職における権限の正統性を保証します。
 国会議員が議員としての権限を得るのは、国の法体系に正しく則った選挙制度による選出によってであり、総理大臣についてはやはり法に定められた手続きに則って国会議員から選出されます。
 つまり、この正統性によって、会社の上司は部下に指示命令を与えるのであり、首相と閣僚は行政に任じるわけです。

 国家においては、政体の正統性ということがやはり前提です。例えば今日の日本における国会・政府・裁判所といった統治機構の正統性はどのように保証されているのか、おとなり中国では、中国共産党の統治権の正統性が何に依拠しているのか、こうしたことは実に重要な問題ですが、今日のテーマではないので深入りは避けましょう。

 ともあれ、
 あなたが人事発令によって部長になれば、もうあなたは部のメンバーに対して指揮をすることができますね。他に何か条件が必要でしょうか?そんなものはないはずです。
 つまり、指揮権の正統性さえあれば、指揮はとれるのです。
 しかし、正統性とは指揮権にとって必要条件ではあっても果たして必要十分条件でしょうか?あるいはそうであったとして、では指揮権といわず、指揮権の十全な運用にとって十分な条件でしょうか?

 旧軍の頃から軍では「指揮と統御(とうぎょ)」ということが言われます。これはむろん今日の自衛隊においても同様です。
 実は軍の指揮官にとって、指揮活動とは「指揮」と「統御」をもって必要十分とするのです。
 「指揮」については言葉の通りとして、「統御」とは何でしょう。

 踏み込めば非常に深い面もあるので、今日は簡単にざっくりお話ししますと、「統御」とは、乱暴覚悟でごく端的に言えば「人心をつかむこと」とでも言えます。

 そもそも指揮官は正当にに指揮権を与えられている時点で、命令を発し、部下をこれに従わせる「権限」を有しています。この指揮権に基づいて、目的を指示し、その実現のために命令を発して従わせること、これが「指揮」です。論理的には、ここにおいて指揮官の人柄人格であるとか能力などというものは一切問われません。
 軍隊でなく会社であっても、上司がいかに不愉快な人物であれ、だから命令に従わなくともよいということにはなりませんよね。

 しかしです、組織とは人間です。いま言ったように不愉快な人物の命令と、敬愛すべき人物の命令であれば、部下のやる気は当然異なってくるでしょう。まして軍隊という、部下を文字通り死地にも飛び込ませねばならないところで、命令を発する指揮官への信頼感というものがきわめて重要になってくるのは言うまでもありません。
 そうした信頼感を醸成するために、コミュニケーションであるとか身上や心情の把握、指揮官の人格そのものの陶冶(とうや)といったことに指揮官は心を砕き、そうしたことを「統御」というのです。

 「人心をつかむ」とは言いましたが、「統御」とは何も、優しくものわかりの良い指揮官像ばかりを理想とするわけではありません。そうしたアプローチはむろん正道のひとつではあるでしょうが、状況によっては、「威圧統御」と言われるような、「威」を前面に押し出して人心をまとめるということが適切である場合もあります。(優しいだけで恐くない上司と、恐い上司では、やはり部下の心理は異なってきますよね)

 「統御」の話はそれ自体いくらでも深く考察され得べきテーマですので、またの機会に譲るとして、
 さて、今日注意を喚起したいのは、そうした「統御」に属するような「信頼性」という要素についてです。

 さきに、指揮権とはその「正統性」のみをもって保証され得るだろうかと問いかけました。果たして必要十分条件だろうか、と。
 指揮権を支えるのは、当然の必要条件としての「正統性」のほかに、「信頼性」というものを加えて両輪とすべきではないかと僕は考えています。

 政治の話ではありますが、非常に示唆に富んだ文章がありますので、ここに引用してみましょう。

  一九九五年一月に突然関西地方をおそった阪神大震災は、地震の予知や対策を別としても、多くの課題を残した。そのもっとも重要なことのひとつは、首相のリーダーシップを含む危磯管理のあり方であった。(中略)

