2005年06月01日

社会の幼稚化


 今日近所のスーパーで買い物していると、ちょうどヨーグルトをどれにしようかと(量か味か ^^;) 迷っていたところに、8チャン(関テレ=関西テレビ:フジ系)のレポーターの取材を受けた。
 たまの買い出しで、二つのカゴにたいそうな量を入れていたのだが、時間帯からするときっと専業主夫と思われてそうだ。^^;)

 仕事絡みでなく一般消費者としてテレビカメラに写るのは初めてだが…意に添った回答をしたとも思えないので、オンエアにはならない気がする。

 さて、質問の趣旨とは、
 食品で「開封後はお早めに」と書いてあるものについて、「お早め」とはどのくらいと考えていますか?
 さらに、「ちゃんと日付などを明記してほしいと思いませんか?」といったもの。
 ちなみに後者については、「思いませんね」が僕の回答 ^^;)

 質問と違って僕の趣旨としては、
 そんなものは常識的に個々に判断すべき問題であって、これ以上消費者を幼稚化するのはやめて欲しい、ってこと。
 戦後日本の社会は万事そうだが、とりわけここ20年ほどその傾向は凄まじい。

 レポーターが最初に訊いてきたのは、前述したとおり、賞味期限は書いてあるけど、「開封後はお早めに」という「お早め」とはどのくらいだと考えていますか、ということ。
 皆さんも今ためしに考えてもらえばわかると思うけど、それについては、
 「いや、それはものによって違いますね」
 としか答えようがないと思う。

 レポーターが手にペットボトルのお茶といちごジャムを持っていたので、それを指して、たとえばということでそれぞれについて話し、それでも例えば瓶の鮭フレークや搾菜(ざあさい:正確には「搾」の「てへん」を「きへん」に)なんかはジャムなんかよりもっとシビアであるなどと話す。
 (だって そりゃそうでしょ?)

 続いて、
 「それはどのように判断していますか?」と。

 「まあそれは、常識的判断と、見た目、においや味、あるいはたまに痛い目に遭いつつ ^^)」

 「賞味期限はちゃんと書いてますけど、開封後についてもちゃんと明記してもらいたいと思いませんか?」

 「いや、その必要はないと思いますけどね。逆に書いてあったとしても、それは信用しませんね。結局自分で判定しますよ。まだいけるけどもうやめとこうとか、過ぎてるけどまだいける、とか。」

 ちょっと肩すかしを受けたような表情にも見えたけど、最後にカゴを指しつつ「すごい量ですね」と笑うので、「ええ、たまに来てドバっとね」と笑い返す。

 さて、でもそうでしょう?
 開封後については、本当にモノと状況により千差万別のはず。だから一言で何日なんて言えっこないし、
 あるいは製造者についても、開封後の保管状況がさまざまなのに、それについて期日明記なんて不可能に近いはず。
 たとえば、保管場所の温度湿度の差はもちろん、手や箸でどれほど触ったか、その際どれくらい空気に触れたかによっても全く状況は変わってくるのであって、それでもなお開封後の期日を明記しようとすれば、絶対安全と思えるような、相当にマージンをとったかなり短い日時を記さざるを得ない。明記すればそれは万一の場合製造者として責任をとらされ得るのだから。

 冷蔵庫の牛乳が少し経ってるなと思えばちょっと嗅いでみる、あるいは何気なくコップに入れても微妙に液感が違うようなときには、これはいけないなと、そうしたアナログな判断をせず、外側に書いてある、ましてや開封後の賞味期限でしか判断できないなんて、それは最早人間ではない…は言い過ぎとしても ^^;) 、少なくとも生活者たり得ないのでは。

 さまざまな食品について、どんなものはどれくらいでダメになるものか、ギリギリの線はどのへんか、ギリギリの際の見た目、においなどの特徴はあるのかないのか、ダメになってるのを食べた場合のダメージはどれほどか…などなど、そうしたことは子供の頃から大人になってくる間にアナログ情報を身につけていくものだし、そうした情報に全く触れずに大きくなった生活力に劣る子であっても、大きくなって一人暮らしでも始めればだんだんと身につけていくものだ。

 もっとも、日常一般的なものに比して格別特異な性質を持つようなものについては、なにほどかの注意書きを付す必要があることは否定しないけれども。

 何でもかんでもデジタルに「表記」を求め、自分では何の判断もせずにそれに従い、かつ万一の際には表記を楯に製造者の責任追求に血道を上げるような、そんな消費社会では、消費者はますます判断能力を喪失し、生活者というよりも幼児化してしまうだろう。

 そして僕はこうした危惧を、かれこれ20年近くも抱いている。
 それは食品のことではなくて、日本の社会全体のそうした消費者の幼稚化施策とでもいったものだ。
 しかしいずれも、良かれと思っての善い心根からはじまっているだけに、余計に始末し難いものがある。何事であれ、1か0か、右か左かの判断ということと、その程度、度合いということとの兼ね合いとは難しい問題だ。

