2005年05月30日

JR西事故と社会意識風潮


 JR西の事故については概ねの情報も出そろい、世間の関心度合いも(良くも悪くも)落ち着きを取り戻してきつつあるが、これまでの長期間にわたる報道を見ても、事故本質に関わる部分での「運転士の適性」ということについてまるで触れられることがないことに、非常に危機感を感じている。

 もちろん、線路設計と敷設における安全上の問題等も事故原因の一部を構成することは間違いないが、しかし本来であればそうした安全施策は一定の安全マージンをとったセーフティネット的なものであって、危機管理的な意味での手抜かりに属することであり、事故の本質そのものではない。
 (むろん、そうした安全施策は必要)

 一般の論調としては、かの運転士は「極限の精神状態」なる状態にあったために事故を起こした、そうした精神状態に追いやったのはJR西日本の過密スケジュールと日勤教育等の締め付けであった、というものだ。

 こうしたものが要因でないとは言わないが、しかし本質ではないだろう。
 事故当時に情報分明ならぬまま書いた記事ではあったが、高度に安全に関わる業務と資質判断で指摘したような、「資質判断」への着目ということがなされないのは、あれほどの大事故でありながら、もっとも重要な教訓を見逃すことになる。

 しかも特に危険視されるべきであるのは、そうした雰囲気が、JRの労組によってつくられているように見えることだ。
 前述した「一般の論調」を見れば、これはそのまま労組の主張にほかならない。
 前述の記事を書いた際にも、早速TVで労組が会見をセットし、とくとくと主張を傾けていた。その当時の僕は、このような会社の存立に関わる大事故に際し、全社が力を併せて乗り越えて行かねばならない時に、早速にも会社攻撃に出るその醜悪さを憎んだものだが、ことはより看過し難い深いものだったと思う。

 前回の記事でも述べたことだが、どのような仕事であれある種の緊張感が求められるのは当然であり、まして高度に安全に関わる業務につくにあたっては、一般生活のレベルからみればはるかに極度の緊張が求められるのは当然である。
 以前も例に引いたが、輸送業というならば民間航空パイロットが耐えるプレッシャーであるとか緊張感に比べれば、かのJR西の日勤教育なるものになにほどのことがあろう。
 これは比較したくて言っているのではなく、つまり、プレッシャーが過度であったから事故を起こしてもやむを得なかったという考え方が危険極まりないということを言いたいのだ。
 厳しい緊張が強いられる航空機パイロットはそれに耐え得る適性と訓練を経た人間が毎日安全に運行している。鉄道についても同様、圧倒的多数の乗務員が毎日安全に車両を運行してきている。

 また、日勤教育というものが、運行上の失策に対する(仮に懲罰的であれ)処置である以上、それが何ら乗務員に精神的負荷を与えないものであってよいはずがない。気持ちの上で何ら苦にならない罰に何の意味があろう。それはどんな仕事であれ教育であれ同じではないか。

 もっとも、日勤教育なるものの、単なる愚弄やさらし者的内容ということは問題であるにせよ、それは事故とは別の意味での改めるべき問題だ。

 とはいえ、前回記事でも書いたとおり、僕が意図するところは高見という運転士の個人攻撃ではない。僕に航空機や電車が操縦できないからといって僕が劣った人間であるというわけでないのと同様、^^;)、彼が運転士に適性を持たなかったからといってそれは彼を貶めるものではない。誰にも適材適所ということがある。
 そうではなく、そうした事故に至るまで、彼に運転させ続けた点において会社の責があるはずだということを言いたい。
 にも関わらず、こうした責任については指摘の声をつとに聞かない。

 以前の例を再度引くと、航空機パイロットについては、その候補を免じるにあたっても、それは結局その候補者の命を救うことにもなるのだということがしばしば言われる。
 かの運転士とて同様であったはずだ。

 数日前にこうした記事を見た。
 オーバーラン 高見運転士「次やったら辞めます」(産経 5月25日)

 この報道によると、前回のオーバーランに伴う日勤教育の際に、「次回(ミスを)やったら乗務員をやめます」とする決意書を書かされていたとのことで、日勤教育で決意書を書かされ、実際に運転士を“クビ”になった人もいる、「高見運転士は、先輩運転士が資格を剥奪されたことや決意書を書いた一年前のことを思いだし、運転士を降ろされることを恐れて極限の精神状態にあったのでは」と記事をしめくくっている。

 多数の人々の安全にかかわらないような仕事であっても、こうしたことがそう非常識とは思えないが、それは既に上述してきたので措くとしても、僕が特に唖然とさせられたのは、運転士から外すにあたって、そのような念書を取るという態勢についてだ。

 運転士に任じる、免じるということは、褒賞や罰なのではなく、業務上の(それこそ安全に関わる)判断であるべきだ。それは安全その他の観点から会社が主体的に判断し執行すべきことであって、学校の反省文さながらに念書などを取るだの取らないだのいうものではない。
 僕以外にも、およそ安全に関わるような仕事に携わる人であれば、こうした異常さにはびっくりした人も多いのではないか。

