2005年04月18日

女子高生と方言


 まっとうに働いている人に、ワイドショー番組を見ている人はあまりいないと思うが ^^;) 、僕はTVをつけながら仕事しているため、よく見ている。(と言っても視聴に足るのは朝8時からの「とくダネ!」だけだが。それ以降はMTVか映画か)
 最近では、国際ニュースなどについても本来のニュース番組より詳しくやっていたりするし、特に「とくダネ!」などでは、芸能ニュースの占める比率はかなり低くなっている。(めざましTVより比率は小さいだろう)
 たとえば中国での反日暴動についても、多くの現場映像をはじめ、参加者の自宅訪問インタビューなど、非常に充実した資料を提示してくれる。

 さて余談はともかく、今朝のその「とくダネ!」(フジ系)で、女子高生の間での方言ブームというのをやっていた。
 女子高生については、ギャル言葉とか絵文字とか、さまざまな流行「言語(?)」がこれまでも発信されてきたが、今は方言が非常に流行りつつあるらしい。

 そうした話を聞きながら、些か飛躍のきらいを承知しつつ、多様性やアイデンティティということの揺り戻し的な事象である可能性をも考えてしまった。

 取材スタッフは実は当初は別の目的で、女子高生の間での最近の流行などを追うべく取材していたそうなのだが、その取材過程で、方言にはまっている子たちに数人出会い、そこでふと街頭調査してみたところ、次から次へとほとんどの女子高生が方言ブームの渦中にあることがわかったとのこと。

 さて、その方言ブームとはどういうものかというと、
 北は北海道、南は沖縄まで、全国の方言での言葉を採り入れて会話をするというもの。
 採り入れるとは言っても、あくまで単語単位であり、かつ地域に統一性はなく、ひとつの文に北海道弁の言葉も福岡弁の言葉も混在させて使っている。
 しかし文字通り「全国の」方言であり、今日ざっと取材の間に見えただけでも、北海道や九州各県だけではなく、東北各県、愛知、広島、沖縄その他、彼女たちの採集熱の対象は全国全地域に向いている。

 採集という言葉を使ったが、彼女たちの選択の基準は、語感が「かわいい」「かっこいい」など自分や仲間の気に入るかどうか、そして「新しい」つまりまだ誰も使っていないもの、といった感じだ。

 僕は以前にも触れたとおり、ちょっとした方言研究家(趣味)だし、自分自身日本のほとんどの地域に行き、あるいは暮らしたことがあるので方言には詳しいが、今日見てみると、彼女たちの使用する方言というのは非常にマニアックなもの、つまり方言としてメジャーでない、つまり本来地元の人にしかわからないだろう「本当の方言」もかなり選んで使われている。

 そうした知識はどこから来るのか。
 そう、勉強しているのだ。
 取材に応じた子の多くは、かなりの時間を方言の勉強に使っているが(ネットや本を調べ、ノート等にまとめる等、本当に「勉強」だ)、ある女の子は、毎日4時間を方言の勉強に充てているということだった。

 本屋で手軽に入手できる文献、書物の不足に非常に不満気であったが、ネットを大いに活用している。
 そして日々新しい方言を調べ、よいものがあれば、友達と意見交換をして使用に足るもの(気に入るもの)を選んで、使いながら覚えていく。

 会話でも使うし、メールでも使う。
 喫茶店でも、二人の女子高生が「なまらせからしくない?」なんて会話をしていた。
 「なまら」とは北海道で「とても」といった感じ、「せからしい」とは九州で「せかせかしている→うるさい、うっとおしい」といった感じだろうか。
 まあ、これらは割とメジャーな(つまりよく知られた)部類に入るのだろうが、先に描写したようなとりわけ熱心な子たちはこうした(彼女たちに言わせれば)「誰でも知ってる」ようなものには飽きたらず、マイナーなものを日々探し、「実用化」^^;) している。
 琉球弁(沖縄弁)などになると、もはやこれは宝庫であって、沖縄に暮らしていた(かつ方言に興味のある)僕でも知らないような方言を、女子高生たちが使っている。

 ただし、あくまで字句上のことであって、イントネーションなどはまるでダメだが。しかし、先に書いたとおり、あくまで単語単位でしか使わないので、そもそもイントネーションということとは両立するものでもさせ得るものでもない。

