2005年05月17日

(名将言行録) 「同役」「月番」制度

マガジン「名将言行録」41号関連記事

 今週の「名将言行録」では、武田信玄の、部下を配置するにあたっての組み合わせ、釣合いという着意についてのエピソードがありました。
 諸将の性格等を考慮の上、互いに補い合えるような組み合わせで人事を考えるというものです。

 さて、そこでそのくだりの一部をここに再度引いてみましょう。

  あるいは、猿渡丹下という者と、某という者があったが、信玄はその両名を同役に任命して言った。
 某は剛直であり、丹下は柔和な者だ。両名相和してあたらせれば、水と火とでものを煮ることができるように、うまくいくに違いない、と。
 果たして信玄の目利きのとおり、両者は相和してうまく役目を全うしたということだ。


 ここで「同役」という言葉があります。
 この「同役」ということについて、少し別の話をしてみたいと思います。

 江戸期を舞台にした読み物や時代劇を多少なりとも好む人であれば、「同役」あるいは「相役」という言葉には馴染みがあるのではないでしょうか。

 江戸幕府の職制においては(そして各藩の職制においても)、一つの職務を複数名の交代制で遂行するということが広く一般的に行われていました。

 「同役」とは正にそのことであり、「相役」とは自分と同じ職位にある他方の相手を指す言葉です。

 江戸町奉行の北と南が、担当地域の差ではなく、奉行所の場所の差であって、月交代で全地域を交代に担当していたということはご存知の方も多いでしょう。
 また、時代小説等においても、「月番老中」という言葉を目にすることなどもあるでしょう。

 以前に書き抜いた資料の中に、そのあたりの事情を簡約したものがあるので、ここに引用しておきましょう。
 (鈴木浩三氏著「資本主義は江戸で生まれた」日本経済新聞社より)

 
 幕府の官僚組織に備わっていた権力分散の仕組みの一つが月番制度だった。これは、同一の職に二人以上の者が就任し一ヶ月交替で勤務する方式で、原則として一人が月番として任務に就き、他は非番とされたが、重要な事案は両者の合議で決した。幕府では寛永10年代に導入され、老中、若年寄のほか寺社、勘定、町奉行などにも適用された。

 上役・下役は同じ組織内の階級、同役とは相役(あいやく)ともいって、対応する月番の組織の同位の職務者を指す。したがって、同役とは組織ぐるみのライバルを意味した。

 この様子を町奉行の場合で説明してみよう。町奉行は北・南二名が一ヶ月交代で月番・非番を繰り返した。月番の町奉行は毎日登城し、帰邸後その月の新しい公事訴訟を受け付けた。非番の奉行所は門を閉じ、潜戸(くぐりど)だけを開いたが、月番の時に受け付けた訴訟の審理、犯罪捜査、そのほかの行政活動などは継続したし、奉行は評定所の審議にも出席しなければならないなど非番とはいっても多忙な日々をおくっていた。

 月番制度により権限が複数の同役に分散されるため、特定の人物に権限が集中する弊害を予防する作用があった。これが月番と結びついた同役制度だった。町奉行の場合、たとえば一方の町奉行が老中に書類を提出する際には、もう一人の町奉行の了承が予め必要だった。この協議は文書上だけでなく、月番の役宅で両者が頻繁に打ち合わせて整えられた。老中宛の書類の差出人は両町奉行の連名だった。つまり同役との調整と全員一致が必要だった訳で、権限行使にあたってのチェック機能がはたらくことになっていた。

 また二名のうち、より有能な奉行が月番の時に、町人たちは訴訟や事務を集中的に持ち込んだ。これは役所が市民から勤務評定を受けることに等しかった。こうなると、二名の町奉行は、競争で能率的かつ町人受けのする政策を展開するようにならざるを得なかった。



 江戸の組織制度にはなかなか独自の工夫が随所に見られますが、例えばこうした同役・月番制度というものも、あながち過去の悠長な制度として単に歴史的関心のみの対象とするのでなく、何らかのエッセンスを汲み取ることができる点もあるように思います。

 例えば、三人寄れば文殊の知恵ではないですが、衆議を尽くしてよりよい智恵をということは既に聖徳太子の十七条憲法から言われていますけれども、上司が部下に諮問するということと、制度的に同役同士で協議せざるを得ないということとでは、制度が保障する衆議の度合いに相当の差が出ることでしょう。

 また、不法行為についても、例え二人いようが二人で示し合えば同じだという声があろうとも、一人で万事執り行い得る場合に比べ、それが複数名になれば、しかも交代勤務において、そうした可能性が大いに抑制されることも事実でしょう。

 さらには、上記引用文中の例にある町奉行所のように町人の信任度バロメーターがないような職務においても、そもそも江戸の役人の出世競争というものはなかなかのものがあるのであって、示し合わせて悪事を働く動因よりは、むしろ相役よりも優れた行政遂行、施策提案を行おうという競争意欲の方が強く働いただろうとも思われます。
 一人であれば、まあそつなく無難にとなるところ、明らかに比較して勤務評定が行われやすい環境では、なかなかそうのんびりとしていられそうにもありません。

 ちなみに、共和制ローマの執政官(consul)は2名就任でしたね。

 もちろん、単純にこれをもって素晴らしい制度と言い、今日の官僚制度に当てはめようということではありませんが、しかし、発想のタネとしてさまざまなことを頭に入れておきたいものです。

 ご紹介まで。



 次号42号は、武田信玄の部最終回です。
 お楽しみに
 ■講読・解除は「名将言行録」HPより行えます。^^)


posted by Shu UETA at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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