2005年04月07日

世界・空間と自己(前)


 以前読んで、やはり例により書き抜きをしていた本なのだが、ここ数日、そこで述べられる感覚がなんとなくわかってきたというか(言い過ぎ、傲慢か ^^;)、少なくとも再度じっくり考えてみている。

 甲野先生のことを書いた「身体から革命を起こす」という本なのだが(どうもタイトルは月並みだ ^^;)、まずは、反則技覚悟で、その大部にわたる当該部分をここにペーストして紹介したいと思う。

 今日の本旨からして「武術/身体」カテゴリに配するのはいかがとも思ったが(本来は「思索」カテゴリが相当か)、読んで理解できる人とは、このカテゴリに関心ある人をおいてあるまいと思うので、差し当たりこのカテゴリに入れておく。

 下記に引用(という程度を遙かに超えているが ^^;) するのは、前述した通り、「身体から革命を起こす」という書(本記事文末に紹介)の巻末に近い部分なのだが、ここでは、甲野善紀先生とたいへん深い付き合いをなさっている名越康文氏(大阪の名越クリニックの精神科医、テレビでも有名、最近ではフジTVの「グータン」で精神分析をしているあの先生 ^^) が、甲野先生について語りながら考えを述べておられる部分。
 「」内が、名越氏の直接のセリフであり、その外の部分は、本書の甲野先生との共著者である田中聡氏の文章となっている。
 なお、スクリーン上での読みやすさのため、改行は適宜僕が入れている。また、太字部分についても、僕が太字にしている。

  「もっとも偶然的なものが、もっとも必然的なものと感じられるようになってきたんです。
 必然感のなかにあって、その必然感は瞬時の自分のチョイスで決まっているという、甲野先生がつねづね言っている運命が決まっていて自由という、そのきわきわの刃の上に自分がいる、追いこまれているというような感覚があるんですよね。
 (中略)
 今こうしてお会いして話をしているときに、そのなかに自分がどれだけちゃんとおれるかっていうことが、次の展開につながっているという必然感もあるし、同時に、それは完全に自分にまかされているという実感もある。
 どう自分をこの空間に置くか、身の置き方というんでしょうか、それは身体的な感覚ですよね。
 それを意識してるということは、ある流れの中に身をゆだねて無意識的に動いてはいないということです。つまり、前より自由になってるわけですよね。
 自由だけど、ある必然性を追わないと、次の展開につながらないという実感があるんですね。そういう両方の実感が、前より強まってます。

 甲野先生の技は、相手によって変わるでしょう。相手によって変わるということは、その空間のなかにどう身を置くかということとすごくかかわっていると思うんです。

 先生は、それを僕らにはわかりやすく、中心を消すとか、相手のなかに入るとか言われてますけど、それは僕らが思うような、ここに重しを置いてますっていう中心じゃなくて、身体の細かい割れとか、流れのなかで、どこが動きの中心になってるかっていうことであって、動きのなかの中心ですよね。
 それは、その空間のなかで自分がどう身を置くかっていうことを、たえず流れのなかで必然的に感じつづけているということでしょう。(中略)」

 たえず流れのなかでの身の置き方を意識するためには、前提として、世界は流れていなくてはならない。
 つまり、流れているものとして、世界が感覚されていなくてはならない


 世界が休むことなく流動していると理解することは、観念的にはたやすいことだが、そのように体験し、その流れに即応して動くということは至難の業である。
 概念化して固定されたものとして世界を見ている我々の意識は、流れを、流れそのものとして把握することはできないからである。
 それは、我々が甲野の支点のない動きを把握できないのと同じことである。
 (中略)
 それほどに、世界を構造的に把握し、動きをそのメカニズムの働きとしてとらえようとする分析的な理解の仕方を、我々は日常の常識としている。
 「実感」も、そのような方法的な認知になじんでしまっている。我々は、無意識のうちに、分析的に人生を歩んでいるのだ。
 だから、「流れを読む」といえば、さまざまな条件を確認し、そこから先の展開を予測することだと思い、達人はそれを一瞬のうちにするのだろうと想像する。

 だが、そうした予測のあてにならないことは、これまでの無数の例で、誰もが知っている。たとえ、じっくり時間をかけて徹底的に情報収集したうえでの予測であろうと、外れるときは外れる。それでも人は懲りずに、未来を予測し、将来の設計をする。そのアテが外れそうになると、不安で仕方がなくなり、それを力強く保証してくれるリーダーを求めるようになったりもする。
 予測を信じて行動していると、思いこんだ構造と少しでも違った動きになったとき、甲野の技にかかって転がされるように、まるで対応できないのである。

 名越氏が「流れの中に身を置く」というのは、そのような分析的な行為の意味ではなく、全体観的な直観によってふるまいを決することである。
 それは甲野の言う「予測しない動き」にも通じて、世界の流れの急変に対して、その時々に身体をすっと舵取って操船するような、感覚的な営みだ。因果論的な思考をたどっていては、流れに間に合わない。

