石原氏は、今日の日本の根源にある「喪失」について、
「我々がいわばジャイロコンパスの指針として垂直に継承していくべき価値観、その以前にそれを支える垂直な情念の喪失」
ということを述べていた。
それを読んで思い起こすことがあった。
民族の歴史の垂直意識をとりわけ失っている日本だが、今日、国や民族を問わず、世は水平意識の時代であるように思う。
歴史時間的垂直意識も、組織における垂直意識も薄らぎ、むしろ、民族なり国家、あるいは家族としての垂直の時間軸よりも、国際的あるいは社会(他人)との水平意識が強まり、組織においても、かつてのようなトップダウン、ボトムアップといった上下系統よりは、フラットな組織、自立分散型組織への志向が潮流となっている。
しかしながら、いかなる組織も、また個人であっても、アイデンティティ、自己規定というもの無くして、実は変化に対応し、確固として存在していくことはできないと思う。これを失い、あるいは薄弱となっている状態が、「自己の喪失」であろう。
そして、この「自己」とは、歴史的時間的な垂直意識に他ならないのではないか。
中心がしっかりしているからこそ環境に多様に変化し順応していくことができる。
柔軟な人とは、実は確固たる信条をもっている人である。
柔軟な組織とは、実は確固たる理念、アイデンティティを持っている組織である。
ほとんど全ての分野において、水平型組織への移行の潮流は、きわめて妥当であり効果的である。また、政治体制においても、今後は従来以上にピラミッド型よりは水平型に移行していくだろう。
であればこそ、いま、あらためて、こうした「ぶれない軸」としての垂直意識を大切にしていくべきだと思う。
特に社会においては、「個」を追求した結果の「個」の喪失というパラドックスが起こっている。これは、水平面における自立した「個」と混同して、垂直軸における「個」の鎖をも断ち切ってしまったことによるのではないだろうか。
何年も以前に、「武道通信」の記事から書き抜いていたのだが、何号であったか、誰の筆によるものかわからなくなってしまっているが、ここに引用したい。
三代一人の追進
日本人は荒魂をもって外部に敵をつくらず、和魂ですべてと一心同体となることを楽しみにしていた。だから、鏡や玉が主要な宝である。
が、まれに外敵に対する場合、防御より攻撃を主とする。日本人は三代一人の追進に重きを置く。自己を忘れ、三代一人の表現者として追い進み、個人防衛のことはあまり考えない。そのために、荒魂の用具としても大刀、剣、矛、弓矢のような積極的追進を表すものを尊ぶ。
この三代一人という言葉にいたく惹かれて書き抜いていた。
以来、「三代一人」の意識を強く胸においている。
言葉としては「三代」と言っているが、そこには、さらに遡って悠久の祖先以来の縦糸が意識される。そしてそれは、個人から祖先への縦糸であると同時に、日本人としての歴史を一身に意識させる垂直軸でもある。
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