2005年04月07日

世界・空間と自己(後)


(前編からのつづき)

 さて、本書からの引き写しをもう一段。

  カウンセリングの場では、一対一でのそれぞれの流れが問題になる。身体と身体が出会えるのは、その流れの同調がとれたときである。

 「同調性が、ふっとある高いレベルに入ると、初めて会った人なのに、もう三度目みたいな感じになって、あとになって動揺されることがあります。『なんか話しすぎちゃって恥ずかしいんですけど』って言われることがよくあるんです」

 それはきっと、武術の技で倒されたときに、倒されたのか、自分から倒れていったのかよくわからない感じがするときと、同じなのだろう。
 はっと気がついたら、何の抵抗もなく、いつもなら他人に言わないようなことまでしゃべってしまっていた。たしかに後で動揺するだろうが、しゃべっているときには、爽快感があったのではないだろうか。

 また、やはり武術の技と同じく、「居つき」ということもあるという。

 「カウンセリングでは、患者さんに出会った瞬間から、居ついてしまうということがあります。それは従来のカウンセリング的な議論では、あるイメージのとりこになってしまう、先入観のとりこになってしまうと言われていることです。だけど、それだと、脳の中の話という感じでしょ。
 そうじゃなくて、身体の次元で、身体が居ついてしまうとか、それを流せるか、方向を変えられるかというふうにとらえたほうがいいと思うんです。イメージを変えようとすると、あるイメージを変えても、また別のイメージに居ついてしまうんですよ。
 球みたいなものを置いているような感覚になるときがいいのかなという気が、理想的にはするんだけど。

 カウンセリングっていうのは妙なもので、治してやろうと思うと治らなくて、その人の話のなかのあるポイントにすーっと入っていくと通ったりすることがあります。
 技が通るというのは、相手を倒そうとするんじゃなくて、そうやって、ある必然的な力の流れ、方向性や速さで、通るか通らないかが決まってくる、その通るかどうかっていうことに注目するだけでも、武術には十分すぎるほどのヒントがあります。

 甲野先生の技について考えてゆくと、結局、自我論になるんですよ。

 技が通るときというのは、実体はあるんだけど消えていますよね。
 技というのは動きで、動きに詰まりや滞り、居つきがあるかどうかということでしょう。つまり、技が存在するだけですよね。

 じゃ、実体が消えているなら実体はないのかというと、実体もある。しかし、その実体は、一つ一つの個としての実体と思うのがすでに間違っているという実体なんですよね。

 僕たちが観念として、そういう実体観念を前提にして立っているから、それで技だけがあるとしか言いようがないわけです。

 ところが、技だけがあるというと、完全にレトリックの世界というか、あっち側の世界になってしまって、ある支配性が生じるんです。『技だけがある』って言った人が、『ああ、技だけがあるんだ』って納得してしまった弟子を支配するという力関係が生じてしまう。それは、個はない、お前はないんだっていうメッセージが、もっと深いメルティングするメッセージとして入ってしまうから。

 自我という鎧を脱ぎ捨てたあとの危なっかしさみたいなものがあって、そこにしゃあしゃあと技だけがあるんだよって言うと、とたんに強烈な支配性が生じて、ある危機が生じる。そういう世界が展開されるんですよ。

 僕は、人が個という観念を離れたときには、すさまじく暴力的な支配性にむけて一気にイデオロギー化するという危惧を感じています」

 それは実際、カルト的な宗教団体などでよく見られることである。「技」とは言わないだろうが、「法」とか「仏性」とか「生命」とか「神」とか、言葉はどうあれ、自己を、この瞬間にひらめく鮮やかな感覚の体験のうちに解消されたうえで、観念的な永遠性に回収され、その観念を背景にした人物に支配されてしまう。武術においても、それと同じことが起こりうる。「技」が、ともすれば神秘化されることの危険性である。

 それを神秘化してしまうのは、名越氏が言うように、前提にある個我の実体概念である。個と個とは独立して、言語や何らかの物理的な媒介によらないかぎり影響しあうことはない、という世界観である。念力などの未知の力を放射しているというような発想も、この前提のうえにある。

 だが、先に北村氏が言ったように、緊張をこめた身体の前には、緊張した他者が現れる。
 さまざまな感覚が、他者との同調のうえで生滅し、身体を転変させる。
 そのような個我たちの生きている世界では、技とは、相手を支配することではなく、みずからが流れに身を開き、両者のいる場の流れの向きを、いずれへかうながすように、はたらくこと
である。

 「個というものを前提にして、そのうえに関係性があるとする考え方をこえることが、二十一世紀的なテーマだと思うんです。
 関係性ということによって、個というのをこえられると思ってるけど、それは根本的に間違ってると思うんです。それでは、技の世界は何一つ展開していかない。まず個があって、個と個が関係しあってるという発想では、期待をあおることはできるけど、実体的には何も生みだしませんね。

 自我という発想の向こうには、みんな同じ人間という観念があるでしょう。でも実際は、それぞれに違う。男女でも違うし、時間、空間の配置でも違っているはずです」

 関係性を個に先立つものとして置くとき、個としてとらえられるものは、千変万化してやまない生きている身体である。
 独立した個我という観念を捨てたとき、はじめてそれぞれに無限の個性が見えてくるということ
だ。
 それは永続する個性ではなく、たえず生成され転変しつづける個性である。永続するものは観念だけなのだから。

 すべての技は、観念の身体ではなく、そのような生きている身体の出来事としてある。したがって、マニュアル化できる技術が人生と無関係に存在しうるのに対して、技は生きていることと切り離すことができない。
 技が人生とともにあるものだとは、古来の考えであろう。
 こうしたことはすべて、かつては当たり前だったことなのかもしれない。
 だが、(中略)技術はいつのまにか人生と無縁な知識へと堕してしまい、技は忘れられてしまった。人生と無縁な知識だからこそ、実際には通用しない技術が「正しいこと」として流通することもできるのだ。



 これも、先に振り返った過去記事の「自己組織化とネットワーク」のテーマであったこととも重なり合うのだが、

 個としての自分ではなく、ひとつのシステムの中での明滅としてとらえる感覚、閉鎖系ではなく開放系とでも言おうか、今現在、僕はそうした意識の持ち方をひとつのテーマにしている。

 上述の過去記事で紹介した内田先生の言葉では、「絶え間ない自己解体と再構築」とも述べられ、自分と道具、そして相手までを一つの系(システム)としてとらえ、そのシステムの中での力の流れや向きを考え、操作していくということが語られている。

 個と個の別を前提とした上での、個と個の関係性を考えるということではなく、関係性(系、システム)の中で絶えず生成され転変する自己という感覚を磨いてみようと思っている。

 それは、絶えず姿を変えながら、しかし同一のものであり続ける火、炎のような存在でもあり、「日々新たなり」、いや「一瞬一瞬新たなり」という境地にも似ているところがある。

 そして実は、政治や社会を考えるにおいても、こうした微妙な感覚の転換、新種のシステム思考とでもいったものは、新たな発想を僕にもたらしてくれるはずではないかと、そんなことも考えている。


 今回書いてきたことは、多分に自らのための覚え書き的なところもあるのだが、今後新たな展開なり、気づきがあった場合にはまた紹介したい。

 


posted by Shu UETA at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 武術/身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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