2005年05月17日

(名将言行録) 調子の波を知る

マガジン「名将言行録」41号関連記事

 今週の「名将言行録」では、武田信玄の言葉として、武家においては家の運が尽きても、そのことに気づきさえすれば、政治のやり方などで何とか三代の間ほどは亡びずにやっていけるものだ、という話を紹介しました。
 また信玄は重ねて、目の不自由な者のほうが、山道で谷に落ちたりするという話を滅多に聞かないものだ、逆に、谷に落ちたといえば目の見える者ばかり、これは、目の不自由な者が「谷に落ちるかもしれない」と慎重であるのに対し、目の見える者は谷に落ちることなど考えもせず油断しているからだと、このように言います。

 これらの言葉は、一家や一国の興亡ということに限らず、より小さな戦いのレベルにおいても、個人の勝負、あるいは人生においても、非常に含蓄のある話だと思います。

 そのあたりのことについて、今日は少し考えてみましょう。

 さて、プロ野球の好きな人であれば、先発投手のこうした話をよく聞くのではないでしょうか。
 例えば、
 「今日は調子が悪かったんですけれど、一球一球低めに丁寧に投げることだけを考えました」という勝利投手の弁、
 そして
 「調子は良かったのですが、ボールが甘い所にいってしまいました。」という敗戦投手の弁。

 そればかりか、投手によっては、「調子が良い」ときのほうがよく負け、傍目にも調子が悪そうな時のほうがよく勝っているんじゃないかと思わせられる者すらいます。

 またあるいは、投手というものは、調子が悪いときに、悪いなりに何とかゲームをつくれるかどうかで、一流かそうでないか、エースかそうでないかの真価が現れるということも、非常によく言われることです。

 さて、こうした投手の「調子」というものは体調や気分その他に大いに左右されるものであって、冒頭に紹介した信玄のエピソードでいうような「運・不運」とは異なる問題です。
 しかしながら、信玄自身も、目の自由・不自由の例を出しているように、やはりこの両者にも何か似たところがあるとも思えます。

 そもそも「運・不運」というものは、仮にそうしたものがあると前提しても、それが何故、どのように生まれ、どのような作用をもっているのかということはよくわかりません。
 しかし、全く自身の外の問題としてある運不運だけではなく、多分に生物としての(自身認識しないような微妙な)体調の影響が一見運不運として表出するということもあり得るだけに、上記の投手の例はいっそう、あながち全く別の話とも言い切れないかもしれません。

 そこで、「エースというものは、調子が悪い日でも、悪いなりにゲームをつくれる者だ」ということと、信玄が言う、「家運が傾いているということに気づきさえすれば、政治のやり様などで三代ばかりは亡びずにやっていけるものだ」ということは、非常に似てくるようにも思えます。

 運不運ということは、定義自体も難しく、またそんなものの存在自体を否定する考えもむろんありますが、しかし、たとえば勝負事のような厳しい世界にいる人ほど、そうしたラッキーとアンラッキーが勝負において一定の位置を占めている実感を強く持っているのではないでしょうか。
 むろん、武田信玄自身も、今日の我々では想像もつかないような、油断ならない時代を生き抜いてきた人物です。
 勝負において、敗北を不運のせいにせず、勝利には幸運による勝利があると考える心がけは、あくまでも心がけとして望ましいものであって、現実には相当に客観的に見ても「幸運による勝利」と思えることは往々にして見受けられます。

 スポーツにおいて、特に試合数の多さからわかりやすいのはやはりプロ野球でしょうけれども、連勝や連敗という状況を見ると、例えばかなりの連勝中のチームというものは、何をしても決まるという雰囲気が横溢しています。打てばつまった当たりが野手の頭を越え、バントをすれば野選でオールセーフ、敵の牽制は悪送球…と。
 この同じチームが、連敗を始めると、全く逆の状況が観察されます。打てば、良い当たりも野手正面、打たれれば打ち取った当たりがポテンヒット、あるいは打球がベースに当たってイレギュラー、しまいに牽制悪送球はこちらがします…これがこの間まで破竹の連勝をしていた同じチームだろうか、という具合です。