 この事態を前にして、村山首相は「なにぶん初めてなもので」と、実際、総理の座にはふさわしからぬ率直な感想をもらした。この一言で、この首相は、人のよさとバツの悪さの両方を表現したのだが、当然、そこには、もっと強力なリーダーシップを発揮すべきだという思いは存在したはずである。では、何が首相をして、陣頭指揮にたつことを躊躇させたのだろうか。

 むろん、法規、組織上の問題や、情報の遅れを指摘することはできるし、それに村山氏のパーソナリティを槍玉にあげることもできよう。しかし、根底にあるものは何かというと、首相という立場にある者と国民との間の信頼関係の問題であったと思われる。もし、村山首相に、自分が、国民の絶対的な信頼を得ているという自信なり確信なりがあれば、もう少しは積極的な活動ができたのかもしれない。しかし、彼には、その政権成立の経緯についてのある種の後ろめたさから、自らを十分に国民の信任をえた政権だとはみなせなかったのであり、また人のよさだけで国民の信頼を得られると考えるほどのお人よしでもなかった。
 (中略)

 地震をはなれて一般論として言えば、国家が、あるいはある地域が、一時的に、政治的に意思決定不能に陥り、行政的にも通常の手続きが不能になることは十分考えられる。こうした「アウト・オブ・コソトロール」状況こそが、本来の意味での非常事態なのであって、このマニュアルの存在しない状況においてこそ、人間関係や社会を組み立てているもっとも基本的な要因が現れてくると言わざるをえない。

 確かに「アウト・オブ・コントロール」状況では、首相なりの何らかのリーダーシップが必要である。そして救援活動その他の非常活動のために、自衛隊などの効果的な運営が行われなければならない。そのためには、それなりの立法措置と指揮・命令の効果的なシステムを作っておくことも不可欠である。しかし、それでもそうしたことがらが、非常事態下でスムースに運ぶためには、首相と国民の間に、あるいは自衛隊と国民の間に、一定の信頼関係がなければならないのである。

 「現代民主主義の病理」佐伯啓思著 より



 むろん、実際のところ村山首相(当時)の内心がどうであったかは佐伯氏の想像の域であって、分明ではありません。ただ単に無為無策であっただけかもしれませんし、あるいは、彼の側の思想的的立場の人の常として、そもそも権限だの権力を行使することに二の足を踏んでいただけかもしれません。
 そうであったとしても、あくまでこの話は例え話であって、やはり言わんとするところには一定の説得力を感じることができます。

 これは政治に限らず、およそ組織における指揮においても同様ではないでしょうか。
 学校の部活の主将であれ、会社の課長であれ社長であれ、自治会の会長であれ、当然特定の指揮や判断を行う権限は保有していても、部下あるいはメンバーとの間の信頼感というものの強弱によって、その権限の行使の程度は異なってくるでしょうし、また、成員がそれに服する程度や、摩擦感も大いに異なってくるでしょう。

 ここまで書いてきたようなことを踏まえながら、僕は次のようなことを考えます。

 まず個人として、指揮する側の立場においては、「オレがオレが」ではなく、自分が求められる「時」を待ちながら爪を研ぎ牙を磨いて自己研鑽していたいものと、「天命を待つ」という心境を持したいものと、あるいは敢えて自ら立つにおいても、人々の信任ということを無視してはなるまいと思います。
 そしていったん指揮する立場に立てば、信頼の絆、統御的側面も軽視してはなるまいと。

