2004年07月26日

上司と部下の関係 ---よき緊張感を---

 今朝の産経朝刊で、連続企画「日露開戦から100年」の旅順港閉塞作戦立案のくだりを読み、上官と部下の関係について思うところがあった。
 湾口に沈めるべく丸腰の汽船で敵前に飛び込むという作戦に、東郷司令長官は乗り気でなかったという。
 「全員戦死というのは作戦ではない。死傷者を少なくして効果をあげるのが作戦である」
 全くそのとおりである。
 が、発案者有馬中佐は、引かない。
 「立案した者が隊長として死地に飛び込むならよろしいでしょう」
 と、押し切ったとある。
 (作戦指揮官だけではなく作戦参加者の生命の問題もある、ということはここでは措くが、しかし60名強の要員に対し2千名の志願があったという)

 本作戦の是非については、ひとまず措くが、私がふと思ったのは、上司と部下の関係ということについてである。 さまざまな場合において、その内容はともかくとして、上司に対し部下が自らの見解をここまで強く主張するということが、今日どれほど行われているだろうか、ということである。
 それは、上司の命令に従わないということではない。それ以前の段階において、である。上記の例についても、これはあくまで意見具申の段階であって、いざ司令長官が決心をしたならば、中佐がこれに従うのは軍人として当然であり、これに背くことはあり得ない。
 このような「主張する部下」は、日露のみではなく、後の大戦中においても戦史に多数認めることができる(その主張の妥当性、結果の成否は別として)。
 また、一般に上下の「封建的」関係がステレオタイプにイメージされる武家社会においても、実際には、上下の関係とはそのように上から下への一方的なものではなく、武士道においても、主君に対する意見具申、諫言は奉公者の務めであるとされ、諫死には戦場での討ち死にと同等もしくはそれ以上の価値が認められていた。かの葉隠聞書においても「曲者(くせもの)」たる部下の必要性が説かれている。
 むろん封建的ではないはずの今日、実はしかし、部下は上司に対してかつてないほどに弱くなっていないだろか。
 昨今続いて露見する企業倫理の欠如等にも、こうしたことが観察される。企業の不祥事は、決定者一人ではなく、その指示に従った幾多の部下があって引き起こされているのだから。
 仮に意見を述べたとしても、上司が否定すればすぐさま引っ込める。あるいは、上司の顔色、一挙手一投足からさまざまに上司の意図を忖度し、大した意味のないささいな一言にも振り回される。このような風潮は、さまざまなところで見かける。
 このような状況を引き起こす原因は何か。
 可能性として思いつくのは、
 1 上司による勤務評定権
 2 上司と部下の能力の隔絶
 3 部下の事なかれ主義
 4 部下の、組織全体に対する責任感欠如
 等であろうか。

 上司の意図に逆らうことによって蒙る勤務評価上の不利益は、組織力学上たしかに無視し得ないものだろう。それを超えるような責任感等を各個が発露させることは理想ではあるが組織デザイン上は些か無理がある。
 このような点において、一般に非難されることの多い「ハンモックナンバー」式の昇任システムにも、ふと一利を見出してしまう。このシステムにおいては、時の上司の機嫌を取り結ぶことができなかったとしても、自らの昇任はそれに左右されることは少ない。また、武家においては、自らの家格というものがある程度の保障となったはずだ。
 そうした意味で、将来にわたり組織の中核たることを期待する者たちについては、(これも非難されることの多い)ある程度のキャリア的昇任方式が有効なのではないだろかと近頃は思っている。
 (ただし、さきの大戦の反省としてよく言われるような、ハンモックナンバー式昇任システムの弊害は、むろんあるだろう。それは主として高級幹部となって以降の配置の際であり、私も現在思索中であるが、ひとつには、高級幹部には能力による抜擢を含めたまた別の人事理念を適用するような、二段階システムがよいのではないだろか。抜擢方式なども、低〜中位での実施はかえって組織の士気を下げると一般に言われているとおり、高級幹部とそれ以下で異なる人事理念を採用することは柔軟なやり方ではないだろうか。)

