2005年05月02日

(読書) 美しい数学


 新刊で「世にも美しい数学入門」を読んだ。
 タイトルには「入門」とあるが、数学の本ということでは全くなく、数学者の藤原正彦氏と、作家の小川洋子氏の対談本だ。

 ずっと以前に、その小川洋子氏の小説「博士の愛した数式」を読んで、いたく気に入っていたので、その小川さんが藤原さんと対談した本だということで興味を惹かれ、衝動買いして読んでしまった。^^;)

 特に「博士の愛した数式」は大好きな素晴らしい小説なので、それを含め、今日は何冊かの数学読み物を紹介してみようかと思う。

 「博士の愛した数式」

 主人公の「私」は、派遣家政婦で、10歳になる息子との二人暮らし。新しく派遣されることになったのは、とある屋敷の離れに住んでいる一人の老人、「博士」のもと。
 「博士」はケンブリッジで博士号をとったすぐれた数学者、数論専門の大学教授であったが、47歳のときに巻き込まれた交通事故で脳に損傷を受け、それ以来、80分間しか記憶を保つことができなくなってしまっていた。
 つまり、どれほど親しくなっても、 80分が経つと、博士にとってその人はまた初対面になってしまう。
 そんな「博士」と「私」そして息子の「ルート(博士がつけたあだ名、頭のてっぺんが平らだから)」の三人の心の交流を描く作品、数学の世界の美しさだけでなく、人間と人間の細やかな心の交流や、子供に対する大人の愛情などが描かれる感動作。
 まだ読んでいない人は、ぜひぜひ手にとって読んでみてほしい。お薦め。

  見てご覧。この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。
 神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて。


 ちなみに、この「博士の愛した数式」は、「博士」を寺尾聰、「私」深津絵里、小泉堯史監督で映画化、4月クランクイン、来年1月公開予定とのこと。博士が寺尾聰とは素晴らしい、公開が楽しみ。^^)

 


 この小説の作者である小川さんが、数学者の藤原正彦さん(お茶の水女子大学教授)と対談したのが、「世にも美しい数学入門」

 数学の美しさということをテーマに対談されている。
 非常に読みやすく楽しい本だけれど、強いていえば、あらかじめ数学の美的感覚にうなずける人でなければ、この対談での話でその美しさが「わかる」というのはちょっと難しいかもしれない。
 しかし、もし数学に興味がない、あるいはむしろキライだというひとでも、なんとなく面白そうという気分を育てることができるかもしれない。もっと他のものを読んでみようか、とか。特に偉大な数学者たちは皆、ドラマティックな人生を送っているので、そうした伝記を手に取りたくなるかもしれない。

 僕の尊敬する大好きな数学者、岡潔先生と同様、やはり藤原先生も、数学の発見には美的感受性、センスが絶対に必要だと言い、日本人が昔から数学に優れているのは、和歌や俳句の素養と無関係ではないということをこの対談で話している。

 意外に知られていないが、日本は天才的な数学者を昔も今も輩出している国だ。藤原さんなどは、もしノーベル賞に数学賞があったなら、日本人の受賞者は20人をくだるまいとまで言っている。
 過去においても、たとえば関孝和などは歴史に興味ある人なら多少耳にしたことがあるかもしれない、江戸時代の算学者だけれど、世界で最初に行列式を発見したのは彼だ。

 そしてこれは以前にこのblogでも書いたことがあるけれど(「歌、数学という豊かさ」)、江戸時代なんかには、庶民のレベルで趣味の数学ということがさかんに行われていた。俳句をひねるような感覚で、ごくごく一般の人々が数学の問題を考案したり出題し合ったりということを趣味にしていたものだ。

 この、歌と数学、というところがなかなか意味深で、そもそも数学と詩というものは兄弟のように似ている。世界の複雑の中にある「美」をいかにシンプルな形で切り出すか、という点において。

 ところが今日では、数学を趣味になんて普通考えられないような時代になっている。
 僕も趣味とせよとまでは言わないものの、こうした数学読み物に触れて、数学に興味を持つ人が増えれば楽しいのになと思う。

