2005年04月19日

(名将言行録) 証拠ある申し様

「名将言行録」37号関連記事

 「名将言行録」37号では武田信玄の第三回をお送りしましたが、「踏まえ所」という信玄の信条についての件りがありました。

 実はこのことは、三好長慶を扱ったマガジン15号でも似たような話をしたことがあり、blogでも記事を掲載しました。
 (過去記事:推量を排する危機管理

 確かな根拠、「踏まえ所」を求めるということは、信玄の信玄らしさの中でも最も特徴的なことのひとつであり、「甲陽軍鑑」にも折々強調されているところです。

 さて、上にも記した過去のblog記事でも、管野覚明氏の「よみがえる武士道」という書からの引用を紹介しましたが、今回は、再び同書から、さらに前後の部分を紹介しておきたいと思います。

 僕自身の見解については、以前の三好長慶の記事(上記)で書いた通りですので、あわせて再度見ていただければと思います。

「よみがえる武士道」より

 
 証拠ある申しよう
 「ふまえどころ」はあるのか
 何事も事実第一というのは、まことに当然のことに思われよう。だが、納得することはたやすくとも、実際に一から十まであるがままの事実に生きるには、おそらく超人的な努力を要することであろう。

 乱世を生きた武士たちの、事がらをあるがままに見る能力が尋常でなかったであろうことは、彼らの生活ぶりを示すさまざまな史料からも想像がつく。
 雲の動き、川の流れ一つ見るにしても、戦国武士の眼力と我々のそれとでは、犬の嗅覚と人のそれとぐらいの隔たりがあるにちがいない。
 しかも、そのような高い能力を身につけていながらも、なお彼らは、事実のあるがままは容易につかみ難いことを自覚し、自らを戒めつづけていた。見る力はあるにもかかわらず、その上でなお見そこなうことはある。
 武士たちはそのことを警戒し、だからこそより一層分別の大切さを強調したものと考えられる。

 必ずしも生まれつきの素質が劣っているわけでもない大将が、「過ぎたる」馬鹿大将になってしまう原因の多くは、自分の気に入らぬことを認めようとしない「無分別」に由来する。「過ぎたる」とは、事実のとらえ方に過不足があることだ。
 そして、一番の問題は、見ていながら見ようとしない、こちら側の心の姿勢にある。

 たとえば臆病な大将は、敵の軍勢を見えた以上の大軍だと受けとめ、逆に強過ぎる大将は過小に見積もろうとする。これらはいずれも、あるがままを自ら歪め、偽っていることにほかならない。
 このように、あるべき一つの判断を外にして、自分に都合のよいように事実を曲げていくあり方は、およそ武士道全般において最も嫌われるマイナス価値であり、駄目な武士の根源をなすものとみなされる。

 「馬鹿」は知恵を盗まれることだという定義も、このことと関係する。
 そもそも、一を一とする大将の知恵は盗みようがない。というのも、この大将の知恵は動かしがたい事実とそのまま対応しているから、あるのはいわば事実だけであって、盗まれるべき知恵はどこにもないからである。
 家来が盗もうとするのは、大将が事実を受けとめるときに、何かをつけ加えたり、割引いたりするその傾向である。
 この大将は、だいたいにおいて事実を過小にとらえる傾向があると見抜かれれば、家来は強気の意見を述べて取り入ろうとする。それが知恵を盗まれることであり、そうなるのは、大将の事実のとらえ方に揺れがあるからである。

 知恵を盗まれる大将のあり方はまた、「計略したをさるる(※計略し倒される)」大将にも通ずる。
 敵方の謀略に踊らされるのは、一つの事実に対するありうべき判断の他に、楽観的な、あるいは悲観的な、要するに事実と無関係に自分が作り出した判断を置こうとするからである。いいかえれば、事実に即さない憶測や幻想で心が揺れ動いているのである。

 問答無用の事実の世界を生き抜く
 「軍鑑」は、正しい認識や判断を動揺させる心の揺れを、主君や仲間を裏切る心と同じく、「ふたごころ」の名で呼んでいる。
 「ふたごころ」とは、心に嘘偽りがあることをいう。事実のあるがままを歪めることは、自らを偽ることである。
 しかしそれは、他に対してあるがままを偽り飾ることと、虚偽である点では同一である。というよりも、事実のあるがままを正しく受けとめえない無分別こそが、人を騙したり、あるいは欺かれたりする浮薄な心を生み出すもとだというのである。

 武士にとって、判断の是非や人物の力量が端的にあらわになるのは合戦の場である。そこでは、判定は生きるか死ぬかという、冷酷な事実として示される。
 こういう後のない場に身を置くとき、自己の運命を託すに足りる最も確実な足がかりは、動かすことのできない「事実」にしかない。事実を正しく受けとめる「分別」、事実を曲げることなく振る舞う「有りのまま」である。

 武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけ(※言受け)のみ」よいような、それこそ「うろん(※胡乱)なる」者に命はあずけられぬ。頼むに値する武士、「頼もしい」大将とは、一を一とする、「分別」ある「有りのまま」の人物でなければならない。

 この世界の中で真に頼むに値するものは、有るものは有る、無いものは無いとする精神だけだ。これはまた、人間世界のみならず、神や仏にも必ずや通じるものなのだ。一は一であるということを決して曲げないところこそ、天地宇宙を通じて唯一つ確実な拠り所である。相手が神であれ仏であれ、己れの頼むべき所はそこにしかない。これこそが、武士の発見した「哲学」だったのである。

 

 「武士の一言」ということが言われ、それは後の時代において多分に道徳、倫理的な徳目のようになってしまいましたが、そもそもは「戦場学」であり「戦場の人間学」であり「危機管理」でありといったところにつながる、文字通り、戦闘者としての武士に要求されることがらであったのだろうと思われます。

 以前の三好長慶のblog記事でも述べましたが、「事実」と「推量」の弁別、そして「能力」と「意志」の弁別ということは、実際の政治、外交、戦闘、あるいはビジネスやプライベートの場においても、それをきっちりと行うということは意外に難しいものであるのか、混同されている場合が多いものです。

 それは習慣づけによるところが多いものと思われます。
 平素から、そうした弁別の習慣、事実への立脚という習慣を、危機管理的思考の嗜みとして身につけておきたいものです。

 (次号38号も、引き続き武田信玄をお送りします。> マガジン読者の皆さん)


posted by Shu UETA at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 名将言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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