 しかしながら、現に上記のようなシステムをとっている官僚、またその他の企業等についても、必ずしも部下は強い自立心を保有していないことが多く見られる。そこで、2〜4の可能性である。

 2の上司と部下の能力の隔絶については、個人的素養の差はあるにせよ、一般的に上司は部下よりも経験豊富であり、職務に対して高い能力を保有している。そのことが明らかなため、部下は、上司の一言によってあっさり自らの意見を引っ込めてしまうかもしれない。
 ここでは、部下の気概が求められる。いずれにせよ、決心するのは上司であるのだから、自らの思うところを全力でぶつけた上で上司の判断に任せればよいのである。
 しかしこのような自信不足は、自らの勉強不足という自覚からも起こるだろう。自らの職務に対し平素から真剣に取り組み、学び、自分なりの自信を持たねばならない。
 上司としては、部下がこのような気概でもってぶつかってくることができるような環境、雰囲気を醸成する努力が必要かもしれない。それは部下を育てることであって、かつ、上司が卓越している能力についても、それは過去に築いてきたものであって、新しい発想、新しい知識は若い世代からもたらされることが多いのである。

 3にあげた部下の事なかれ主義、4の組織全体に対する責任感欠如というのは、難しい問題だ。
 いずれについても、上司及び組織上層部全体での、環境整備努力が必要だろう。
 事なかれ主義に対しては、多少の失敗に対する咎め立てよりも、果敢に挑戦した成功を重視する雰囲気を誰の目にも明らかとなるようにすること。まさに中日・阪神監督時代の星野氏が投手に、「攻めにいって打たれた分には叱らない」と申し渡していたように。
 自らの保身よりも、組織全体に対する責任感を涵養するには、ひとことでその方策を述べることはできないし、さまざまな工夫があるだろうが、個人的に思うには、一つには、組織の中核たる幹部候補者に対しては、やはり相応のプライドを持たせる必要があると思う。そのためには、ある程度の名誉を与え、組織と自己を同一視できるように育てることだろうと思う。かつてド・ゴールは「フランスとは私である」と豪語したが、彼の中で、まさに自分こそはフランスでありフランスとは自分であるという強烈な自負は強固な信念となっており、よもやフランスに不利益なことを為すことは考えられなかっただろう。また、武家社会においても例の葉隠では、「御家を一人で担い申す覚悟」を説いている。
 そのような意味で、軍隊等における将校と兵の、身分、待遇の厳格な区分は、兵を貶めているのではなく、将校を将校たらしめるために必要な組織学の知恵であろうと思う。(余談だが、私は、これを往時の男女の関係についても思う。)
 今日は、とかくエリート的なものが万事非難の対象となり、これをよってたかって引きずり下ろそうという風潮にあるが、しかし上記のような観点で、少し見直してみる必要があるかもしれない。結局は、全体にとって何がプラスになるかということなのだから。


 上司に対し過度に部下が弱いと、上下間に緊張感がない。緊張感がないところで人間の能力を向上させるのは難しい。部下は上司に挑み、上司はそれに応える、このような良き緊張感は、上司と部下の間にさえ切磋琢磨ということを可能ならしめるのではないだろうか。

 最後に、武家組織における個人の自立について述べた名著に、笠谷和比古氏の「士(サムライ)の思想」がある。副題は、日本型組織と個人の自立とある。私も数年読み返してきた書であり、たいへんお薦めである。組織における管理職の方々、組織デザインに関わる方にはぜひ一読をすすめたい。

 著者は序文において記している。
 「本書は日本型組織における成員の自立性について、その引照すべき思想像を『士の思想』という形で表現した。その思想は一言をもってするならば、剛直!これに他ならない。」


cover

「士(サムライ)の思想―日本型組織と個人の自立」


posted by Shu UETA at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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