 僕自身は、(そういう区分が嫌いではあるけれど)あえて分ければ文系に属する人間だ。曲がりなりに法学部出身だし、身につけている教養の大部分は、社会、人文分野のものだ。しかし、数学は好き。もっとも、正確には受験科目として数学の問題を解くということはさほど好きではなかったけれど、数学の思考や、数学の発想が好きだし、それをさまざまな思索に適用するのも好きだ。そしてそれは時に非常に有益だったりする。

 そうした程度でも、楽しむこと、そして自分の思考力のパワーアップツールの一つとして、趣味的にでも数学をおもしろがるひとがもっと増えればよいのになと思う。

 一方で、古来からの数学好みの傾向が今の日本から失われつつあるのは、「美」ということへの志向と感性の低下ということとも関係があるのでは、という懸念もなんとなく抱いている。

  学生時代あれほど苦手だった数学が、芸術や自然と同じように人に感動を与えるものであることを知り、私は驚いた。そして偉大な数の世界の前で頭を垂れ、叡知の限りを尽くしてそこに潜む真理を掘り起こそうとする、数学者の健気な姿に感動を覚えた(小川氏)

 たとえばエンジニアリングだったら、飛行機を速く飛ばすのに役立つとか、人類に役立つとか、いわゆる有用性がありますよね。一方、数学というものは本来は無益なものです。私のやっているものなんか、五百年経てば人類の役に立つかもしれないですけど、いまはまったく役に立たない。そうすると、何によって価値判断するかというと、主に美しいかどうかなんですよね。したがって美的感受性を育てることが非常に重要なんです。(藤原氏)

 数学者の人は、実用にすぐ役立っているというのはむしろ…(小川氏)
 恥ずかしいことなんです(笑)。役立つというと格下になっちゃうんです。だから、ケンブリッジ大学でも、つい近年までは工学部というのはなかったんですよ。すぐに役立っちゃうから。そういうものは学問とは見なさないんですね。(略)だから、数学とか哲学とか文学が一番偉いんですね。(藤原氏)

 日曜日の朝なんかに、家族で話していると、庭の隅の向こうでツユクサに水玉が光っているわけですよ。そうすると、父がそれを見て、あの水玉が七色に光っているのは、水玉に太陽の光があたって屈折と反射を繰り返しているからなんだよって話をしてくれるんです。そのあとね、あの水玉を使って即興句を作ろうということになるんですね。
 だから、科学の勉強と情緒の勉強を両方一緒にしてもらったようにね。まあ、それにもかかわらず、僕は俳句下手ですけどね。父は一分に一句くらい、どんどん作るんですね。(藤原氏)

 日本の理系で一番強いのは数学なんです。私の考えでは、あらゆる学芸の中で、国際水準からみて日本がもっとも強いのは文学なんですね。それから何歩か遅れて数学なんです。数学のすごさは、物理や化学や生物などよりはるかに上です。江戸時代の和算の頃からそうです。鎖国の中で関孝和や弟子の建部賢弘など大天才が輩出しました。大正時代中期には高木貞治という天才が、類体論という壮大な理論を樹立して世界のトップに並んじゃった。
 なんで日本人が数学的にすごいかといいますと、美的感覚がすぐれているからなんです。二十数年前に亡くなられた、天才数学者の岡潔先生は、日本に俳句があるからだとおっしゃる。大自然をたった五七五でビシッと表現しつくすと。子供のころから、そういう五七五に慣れていて、たった十七文字からまわり全体、地球全体、宇宙全体を想像するようになっている。たとえば「荒海や佐渡に横たふ天の河」とかね。目の前の荒海を見て、向こうの佐渡を見て、そして天の川という宇宙までいっちゃうというようなイマジネーションを、子供のころから鍛えていると。岡先生は、このイマジネーションは数学における創造のオリジナリティーと同じだとおっしゃるんですね。(藤原氏)


 ちなみに藤原正彦氏のお父上とは、かの新田次郎氏だ。
 僕は新田次郎氏も大好きな作家であるので、どことなく藤原さんにも愛着を覚えてしまう。^^;)

 