 それを身体的に言うなら、全体の流れのうちに響きあいながらともに流れている身体の、その身体の流れに棹さすようにするとイメージしたらよいだろうか。
 世界の流れをつかんで乗るというより、世界の流れに同調している身体の流れに乗るのだ。
 もちろんそれには、外の流れと身体との同調が深められていなくてはならない。そこで、支点なく流動する静謐な動き方が重要になる。支点を蹴る緊張感に自己を確認して安心するような意識に支配され、概念にすぎない構造をなぞるように動いている身体では、世界の現象は客観的な出来事としてあるだけである。

 意識を身体の多様性に向けて開くことは、身体を世界に向けて開くことでもある。
 偶然と必然とが一致し、運命と自己決定が重なっているという感覚は、身体が世界と共鳴する場として生きられているときの実感と言えよう。



 僕が最近着意し、意識の工夫にも躍起になっているのは、この「空間にどのように身を置くか」ということであり、それを、「たえず流れの中で感じていく」ということだ。

 これは、もちろん身体感覚の上であるのは当然として、さらに、意識の上においてもである。つまり、物理的空間における身の置き方、そして、たとえば対人において、たとえば政治を考えるにおいての意識空間における自らの意識の置き方という双方についてだ。

 ちなみに、ここで言われている、流れに身を委ね無意識的に動くのではなく、自ら意識して身の置き方、処し方を考えていく、ということは、このblogでも何度か書いたような、状況に反応的になるのではなく、行動、思考を自ら選ぶという態度とも通じるものだろうと思う。
 (参照:過去記事「「極意の解明」近藤孝洋著」、「コントロールできることに集中する」、「天の道人の道ノート(1)」)


 また、「全体観的な直観」ということについて。
 これは、もとより僕自身の主義信条でもあり、長年工夫を凝らしてきたところではある。
 この直観を磨くということが、少なくとも中学生の頃以来、平素常に僕の重大なテーマのひとつであり、そもそも武術歴とは別の主要関心の一つではあった。
 ただし、武術や身体ということの研鑽において、いっそうその工夫と可能性の道が開けてきた。

 ただし、直感や直観ということと、論理、理屈ということの兼ね合いが難しいところであって、そこに工夫が求められるところ。僕については、現時点でも解決はできていない。いろいろ試行錯誤しているところだ。

 なぜなら、ただ自分一人のことであれば、直感直観によって動いてみることもできるが、これが組織単位でのこととなると、あるいは他者を含めての行動の話になると、この直感直観ということは、他者がわかるように、論理的に説明されなければならない。(現に甲野先生も、自らの術理については、それが深い体感からきた直感であっても、それに合理的な説明を可能な限り付して人々に対して説明するということをなさっている)

 ただ、もともと生まれつきとしては僕はむしろ理屈屋であるので、直感に対して合理的説明を考えることは苦手ではないが、常に可能というわけでもなく、往々にして飛躍を埋め得ないこともある。そこで、これを一つの課題として持っている。

 さてもうひとつの難しさは、直感直観の見極めということ。
 人間の頭の思考速度というのは非常に高速であるため、瞬間的にそれが直感であるように思えて、実は、単なる先入観や好悪の感情等の結果である場合もある。そしてさらにはもちろん、単なる気のせいということすらある。^^;)
 そこで、直感が湧いた(と思えた)際に、それが本当に直感であるのかどうかの見極めが肝心になる。
 直感を磨いていく際に、最初の重大な関門がこれだ。

 基本的には、その過程はフィードバックによる照らし合わせを積むということになるだろう。
 つまり、結果と見比べて、単なる気のせいであった場合に直感と思ってしまった感じ方と、まさしく素晴らしい直感判断であったという場合の当初の直感の感じ方の差異を、経験として積み上げていくことだ。

 ちなみに、ときとして、直感したと同時に結果までの過程を含めて全てが「わかる」感じがすることがあるが、そうした場合は、ほぼ正確な直感であり、見極めやすい。

 ところで、僕が好きな小説に山田詠美の「チューイングガム」(記事末に紹介)という本があるが、その中に、こんなことが書いてある。

  男と女は別なんだ。女は、勉強していく賢い生き物だけど、男は勘を磨いていく生き物なんだよ。選択を正しくやってのけるか、そうでないかの問題だ。前の失敗をくり返さないようになんて注意する以前に、もう価値は決まってる。


 男と女の差というようなことは別として、しかし少なくとも僕は、「学んでいく」よりも「勘を磨いていく生き物」でありたいと思っている。


 さて、その勘であり直感直観ということだが、さらに冒頭の引用では次のように語っている。

 世界の流れをつかんで乗るのではなく、世界の流れに同調している身体の流れに乗る。

 そしてそのためには、外の流れと身体の同調が深められなければならず、そうであるためには、支点なく流動する静謐な動き方が重要である、と言う。

 このあたりで、意識ということは身体と融合してくる。そしてこのことは、僕もblogでよく書くとおり、実際に武術であるとか身体操作を磨いてみると、ほんの数日のごく低レベルな段階から既に明確に実感できることでもある。そこで僕は、身体遣いが結局は思考にまで影響を与えると主張するのだけれど。