 さらに報道には、こうしたことも書いてある。
 「運転士から別の部署に異動させられた場合は、さらに収入額が落ちる」

 世の常識ある人はこれをどうとらえるだろうか。
 職種に応じて給与に差があるのは当然だ。そして高給与の配置につくこととはずされることが、差別といった次元の問題でないのも常識だ。こうしたことは、どのような仕事においても多かれ少なかれあるだろう。
 パイロットばかり例に引いたが、たとえば客室乗務員だって、その希望がかなわずに地上勤務についている人はたくさんいる。当然給与は低くなるが、それは適性という観点からみた会社の業務判断であって、差別等といった次元の話ではない。
 これが理解できないような大人はおそらくいないだろう。

 こうしたことが適性に管理されていないことこそが、今回の事故の数ある要因の中でも最も本質的な問題だろう。

 ところが、JRにおいては、こうしたことを容易には許さない力が働いていた(いる)ふしがある。
 それが労働組合だ。
 給与が下がる以上、運転士の「クビ」はイヤだ、しかしミスをおかしても厳しい教育などもイヤだ、いや、そんな厳しい教育などするからプレッシャーになって余計にミスをするのだ、この主張はそのまま、冒頭にも紹介した一般論調と同じになる。
 「かの運転士は「極限の精神状態」なる状態にあったために事故を起こした、そうした精神状態に追いやったのはJR西日本の過密スケジュールと日勤教育等の締め付けであった」、と。

 労組が、「よりラクに」「より高い賃金を」ということを目的とするのは、組織の目的からして当然だが、しかし、それは安全管理とも事故分析とも本来別の話だ。

 こうした「適性判断」と「任免」ということについての問題を指摘するマスコミも識者の声もないということを先に嘆いたが、実はたまたま次のようなメルマガ記事を読み、同種の指摘をするものを僕以外に初めて見た。^^)
 国際派日本人の情報ファイルNo.984 週刊誌が報じたJR分裂労組の政治的プロパガンダ

 上記記事では、「日本のマスコミはレベルが低い」と嘆きつつ、「マスコミが「セイロー」のプロパガンダに乗り、あたかも事故の原因が日勤教育にあるかのような報道が行われている。しかも、該当運転手の適性と管理システム問題にしたマスコミは皆無だった。」「このことがわからない薄っぺらなマスコミをもつ日本国民は不幸である。」と述べられている。

 が、しかし、問題はマスコミだけの話ではないようにも思える。誰しも自分で考え得るのであって、皆がマスコミの言うままになるはずもないのだから。
 日本の今日の社会意識自体が、こうした論調に親しみやすい状況にあるのではないだろうか。
 職務や責任における厳しさを個人のレベルで否定し、悪い者は個人ではなく会社であり、社会であり、政治でありとするような雰囲気が。
 個人は悪くなかった、ミスをするのは人間として当然、それでも頑張っていた。それを追いつめたのは会社だ、と。

 誤解を避けるために再度強調しておくと、こう言っても僕は個人を責めるべきと言っているのではない。
 事故防止という観点において、結論が個人に帰されて済むことはあり得ない。
 会社の責任は明白だが、しかし、その焦点がズレいているのではないか、ということを言いたい。

 個人レベルでの努力や責任ということに甘く、世間や社会に責任を帰することが多く、甘さより厳しさを責める、そういう風潮が、だんだんと危険レベルに近づいていはしないだろうか。一種の幼児病だ。
 そうした延長上において、今回であっても、運転士の適性管理というところを避けて通っているのではないか。

 今回の事故でも、すぐさま方々で言われたのが、日本の鉄道は時間に正確を期すのが過剰、外国の鉄道ではもっとのんびりとしていて電車は時刻通りになど来ない。日本社会には余裕がない、云々。
 なるほど今回の事故に関せば、過密ダイヤが事故要因の一端を占めている可能性を否定はしないけれども、このように一般論としてダイヤ時刻の正確性を揶揄し、不正確を「余裕」として褒めるような論は、どこかが(ダイヤではないが ^^;) 狂った論ではないか。

 今回の事故についても、その原因を運転士が受ける業務上のプレッシャーに求め、だからプレッシャーを緩和しなければならないと、具体的には、たとえ運行ミスをしても日勤教育のような運転士が精神的苦痛を受けるものはダメだ、といった論調で解決されるようなことが今後もまかり通っていくならば、それは日本の社会全体の質の低下をますます助長していくだろう。

 もちろんバランスということはあるのであって、個人が受けるプレッシャーにも程度というものがあるが、しかし世の職業人の方々にとって、自分の仕事と比べてみたときに、かの運転士が受けるプレッシャーというものが果たしてそこまで苛酷なものだと思うだろうか?およそ仕事において当然要求される範囲の話ではないだろうか?それを「苛酷」として闇雲に攻撃するような社会とは、いったいどうなってしまうのだろうか?

 また、適材適所という大原則の管理を指摘せず、教育等の厳しさや業務上のプレッシャーをのみ徒に緩和していくならば、いくら緩和しても今度はまたそれに馴れてしまい、同種の事故はまた起こり得る。それをも僕は怖れる。

 JRは労組を連れて航空会社のパイロット教育と管理などを見学に行ってみてはどうだろうか?


posted by Shu UETA at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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