 一定のルール、同一条件の中で戦っているスポーツの場、中でも連日試合を行っているこうしたプロ野球のような例では、こうした「流れ」の様子、その変化の様子が非常に観察しやすいものですが、しかし、我々自身の日々の生活や仕事においても、やはり何らかの不思議な周期のようなものは、誰しも感じているのではないでしょうか。

 その「流れ」や「周期」は、あるいは個人においてはバイオリズムに合致したものかもしれません、あるいは、自覚を伴わない微妙な体調の影響かもしれません、または現在の科学を越えた何らかの法則があるのかもしれません。
 それはわかりませんが、しかし、そうした理由や由来はわからずとも、自分自身を観察する目を持つことで、その流れそのものをある程度自ら感知することはできます。

 それらが大まかにでも感知できれば、そこで、信玄の言うように、そうした「流れ」の局面局面での身の振りようを意図的に工夫することができるのではないでしょうか。
 野球のエースの資格の例でも、調子が良いとき悪い時、それぞれの状態に合わせた投球のあり方、組み立てということがあるのではないでしょうか。むろん、これは野手の打席における考え方についても言えるでしょう。

 プロ野球では、優勝するチームは仮に大きい連勝をしなくても、大きな連敗というものをしないといわれます。
 さきの例のような連勝中においても、その後の方の期間では、かすかに、調子の変化というものが現れている場合が多いものです。
 その調子の変化に対してうまくやり方を修正、対応していくということが、その後の状態のカギを握っていきます。同じ調子でやっていれば、ともすると今度は連敗にまみれることともなりがちです。

 「下がり気味」の時にはどのように動く、どのように戦いを組み立てるか、ということ。
 さらには、「上り調子」の時、「ピークから下りに転じつつある時」、「下がり気味」でも、向きが下に向かっているときと、上りに転じている時、等々、それぞれの状態で、それに応じた処しかたを考えることができるかもしれません。

 また、プロ野球のペナントレースであるとか、あるいは「人生」といったような長丁場の舞台では、必ずしも「対処」を考えずとも、「下がっている」時には、「じっと我慢」という選択肢も出てくるかもしれません。
 勝海舟は、人生には上がり下がりというものがある、下がっているときには、じっとしゃがんでいれば、また上がる時が来るのだと言っています。

 もっとも、一個の戦闘であるとか、ビジネス、あるいはスポーツにおいてもより短期決戦が求められる場合については、やはり局面局面に応じた何らかの処し方を考える必要があるでしょうけれども。

 その「処し方」というものは、その対象に応じて千差万別、また個人差も千差万別、したがってそれぞれに研究工夫するしかないものですが、そうした着意を持つということを、まずは意識してみたいものと思います。

 そこで重要であるのは、まずその前提として、そうした「流れ」を自らキャッチすることです。
 かつてスポーツをやっていた人であれば、その折の感覚を思い出してみるのも手です。
 ある程度のスパンで自分のパフォーマンス、あるいは気分までを含めて眺めてみて、自分の調子の「流れ」を見る目を養うことです。
 ここで重要であるのは、そこに何らかの法則性、つまり周期性を無理に見出して、将来を予測するというアプローチではありません(まず、周期があるかどうかも不確かです)。
 それよりも、「今」がどういう状態かを知る目です。
 「今」がどういう流れの上にあるかを概ね感知することができれば、そこではじめて、その状態でベストの結果を求めるにはどのようにするべきかという工夫を当てはめることができるはずです。

 そのためには、まずは定点観測的に、自分のパフォーマンスを観察する習慣を持つことではないでしょうか。
 このあたりの「感覚」というものは、スポーツだとわかりやすい面があるので、かつてスポーツをやっていた人は、その感覚を思い出しつつ、今の仕事等に敷衍してみるといいかもしれませんが、そうでない人でも、そうして自分を眺める習慣をある程度持てば、だんだんに基準ができてくると思います。
 ちなみに僕自身の場合は、武術の稽古がある程度身体的な感覚の目安にもなっていて、あるいは睡眠の状態、寝入りや寝起きの具合もありますが、それとは別に、頭の回転具合というか、思考速度ということを非常にシビアに感じます。

 同時に、こうした「調子」とは別に、「運」ということについても、日常の細々したことから、なんとなくその流れを自覚することはできるように思います。

 自分の「調子」と「運」の流れ、これらをまずは感じてみることから始めてみてはいかがでしょうか。
 そもそも「占い」的なものは、こうしたところから始まったものではないかと思われますが、自分で自分の状態を感じるセンサーを研ぎ澄ますことこそ、大切なのではないかと思います。