 この本で語られるところでは、特に、世界の流れをつかむよりも、それと同調している身体の流れに乗るのだという指摘に、なるほどと考えさせられる。そこで、現在そうしたアプローチに取り組んでいるところだ。

 そうした身体とは、結果的に武術が求める身体というものと大きく重なり合っており、またあるいは高岡氏が常々提唱している、「ゆる」により身体をゆるめることや、さまざまな身体意識の開発ということも同じようなゴールへ誘おうとするものだと思う。

 いかに空間と自分を感応させるか、いかに対者と自分を感応させるか、そしてその感応をいかに自らキャッチするか、それをテーマにしばらく試行錯誤してみようと思っている。

 ここで思い出すのは、以前に記事「自己組織化とネットワーク」でも紹介した、内田先生のおっしゃる次のようなことだ。

 「武人の心得としての、用のないところにはゆかないということ」、「誰かが手助けを必要としているとき、まるではかったようにそこに登場する身体感覚」、そして、「用のないところにゆかない人間と、誰かが自分を必要としているときにそれを察知できる人間=用のあるところに選択的にいる人間はおそらく同一の人である」


後編につづく)

   


posted by Shu UETA at 20:13| Comment(4) | TrackBack(0) | 武術/身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
(^-^)お話、大変、興味深かったです。

>偶然と必然とが一致し、運命と自己決定が重なっているという感覚は、
>身体が世界と共鳴する場として生きられているときの実感と言えよう

この部分が特にグっときました〜

身体的にも、意識的にも、流れを読む、
流れを感じながら、そこに意識的にあること、
・・じぶんの身(こころ)の置きかたで
自然に流れの一部でありながら全体を俯瞰して
流れにのりながらも、流されず、大きな流れを妨げない選択ができるのではと思います。

そうすることで、より自由になれるというのも、感覚的に頷くことができます。

ただ、まだまだ未熟で、感覚が曇るときが多々あり、その流れが見えなくなることが多いのですが。

身体感覚から開いていくというのは、大変勉強になりました。
心がけようと思います。
Posted by がっち at 2005年04月12日 04:44
> がっちさん

 僕は「世界を流れているものと感じる」感覚に、今いちばん惹かれています。そうした感覚を持つということ、磨くということについて。

 さらに、時間というものの認識についても考えてしまうのですが、難しいテーマです。
 時間というもののとらえ方は、運命論や、ここでいう「必然」ということの本質とも関わってきますし、武術でも、「未来からの逆算」という認識技術があります。またいずれ記事にしてみたいとは思っているのですが、簡単に言うと例えば、既に矢が的に当たっているところから現在までを逆算する、相手に攻撃がきまっているところから現在を逆算して動く、といったふうな。

 いろいろ研鑽もし、思考もし、試行錯誤していきたいと思います。^^)
Posted by Shu at 2005年04月12日 07:56
時間、わたしも興味を持っています。

時空と・・

最近の量子論や宇宙論の説のなかにはSFのような驚きを覚えるものが、ありますよね。
先日、NHKBSでやっていた、ひも理論の話では、
3次元では説明がつかないので次元を増やした設定で説が展開していました。

>武術でも、「未来からの逆算」という認識技術があります。

お話、読んでみたいです。
武術は、理論だけでなく、実践が伴うのですばらしいと思います。
洗練された理論と技術は、“真理”に近い、もしくは、真理の一部ではないかと・・

>相手に攻撃がきまっているところから現在を逆算して動く、といったふうな。

ふと、囲碁の世界を思い出しました。
わたしは、武術も囲碁もやらないので、
想像だけなのですが。
武術には見たことも触れたこともないけれど、
井上雅彦さんの『バガボンド』には、
深いな〜、と一時期はまりました♪

shuさんは、武術は何か実際にされているのですか?
Posted by がっち at 2005年04月13日 09:57
> がっちさん

 「バガボンド」は面白いですよね。
 井上さんは、描くにあたって、甲野さんをはじめ実際の武術家にいろいろ取材してたようですし。

 僕自身は、とある古流の剣術をメインでやっています。柔術系の流派もしばらく稽古しましたが、引っ越しのため、そちらは止まっています ^^;)

 しかし、もし興味がおありなら、最初から武術という少し高い敷居を越えなくとも、「歩く」「立つ」だけでも相当に深いですよ。そしてもう少しとなったら、ただ木刀を振ってみるだけでもこれがまた深いです。
 もし興味があったらいつでも相談下さい ^^)
Posted by Shu at 2005年04月13日 13:53
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