 たとえば、タバコ。
 まだ未知の部分はあるにせよ(百害あっても一利がないとは言い切れない)、しかしさまざまな面で身体の健康に良くないということは、誰でも知っているだろう。
 ところがそのパッケージの五月蠅い様子といったら実に「すさまじ(興醒め、呆れる)」だ。

 健康に対する注意書きが二行ほど記されるようになったのは僕が大学の頃。
 いまでも覚えてるけど、それに初めて僕が気づいたのは、軽音の部室でベーアンに座って1本取りだしたとき。ははあ、ニュースで聞いてはいたけど、これがそれか…、と。
 箱の側面に、「あなたの健康を損なうおそれがありますので、吸い過ぎに注意しましょう」だったか、それっぽいことが。
 慣れるまではかなり目立ったけれど、まあ側面のことでもあり、すぐにそう気にもならなくなった。

 ところが今はさらにすごい。
 箱の表面の下部約1/3を使って、大いにデザイン上の負担を与えつつ、このように書いてある。

 「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります。(詳細については、厚生労働省のホーム・ページ www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/main.html をご参照ください。)」

 な、長い… ^^;)

 反対側にもある。
 「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります。疫学的な推計によると、たばこを吸う妊婦は、吸わない妊婦に比べ、低出生体重の危険性が約2倍、早産の危険性が約3倍高くなります。(詳細については、厚生労働省のホーム・ページ www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/main.html をご参照ください。)」

 いや、くれぐれも、僕は何もたばこの有害性を茶化そうというわけではない。
 ここに書いてあるのは至極もっともなこと、実にそのとおりなのだ。
 ではなく僕が論いたいのは、そうしたことをタバコの箱のひと箱ひと箱にこれほどのスペースを割いて書き記しているような、そんな社会のバカさ加減だ。まあ…バカなどというとむっとする人もいるかもしれないけれど、冷静に考えてみて、いかにも幼稚だと思わないだろうか。

 前述したとおり、タバコの有害性など誰でも知っている。そこで自らの健康、あるいは周囲の人々の健康のために喫煙をやめる人はいるに違いないが、その期待は、ひと箱ひと箱にこれほどの注意書きによらねばならないことだろうか(余談ながら、実効性で言えば箱の注意書きなど何ほどの効果もあるまいけれど)。それは製造者側あるいは行政側の満足感の問題、言い訳が立つという問題に過ぎないだろう(ちゃんと注意喚起していますよ、と)。

 妊婦であれば、タバコの害についてはもちろんのこと、他にもさまざまに、果ては猫が良くないことまで、いくらでも学ぶことはある。それは初めて妊娠したときの楽しみのひとつでもあるだろうけれど、それは消費活動と同じく、一人の生活者として情報を得、判断し、行動する「生活」だ。

 製造物責任法は約10年前だ。
 この時も僕は賛成すべき点よりも懸念のほうが大きかったけれども、この法律も、たしかにそれが必要な分野、製品もあるけれど、一方で、社会的には消費者を愚民化する傾向が強い。(これも、要不要の二者択一よりも、結局は程度の問題なのだが)

 施行以来、さまざまな製品に、実にバカバカしい注意書きがつくようになったのは周知のとおり。バカバカしいというのは、消費者をバカにしたような、本来であれば常識的な注意書きだ。
 PL法はやはり米国に倣ったようなものだが、一時期(ある程度は今も)これでかの弁護士国家の弁護士どもがボロ儲けのネタにしてきたとおり、注意書きにないことをして消費者が事故等に遭えば、製造者に責任を問い得るというところがポイントで、米国流はもちろん、今日の日本においても、「いかに責任を他者に帰するか」という社会風潮と一体になっている面も強い。
 だって、そんな注意書きなかったじゃないかっ!、と。

 以来、製品のマニュアルもぐっと注意書きが増えた。
 僕の携帯電話だと、たとえばマニュアルには「電子レンジに入れないでください」と書いてある。あるいは、周囲の安全を確認せずに使用すると転倒、交通事故の原因となります、とも。こんなことが常識であった時代はもう過去のものか。(そもそも、周囲の安全を確認せずに使用して事故の可能性がない道具なんてないと思うが ^^;)

 さきに書いたとおり、もちろん特殊な注意が必要な点について製造者がそれをわかりやすく消費者に注意喚起しておくことは必要であり、そうした点において製造者に一定の義務を課することは意義深いことではあるのだが、やはり程度の問題を操作しにくく、結局は実にバカバカしいことまで一律に規制対象となり、それを欠けば、いかに非常識な消費者の訴えにも責任を負わねばならないということになる。
 (話は違うが、人権擁護法案の危険性もそうしたところにある)

 ごく短い期間、僕は沖永良部島に赴任したことがあるが、あの島は、周囲の他の島と違って観光に力を入れていない。それは、百合を初めとした高級な花の栽培で豊かであるためであり、ずっと以前に沖縄周辺の島々が共同で観光キャンペーンを始めた際にも参加しなかったという。(石垣島や与論島、久米島などはもっと有名でしょ)
 実際に観光客はほとんどなく、当然ながら宿泊施設もほとんどない。