 また、組織であれ社会であれ、その成員としての個人としては、徒に権威を論い軽視する態度は慎みたいものと思います。権威を崇め奉る必要はないとしても、たとえば社会において今日一般的であるような、過度の反権威、権威軽視の風潮は、結果的に指導者と成員の間の信頼関係を損ない、指導者の権限行使を掣肘し(さきの村山首相の例のように)、社会や組織にとって大きな損失をもたらします。
 一般の組織の話ではなく政治においては、権威主義や国家主義を恐れるあまりということもあるでしょうが、そうしたものを防ぐのは幼稚な反権威主義ではなく、自由主義思想であるべきです。
 (なお、先に引用した書において佐伯氏は、戦後民主主義は「ひとつの社会の信頼関係を徐々に、無自覚に、しかしずたずたに引き裂いてきた」「政治的権威(政治的リーダーや政府)に対する信頼を掘り崩していった」と指摘しています。興味のある方は一読を。)

 システムとしては、「信任」と「一任」ということを、より織り込んだシステムを研究してみたいと思っています。

 組織において、業務、任務の請負的な、組織内契約的な任用ということを(今日も既にある程度行われていますが)拡大する考え方です。
 たとえば、上司は任務を付与するにあたり、適切と思われる人材に任務と各種条件を提示します。さらに部下は、条件等についてその上司と交渉し、実行可能というところで任務を受けます。こうして信任の上は、一定条件下において任務は彼に一任され、当然責任も生じます。

 ちなみに、意外の感をもつ方も多いでしょうが、近代軍隊でありながら米軍では伝統的にこうした人事システムが(特に戦時において)顕著にみられます。
 あるいは武家社会においては、こうした主従間の請負契約的任務付与が一般的に行われていました。

 一方政治システムにおいては、民主政治とは言え、今日のような大規模かつ非常に高度に複雑化、専門化した社会において政治が適切に機能するためには、政治はどこかで国民の手を離れ、代表者(政治家)や官僚に委ねられざるを得ないものですが、そこで民主政において最重要であるのは、誰を信任すべきであるかということと、信任したならばその信任期間においては一任するということではないでしょうか。

 組織において組織管理のポイントが人事、適材適所にあるように、国家において国民が行うべきは、複雑かつ専門的な一々について判断や行動を掣肘することよりも、誰を信任するかということに尽きるでしょう。これは経営においてもどのような組織管理においても同様ではないでしょうか。経営組織においても、地位が上がれば上がるほど、上司の任務は部下の仕事の一々に干渉することよりも、「誰にさせるか」の判断こそが重要ですね。

 また社会意識としては、個人面でのこととして前述したように、権威を軽んじ、あるいは敵視するような風潮を払拭し、自分たちが慎重に選んだ人物もしくは組織に対して、それを選び信任した自らの名において、むしろ積極的に権威を与えるべきだと思います。
 信任に足るものを見極める目を養い、見極めたなら、必要な権威を与えて、信任期間において一任することが大切ではないでしょうか。

 長々と書いてきましたが、皆さんも再度、上杉謙信の今回のエピソードから、あるいは「信なくば立たず」という言葉、そして「信任」ということについて、あらためてさまざまに考えてみるうえでの触媒にでもなれば幸いです。

 cover
 「現代民主主義の病理 〜戦後日本をどう見るか」


 次回「名将言行録」45号は、引き続き上杉謙信、かの武田信玄との初対決です。
 お楽しみに

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posted by Shu UETA at 20:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「指揮と統御」あるいは「権限と信任」、
非常に勉強になりました。

読んでいて、カタチもナカミも両方あってはじめて
ギアが噛み合うようにフルに機能するのだと思いました。
そして、それは命令系統に限らず、
様々な分野でいえることなのだと。

すばらしい記事をありがとうございます。
Posted by jk at 2005年06月08日 15:11
> jkさん

 いえいえ、過分な言葉にはかえって恥じ入りますが、しかし共感していただけたなら嬉しいです。

 「カタチとナカミ」との表現は、僕のほうで、なるほどと膝を打ちました。^^)

 お互い、さまざまに人間を磨き立てていきたいですね。^^)v
Posted by Shu at 2005年06月10日 00:08
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