 まあ、しかしこうなると関西弁なんてものはあまり見向きされるものではない。なんせ今日では関西弁自体がメジャーになり過ぎて、「通じない」ような方言はほとんど無く、彼女たちを満足させはしないから。^^;)
 (余談だが、ここでは便宜上「関西弁」と表記したが、実際には京都、大阪、神戸、播磨という大区分をはじめ、大阪でもさらに複数エリアに分かれる通り、方言としては複数種が存在する)

 「なぜ使うのか」との問いに対して、「かわいいから」「かっこいいから」とかと並び、「新鮮」、「オリジナリティ」があるといった言葉が聞かれ、「地方に生まれたかった」という子が多かった。「標準語はあたりまえ過ぎ、普通過ぎで面白くない」と。
 僕ら(特に関西人?)の感覚では東京人も一地方人に過ぎないのだが、また、東京弁が標準語とは笑わせるが、しかしまあこれらのことは今日は措いておこう。(幼い子は自分の世界が世界の中心と思いこんでいるものだ)

 さて、こうした女子高生の間の新たな(そして一過性ではあろうが)流行には、いろいろな分析がされ得るだろうけれども、僕は、「多様性への揺り戻し」「アイデンティティへの揺り戻し」ということもあるのではないかとも思う。
 (もちろん、仲間内で通用する「暗号」的なものへの嗜好という基本路線はあるにせよ)

 現に、番組では東京の女子高生の取材だけではなく、実際の方言本来の土地ではどうなのかという着意で(思考過程的に素晴らしい着意だ)、九州をはじめいくつかの地域のいくつかの都市を取材していたが、なんと、こうした東京以外の地域でも、方言ブームというのは静かに広がりはじめているようなのだ。

 女子高生が地元の方言を使うということが微妙に流行しつつあるとのこと。
 しかも面白いことに(この取材の担当者はなかなか実験・調査センスがある)、行ってただ女子高生に方言を使うかどうか聞くだけでなく、世代間の差までを洗い出してきていた。

 まず女子高生に聞く。
 すると、「使う、使う」なんて言葉が各所で聞かれる。
 次にこう質問している。
 「お父さんやお母さんは使う?」「おじいちゃん、おばあちゃんは使う?」
 すると、ほぼ皆が答えるのは、両親はあまり方言を使わないが、祖父母は使うということ。そして自分たちは、祖父母から方言を教えてもらっているんだということ。

 こうしたそれぞれの方言の地元では、東京での流行のように、とにかくいろんな方言を使おうということではもちろんなくて、自分たちの地元の方言を使いたいという動きになっている。父母の世代でいったん下火になり、あるいは消えかけた方言を、子の世代が祖父母の世代から聞いて使うという。

 ただし、父母が方言を使わないというのも、それはそこに暮らしている人々の感覚であって、実際に他の地域の人が聞くと十分に方言バリバリであることが多い。それは主としてイントネーション等によるところが大であって、彼女たちが言う「方言を使わない」というのは、もっと単語的なレベルでの強烈な(他地域人には意味の通じないような)方言言葉を使わないという意味だろう。
 たとえば、北海道の人などは一般的に自分たちが訛っているとは全く思っていない人がほとんどだ。(他所から聞くと、明らかに北海道特有なのだが、たしかに方言性は他地域よりはるかに薄い)しかし、「なまら」なんて言葉を日常的には使わず、「押ささって」とか「〜っしょや」といったものを少なくとも他地域出身者に対して使っていないという意味で、方言は使っていないと考えている場合が多い。

 しかしいずれにせよ、僕の感覚でも確かに、僕の前後の世代の人々は、その地元にいても、あまり方言を丸出しにはしていない。イントネーションは方言だが、字に書けば標準語的なものになるような話し方をしていることが多く、僕など(方言が好き)は方言の死滅化を常々危惧してきた。
 ある地域でその地元の寿司屋に行ったとき、湯飲みにそこの方言が書き連ねてあった。そこの地元出身の友人が一緒だったため、それぞれ意味を聞いたが、彼が知らないというものが多数あってショックを受けたこともある。また多くは、じいちゃんは使ってるけど、自分たちは今時使わないというものだった。