 島の北端の岬、断崖の景色は素晴らしい。初めて行ったときには実に感動したのだけれど、何が良いかといって、鬱陶しい柵だの看板だのが全くないのがまた良い。
 しかし本当の断崖絶壁であり、なかなか危ない場所ではあるのだ。これが観光地であれば、いやというほど柵だの安全注意書きの看板だので取り囲まれているところだろう。しかるに、島を訪ねる観光客が皆無に近いため、ただの田舎の一風景であり、そうした「整備」とは無縁であるようだ。

 (余談だが、沖永良部島はいい所。鹿児島から船で17時間というのがややキビシイが、鹿児島からなら飛行機も出てたはず。この北端の岬も良いし、もう少し南の灯台あたりから見る夕日なども絶景。史跡的には一つ、西郷隆盛の流刑地がある。歴史好きな人であれば、おそらくそれで沖永良部島を知っているだろう。他に、鍾乳洞もある。あとは、島の名物、黒糖酒が美味い。僕の気に入りは「昇龍」。)

 先日ワイドショーで見た子供の用水路事故でも、「危険、入るな」という看板がなかったということがヒステリックに叫ばれていた。

 海外から帰国すると、あらためて日本の駅のホームのやかましさを痛感するだろう。特に新幹線東京駅などはひどいものだが、危ないだの白線内側に下がれだのということが、大音量で散々連呼される。
 前述したように、根は善かれということであり、そうした注意喚起が悪いものであろうはずがないだけに、そのことをいちいち非難し難いという難しさがあるが、しかし、僕などの感覚ではある種異常な状態と思えることもある。ここは幼稚園ですか、と。

 そうした個々の注意が、たとえ子供相手のようなものであっても、あるいは東京駅の騒音のやかましさであっても、それ自体は構わない。そうではなくて、僕が問題意識を持っているのは、そうしたことがトータルに、日々徐々に徐々に、国民を幼稚化していくということ、生活能力、生存能力を失わせていくこと、そうしたことだ。
 近頃はマニュアル人間が増えて…などということも方々でしたり顔に言われるが、しかし、もっと大きな面でも、社会がまるごと、自己の判断と責任を回避するマニュアル化と他者非難の社会を生むように各種施策がなされている。

 こうした風潮は、今日においては最早国民性ともなってきているから、これらの問題を離れて目を政治に転じてみても、やはり、本来あるべき国家と社会の役割分担ということは境界がなくなり、何から何まで国家に法律で定めさせなければ気が済まない風が顕著だ。

 小さな政府ということは、何も経費上だけの問題ではない。本来の自由主義思想的な価値観においても、何から何まで行政に負わせようということは非常に危険な風潮だと思う。

 が、それはやはり国民意識がさせるものであり、そうした国民意識=社会意識に抑制を与え得るのは逆に立法のあり方でもある。
 そうした意味で、代議士や官僚にとって、民意の汲み取りと迎合・人気取りの峻別には個々に自覚を持って十分意を用いたいものだ。


posted by Shu UETA at 19:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「自分で責任を取らない」「自分で考えない」
その姿勢が国民を幼稚化しているのでしょうね。

大人になるには、まず自分の行いに自分自身で責任を持ち、かつそれを認識して選択を行うってことだと思います。

それには、やはりShuさんのおっしゃるように法制上の原因はあると思います。
規範が内を律する力は大きいものですし。

また、内からも、というか教育の話になるのですが、
ひとりひとりが自身の責任を自覚し、かつその重みを承知して決定を下し行動する、
という姿勢を家庭でも学校でも教えることができていないということも、大きな要因としてあると思います。
Posted by jk at 2005年06月06日 12:04
> jkさん

 この問題は漠然と問題意識は持っているのですが、ではどうするか、となると実に難しいですね。

 法制面では、だからといって規制をなくすと、それこそ規制すべきものをも漏らしかねませんし、

 結局社会意識的なことは教育に帰結する面が強いですよね。
 ますます具体的にこれという手がなく、個々の家庭や学校の自覚や取り組みに待つしかないというか…難しいですね。

 サッカーは国際的スポーツですが、FWなどを見ると特に感じがちなのが、どうも日本人は押しが弱いというかアクが強くないというか…日本人の国民性にはあまり合ってないのかもなんてことを僕はよく話しながら、しかし戦国時代の民衆などは逆に非常に向いてたかもしれないね、なんて言い合ったりしているのですが ^^;) 、
 なんかこう…一見脱線気味でもありますが、こうしたことも何か今回の話と近い部分もあるのでは、なんて考えます。
 こう…生活者として、あるいは生命としての弱さであるとか甘さであるとか…うまく言えませんが。

 そのうち、もう少し考えがまとまったら何か書いてみたいです。
Posted by Shu at 2005年06月06日 12:32
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