 その上で、状態にあった戦い方、動き方というものを個々に工夫研究してみると良いのではないでしょうか。

 ここまでが、今日話してみたかったことです。


 さて、話は少し変わりますが、
 先述したように、自分の「調子」を感知する目を持つようになると、調子の上がり下がりという変化量の問題ではなく、その絶対量的な感覚を持つこともできるようになります。
 つまり、オーバーホールの必要性を感じることができるようになるということです。

 機械においては、一定時間の経過とともにそのパフォーマンスが低下し、大がかりな洗浄であるとか部品の交換等によって、再度パフォーマンスをもとに戻してやることが必要ですが、自分の「調子」を感知していけば、変位ではなく絶対値としての錆び付きを感じることがあります。

 この錆び付きを感じることができれば、それを感知しながら、あるタイミングで自らオーバーホール的なことを考えることができるでしょう。

 その方法は、錆び付きの種類によっても、個人の特性によっても全く千差万別ですが、ざっくり大きくは、リフレッシュ型と高負荷型の二種に大別できると思います。

 リフレッシュ型の手段とは、文字通り、休息リフレッシュを自分に与えることです。
 これは必ずしもトータルな休息でなくとも、それが必要と思われる特定の分野について個々に考えることもできるでしょう。例えば、仕事そのものを休んでのトータルなリフレッシュもあるでしょうし、個々の仕事の種類単位で考えて、ある特定の種類を休んでその面でのパフォーマンスを改善するということも。

 逆に、負荷型の手段とは、リフレッシュとは逆に、高めの負荷を与えることで、パフォーマンス性を再度高めるという手段です。
 個人的な話をすれば、先に僕は思考速度的なもの、いうなれば知的反射神経的なものを含めて、そうしたものを敏感に感じる方だと話しましたが、こうした方面では、そうした錆び付きがある程度重く感じられてきた時点で、1〜2日を限ってオーバーホールのための負荷を与えるということを行っています。
 常に同じではありませんが、たとえば、自分の限界速度ぎりぎりでの集中した本の速読であるとか、一つのテーマについての徹底的な思考などを行う場合が多いです。あるいは、数学の問題を一晩中解ける限り解くということもあります。^^;)
 武術を稽古しているので、居合の基本の型を半日ひたすら抜くということもあります。
 もっとも、これらはいずれも年に数度の程度ですが。
 もちろん、これは一例であって、個人個人でいろいろ試行錯誤のうえ、自分に合った効果的な方法を見つければよいと思います。

 このリフレッシュ型と負荷型は、僕の経験からすると、ある項目にはいずれか一方が良いということではなく、状況に応じて、いずれもが必要であるようなので、自らを感知する目とあわせて、状態状態で工夫してさまざまに試行錯誤してみてはどうかと思います。
 (僕自身、さきの例ではいかにもストイック派であるように見えますが、それは負荷型の例であって、逆に、1〜2日の間まったく何もせず、眠れる限り寝て、とことん無為に過ごす、ということもやっています。^^;) 状況次第です)

 こうした一連の着意は、一見面倒この上ないように思われるかもしれませんが、ところが意外に、自分のパフォーマンス性を客観視して、常時ベストを調整するというのは、実に楽しかったりするものです。^^)
 かつ、恐ろしいのは、オーバーホール時期を失すると、今度は良かった時期のことを忘れていき、パフォーマンスの低下自体が苦に感じられなくなってくることです。「重いな〜」ということを感じなくなれば、あとは低下の一途という怖さもあるので要注意です。

 こう書いてくると偉そうですが、僕自身、楽しみつつ、まだまだそうした試行錯誤の中にあります。したがって、これらは助言などというものでは到底なく、ちょっとした提案であり紹介に過ぎません。何かふと思うところでもあれば実に幸いです。^^)



 今週は、関連記事がもうひとつあります。
 こちら→(名将言行録) 「同役」「月番」制度

 次号42号は、武田信玄の部最終回です。
 お楽しみに

 ■講読・解除は「名将言行録」HPより行えます。^^)


posted by Shu UETA at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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