 こうしたものが、一世代をとばして、まあ隔世遺伝(ならぬ隔世学習)的に、若い子に伝わっているという動きが、ささやかにではあるが観察されるようだ。

 さて、こうしたところから、僕は、「多様性、アイデンティティへの揺り戻し」ということをも考えてしまうのだ。

 日本のここ数十年は、アイデンティティ喪失の時代だった面が強い。喪失というよりも自ら捨ててきたと言うべきか。これは方言などという小さな問題ではなく、教育においても思想においてもという大きな潮流だったと思うが。

 それがある意味での一転、今日見たような東京の子が言う「地方に生まれたかった」「標準語は普通でつまらない」という感覚は、地方にはその地方「らしさ」がある、それが東京には無いからつまらないということだろう。
 (実際には東京には東京らしさが無論あるが、例えば方言といったものに明らかなとおり、他地域に比べてそれが目立って認識されにくい)

 一方で、本来アイデンティ、それも文化的な意味でのアイデンティティというものは、ある種の拘束から生まれる面もある。しきたりであるとか、ならわしといったものはそれ以外の何ものでもない。
 しかし、そうしたしきたりのような拘束性のきわめて強いものでさえ、それは、自分の根の一つを見出し得る大きな要素となる。

 僕らが大学の頃は、いわゆる地方出身者という子たちは、方言に引け目を感じている子が多かった。そして、早く標準語らしいものを話せるようになろうなろうとしていたものだ。
 それが、「方言はカッコいい」などという感覚が、当の東京の人々の間に生まれつつあるとは(その持続性のほどはわからないが)、まさに隔世の感だ。
 番組が取材していた青森出身の子は、方言を直さないでいなよと先輩や友達たちから言われ、驚いたと言っていた。

 これは私見に過ぎないが、例えばかのオーム真理教の若きエリート信者たちについても、当時僕が最も考えたのは、そうしたアイデンティティ、それも正確には自分という個のアイデンティティを見出し得ないが故の、「帰属」によるアイデンティティへの渇望があったのではないかということだった。

 家庭や学校、はては国といった社会が与えてくれない、むしろ奪おうとしてきた「絆」と「規範」「義務」といったものを、オームは(歪んだ形であれ)与えていた面は否めない。

 健全な形の例をあげれば、警察、消防、自衛隊という、一般の職業に比べ相当に強度の大きい規範を要求する仕事では、世間のどことも同じ一般的なごく普通の若者が十分に世間並み以上のレベルで高い規範を守って勤務している。
 これは、部内での厳しい教育の結果とのみ見る向きが多いだろうが、しかし(もちろん厳しい躾け、訓練は行っているが)それだけのことではないように思う。
 自衛隊などは、例えばいわゆる新兵教育はわずか3ヶ月でしかない。しかも、その3ヶ月はなにも躾けや使命教育ばかりをやって過ごしているわけではなく、当然ながら体育訓練にも防衛学にも射撃訓練といったものにかなりの時間を割いている。
 入隊者が格別世間一般より程度が高いなどというわけもない。
 だが、自衛隊では、そして警察、消防でも、そこでは明確な規範と義務が明示される。任務を崇高と考えやすい職場であるから、警察官、消防官、自衛官という(帰属による)アイデンティティを意識しやすい。

 さきに、東京にも東京のオリジナリティはもちろんあるが、しかし、目立って認識しにくいだけだということを書いたが、自分個人という個のアイデンティティというものは、多く平凡な一般の人々にとって誰しも明確に認識するのは難しいものだ。そこで、帰属によるアイデンティティということが、人間のそうした欲求の助けの綱になる。

 それが故に、個人の属すべき集団や社会というものは、個人の自由自在をある程度制限するにもかかわらず、しかし実は個人の精神の健全を保つ意義があるといわれてきたところだろう。
 健全な帰属意識は個人を狂気から救う面がある。

 言うまでもなく、ここ数十年来の日本とは、個人が文字通り個として存在することを理想とし、家族のくびきを解き、地域のくびきを解き、会社人間ということを軽蔑し、日本や日本人という感覚の払拭に努めてきたような面がある。母である前に一人の女性であり、上司である前に一人の人間であるとも豪語する。
 そこで目指されたのは、家族などに束縛されない個人であり、日本人ではなく地球人であるといったことであった。まあ言うなれば、とにかく自分は自分として存在するということ、「根」はしがらみであり、それをとにかく断ち切ったところにある「個」を追求するということとも見えた。
 (過去形で語ってはいるが、これらの努力は、今日も明確に続けられている。)