 さて、さきに「数学者の伝記なども」という話をしたが、そうした系統に近いもので、ひとつお薦めは、数学における無限論の誕生と進展を描いた、「「無限」に魅入られた天才数学者たち」だ。

 なぜこれかというと、無限論とか集合論というものは、比較的、数字や計算よりも、論理学の面が強く、数学に多少のアレルギーを持つような人であっても、十分に数学の論理の一面を楽しめるという点でお薦めできるからだ。

  数学は無限をいかに手なずけたか
 数学者として「無限」を初めて直視し、その構造の探求に賭けたラディカルな天才の驚くべき業績とは?(帯より)

 本書は「無限」が数学の概念として認められるまでの波瀾を描いた本である。
 ゲオルグ・カントールは単独で無限に立ち向かい、数学の世界に激震を起こした数学者である。彼は、それまで神であった無限を数にした。そればかりか、無限はひとつではなく、「無限に」たくさんあると言い出したのだ。(訳者あとがきより)


 


 最後に、これは以前にもお薦めしたことがあるけれど、上記のような「読み物」ではなく、実際に数学を学びながら「読み物」的にも楽しめ、数学の美しさを体感できるようになっている良書が、「美しい数学」だ。数学発展過程のさまざまなエピソードを読みつつ問題を解きながら楽しめるようになっている。特に「趣味としての数学」を始めてみようかなというひとには最適かも。

 cover
 美しい数学―数学の本質と力
posted by Shu UETA at 10:12| Comment(4) | TrackBack(2) | 読書他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 日本語は、論理的な思考に非常に有利であるという説があります。本屋で背表紙をみただけですが(^^;そのうち立ち読みしてみるつもりです。

 明治維新において、日本が急激な近代化を行えたのも、武士や承認、また農民(富裕層)ですら日常から「国語」の勉強をしていたからで、その論理的な思考の素養があったからこそ、西欧の進んだ科学技術を急速にとりこみ発展させることができたのだと思います。

 僕は、逆に理系の人間も日本語や国語を勉強すると良いのではないかと思っています。まずは僕自身からですけど。
Posted by toybox at 2005年05月02日 10:54
> toyboxさん

 たしかに、国語力というのは底力ですよね…
 自分自身、最近つくづく感じます。空気のように感じ、国語力なんてまともに考えたこともなかったのですが、こうしたblog活動などを行っていると、あらためてそうしたことに目が向くようにもなりました。

 おっしゃる通り、考えてみれば、我が国の江戸時代、一般的に誰しもが国語をしっかり学んでいた、ということは社会的に相当な力となっていたでしょうね。

 ところで今日の風潮というと(もっとも学問的には学際的なことが言われ始めてはいますが)、一般的教養傾向の文系理系という別が過度ではないかと常々危惧しています。(これまでも記事に幾度か述べているので僕の趣旨はご承知でしょうけれど ^^)

 大人になって気づいても、理系の人が国語や歴史、哲学などを学ぶのはわりと容易であっても、文系の人が数学や理科的素養に手を伸ばすのは難しいようですね、一般的に。
 理系の国語アレルギーなんてことはまずないでしょうけれど、文系の人は、単に理数がダメだからという人も多ければ、数学アレルギーの人も多いですから ^^;)

 近年叫ばれる理系離れということも、それが能動的に人文、社会分野への興味の高まりからきているのならともかくも、感触としては、単なる怠惰の結果(言い過ぎかもしれませんが ^^;)のような面も感じられて、不安視しています。
Posted by Shu at 2005年05月02日 18:22
承認→商人
よりによって、国語の話をしていたのに自ら誤字とは…orz

 Shuさんもすでにご存知、研究されてきたこととは思いますが、一理系人間としての自分の経験から書かせてもらうと、理数系の学問は、基礎からの積み上げ(実は文系学問もそうだと思うのですが、気がつかないというか、実感できない。国語にしても歴史にしても、昨日は理解しにくかったけど今日の範囲は理解できるということは、よくあることだと思います)ですので、基礎でつまずけば、その後の応用ができなくなります。それが最初の壁になるのかなと思います。