 僕自身は、こうした今日も続く努力の方向を、誤った非常に危険なものだと思っている。
 そしてその「実験」の失敗の可能性を示す社会問題は既に方々に散見され始めているようにも思える。(異論はあるだろうが、僕の感覚では、先述した通りオーム真理教の問題についてさえそれを思う)

 しかしこれらの「努力」は、国民の間での自発的な意志の方向というよりは、一部の思想運動家たちや、あるいは政府の施策によるものであって、つまりきわめて人為的な努力である。
 したがって、最後に期待し得るのは、国民レベルでの健全な本能的感覚、判断能力だろう。
 そうした意味で、昨今の世相を見るところ、少しずつではあるが、国民のマクロ的な本能的良識感覚、判断力といったものが示されつつあるようにも思う。

 たかが方言、それも一部の女子高生の間でのささやかな流行などをつかまえて、大袈裟なことを言い過ぎではないかと思われる向きもあるかもしれないが、(失礼かもしれないけれど)ある意味本当に本能を大いに指針として生きている若い女の子たちの間での自然発生事象というのは、社会を観察する上での重要な観察対象となり得るものだ。

 彼女たちが言う「地方は地方らしさがあってうらやましい」「地方に生まれたかった」という感覚、まして地方の子が自分の地元の言葉や文化にカッコよさを普通に感じれるということは従来と趣を異にするものだ。

 もちろん、僕の考え過ぎ、深読みし過ぎということは大いにあるだろうと僕自身思っているが ^^;)、しかしこうした社会の片隅での小さな動きが、日本本来の多様性であるとか、健全な帰属欲求というものへと国民の健全感覚が大きくゆっくりと舵を取っている最中の象徴的事象であれば有難いことだがなあ…と、希望的観測をしているところである。

 そうしたものも、親の世代をとばしてでも、祖父母の代から若い子の代に伝わるならば、それは素晴らしいことだ。


posted by Shu UETA at 18:05| Comment(4) | TrackBack(1) | 天下-vision・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この番組見ました。もともと方言好き(嫁に無理矢理方言でしゃべらせたりする^^;)だったので、いい傾向だ!とか単純に喜んでましたが。

たしかに、揺り戻しはあると思います。つい先日だったと思いますが、若い女性の「早期の結婚願望」率が増加しているという調査結果が出てました。その時、思ったことは、なんだかんだいって、結局“民族的な本能”には抗えないんだろうなぁ、ということでした。そのうち脱核家族化もすすむのではなかろうか、と予測しています。もちろん、単純に、はやりすたりと同様な「周期的なもの」ととらえることもできますが、Shuさんと同様、こういった動きが「国民のマクロ的な本能的良識感覚、判断力といったものが示されつつある」であることを望みます。
Posted by toybox at 2005年04月18日 20:17
> toyboxさん

> この番組見ました

 実っつに、意外です。^^)
 だとすると、例の中国での暴動参加者の方の話題も、何かと思うところがあったことと思います。
 が、それは別の話として…

 今回書いたような小難しいことを抜きにしても、僕も方言という文化が好きなので、それだけで見てもたいへん喜ばしい、楽しいニュースでした。^^)
Posted by Shu at 2005年04月18日 20:37
こんばんはっ。
私はその番組は見ていないのですが、アイデンティティーの揺り戻しが来ているというのは私も漠然とながら常々感じていたところでした。
Shuさんの記事を読んで感じていたことがかなり明快になりましたよ。どうもありがとうございました^^
Posted by 暁 at 2005年04月22日 18:42
> 暁さん

 やあ、なんだかこっちでコメントもらえるのもなかなか珍しいですよね。
 うれしいです。^^)

 「揺り戻し」のベクトル自体は僕などは大歓迎ですが、ある意味日本の特質ともされるような、極端から極端への動きではなく、健全なものであってほしいですね。

 でないと、そうした動きそのものへの反対勢力にも格好の材料を与えることにもなってしまいますしね。

 とは言え、今後の日本の境遇次第では、それこそ高杉晋作の唱えたような、むしろ「狂」が必要になる場合もあるかもしれませんが、できればそこまで追いつめられたくないものです。^^)
Posted by Shu at 2005年04月22日 19:01
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