 ただ、途中が抜けても、ある程度は応用できる(正解を導き出せる)ということに気がつくと、理数系学問の修得も面白くなってきます。中学生・高校生レベルの「数式を扱うようなたぐいのもの」に関していえば、本当に数えるほどの公理・定理を覚えておけば、教科書にでてくる公式はすべて導き出せるのです。僕も当時は教科書や参考書に掲載されている公式の2,3割しか覚えてなかったと思います。

 これができるようになると、問題をみたときに最終形のイメージがぼやーん(あくまでも、ぼやーっとです)と見えてくる。あとはピースをくみ上げていくだけです。ジグソーパズルと同じですね。これはちょっと乱暴な説明&はしょりすぎな説明なのですが、すくなくとも義務教育+高校+大学での初等理系学問ぐらいまでは、これでいけます。これ以上いくのは、別の能力が必要になるのですが、それは今回はちょっと置いておいて(^^;

 残念ながら、現状の教育では単に公式の暗記と、問題を類型化し、公式をどのようにあてはめれば正解になるか、ということに重きを置きますので、学問として面白いところがすっぽり抜けてるわけです。そういことは大学でやれとおっしゃる向きもあると思いますが、それだと、面白さに気がつく前に挫折してしまう人が多くなります。これが理系離れの一つの原因になってると思います。

 そして、もう一つ壁があります。例えば、数学に絞って話をすると、数学は完全な論理構造を持っています。これを理解・表現するためには当然母国語(日本語)で考えたり表現したりするわけです。僕がぶちあたった壁もこれでした。何かというと、数学を説明する日本語が理解できないのです。また、論理的な思考ができない人も、当然数学はできません。したがって、まず理数系学問の面白さを教えた上で、さらに国語や論理学等も教えたらよいんじゃないかなと思います。

 ちょっと余談が多くなってしまったのですが、上とは別に、理系離れが、Shuさんと同様「単なる怠惰の結果ではないか」と感じています。ご自身は、弱めに表現されていますが、実はもうちょっと確信めいた思いを持っておられるのではないかと、勝手に推測したりもしているのですが(^-^;
行き過ぎた個人中心主義(というか自己中心主義)、過度の即物的な幸福の追求あるいは価値観の喪失あたりが原因かと思っています。飛躍しすぎでしょうか。ちょっとうまく説明できない&漠然とした感じなので、もうちょっと練ってから機会があれば書きたいと思います。
Posted by toybox at 2005年05月03日 04:27
> toyboxさん

> 実はもうちょっと確信めいた思いを持っておられるのではないか

 それが実は、僕もまだまだ何となく漠然とした感じで ^^;)
 ただ、toyboxさんが上に書いておられるとおり、今日の社会風潮というか人心傾向自体が、そもそも理系的な学問には向き難いような気がしています。

 まして数学はほぼ全面的にもちろん、他分野においても目先の遠い、つまり速やかに利益が得られる確信が得難い分野への志というか動機というものは、(意図的か否かはともかく)事実上今の日本が進めてき、進めている実利的(より乱暴に大きくは資本主義的)価値観社会では抑圧されるだろうなと思います。

 理系分野に属しつつ、いわゆる「IT」はもてはやされていますが、「もてはやされる」までに至っているのは、一部の資本主義的成功の華やかさによる部分が大きいでしょうし。

 ところで、僕も、数学における国語的論理の重要性というのは、学校での勉強ではなく(僕の場合は学校で数学というのは無論高校ですから)、自分でちまちまと数学を勉強するようになって痛感しています。
 逆に、それが面白さにも感じられはじめた今日この頃ですが ^^;)

 ちなみに今思えば、少なくとも僕が必要とする程度においては、人文、社会分野のことは自分で本を読めば十分だったなと、であれば理系に進学しておくべきだったと多少後悔しています。
 将来すすみたい方向と関連づけ過ぎました。はっきり言って、僕の場合関係なかったです。^^;) 学者を目指していたわけではないのだから。
 その点、職場の研修で(有無を言わさず)電子工学を1年じっくりやらされたのは良かったです。楽しかったですしね。
Posted by Shu at 2005年05月03日 20:23
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