2005年04月06日

教科書検定の問題と対策案


 昨日発表された中学校教科書検定結果について、方々で報道されているところだが、相変わらず、文科省の検定能力ということには首をひねらざるを得ない。

 国定教科書ではなく、民間に著作編集を委ねることで著作者の創意工夫を煥発しつつ、ただし内容の適切さを担保するために検定が行われるわけだが、義務教育は文字通り義務であり、かつそこで使用される教科書は必ず検定済み教科書から採択されねばならず、その検定が不適切であって子弟にそのような教科書に基づいた教育を受けさせることを肯んじ得ないとしても、国民には現在のところ救済手段は用意されていない。

 僕が感じる問題点としては、
1 検定が十分に効果を発揮していない
2 検定に付される教科書が既に多様性を欠き選択余地がない
3 公立小中学校において教科書採択区域選択の自由性がない(教科書は一定の近傍エリアで一括して共同採択される)

■今回の中学教科書検定結果については、既に新聞各紙でも報道され、またネット上においてもさまざまに紹介されていることでもあり、僕がここで細々と論う必要はないものと思うが、例により社会科を使って多少の傾向はざっくりと簡単に紹介しておこう。


 まあ毎度ながら論点にあがる「侵略」「進出」等といった用語、表現についてみると、今回は、日本と周辺国の間でのそのダブルスタンダード性が特徴として取り上げられている。
 例えば、秀吉の朝鮮出兵でさえしっかりと「侵略」と明記する一方で、元寇については「遠征」とし(東京出版、教育出版、帝国書院、日本書籍、清水書院)、また第2次大戦前後の状況についても日本は侵略、ソ連の(しかも戦後の)日本侵攻は「進出」とする(東京出版)など。

 元の「遠征」については、産経記事の皮肉が面白い。下記括弧内に引用。^^;)
 (広辞苑によると、遠征とは「@遠くに出かけること。遠行。特に、遠くに征伐にいくこと。A試合・調査・探検などの目的で遠くに行くこと。『ヒマラヤ---』」。元寇は日本征伐の正義の戦いなのか。それともヒマラヤ遠征のような探検の旅だというのか。)

 正直僕自身は、そのような侵略、進出、侵攻、遠征など、どれでもそこに大した意味を見出さないが(どれでも間違ってはいない)、しかしこと教科書問題ではかねてよりこの辺りの用語が紛糾の的になるのであって、つまり、執筆者側は僕のような感覚ではなく、明確に、確信的に用語を選択しているはずである。
 そこでかつ同じ書物中で用語が使い分けられているということには、当然、使い分けるだけの意図があろう。そうした思想的なものの存在を僕は非常に不愉快かつ問題であると感じる。


 さて次に歴史人物へのスポットへの当て方を見ると、やはりこれも相変わらず首をひねらされる。

 例えば人物コラムで取り上げられている人物を見ると、

 孫文、田中正造、柳宗悦、アンネ・フランク、石井十次、留岡幸助(東京出版)

 長屋王、阿弖流為、坂上田村麻呂、美※(※は、さんずいに「抗」の右側)、藤原星窩、ペリー、知里幸恵、賀川豊彦、坂本龍馬、横井小楠、植木枝盛、中江兆民、杉原千畝、浅川巧(教育出版)

 鑑真、蓮如、雨森芳州、大黒屋光太夫、塙保己一、坂本龍馬、福沢諭吉、孫文、野口英世、吉野作造(清水出版)

 などなど。

 むろんいずれも歴史上の著名な人物ではあるが、それは有る程度歴史好きな僕たちがそう感じるだけであって、実際、初学者たる中学生に歴史を教える際に筆頭にあげるべき、これが人々だろうか、という疑問がないでもないという批判はもっともなことではある。

 ここには、たとえば多くの人々が問題視する扶桑社の教科書で人物コラムにあげられているような、織田信長や秀吉、家康、頼朝といった人々の名はない。
 国民的常識から多少離れているという批判は外れてはいないと僕にも思える。
 
 また、上記は仮に三社をあげたが、しかしこれらのスポットライトの人物リストを見ると、ざっとある種の傾向があることもわかる。

 個人的に他に目にとまったのは、日本文教出版の教科書においては、文中にも北条時宗の名すら一切登場しないとの指摘。
 あるいは、教育出版と日本書籍には陸奥宗光も小村寿太郎の名前も全く登場しない。(たとえば教育出版においては、上記のようなスポットライトを当てる人物と比べて考えると不思議と言わざるを得ない。かつ指導要領では条約改正について「欧米諸国との対等の外交関係を樹立するための人々の努力に気づかせるようにすること」とあるにも関わらず、である ^^;)


 あるいはまた、日露戦争の意義には触れずとも、一方でロシア革命についてはこれを賛美(「平和と民族独立を求める人々に希望を与えました」(日本書籍)、「資本主義に不満を持った世界の人々に希望をあたえ」(東京出版)etc)、社会主義経済体制についても肯定的に記述(帝国書院、日本文教出版等)している。

 もちろん、当時にあって、革命に希望を与えられた人々がいたことも事実であろうし、社会主義経済にも利点が皆無というわけではない。だからこれを書くこと自体を誤りとは僕はしないが、しかし、全体の中でのバランスということを考えれば、やはり特定の思想立場に立脚しての力の入れようが鼻につく。
 無論のこと、当該体制下での大規模弾圧や粛正等には一切触れていない。


 きりがないのであと一つ無視し得ないものを書いておくと、
 公民教科書では、在日韓国人、朝鮮人について、選挙権や公務員になることが制限されており、こうした偏見差別をなくすことが今後の重要な課題であるという一方的な主張を、既定事実であるかのように、教育出版、東京書籍、大阪書籍、帝国書院、日本書籍、清水書院、日本文教出版が記述している。

 ちなみにこの点について唯一扶桑社は、「国家の意思を形成するという主権にかかわる権利であるため、外国籍の人には保障されないという意見もあり、議論が続いている」と書き、賛成論、反対論の双方の新聞社説を掲載している。

 (この点を見ても、「偏っている」のは一体どちらであるか、世間の一部の人々の扶桑社批判にも首をひねりたい)



■さて、そして僕が問題としたいと冒頭に書いたことのまず一つめ。
 それは、文科省の検定能力に疑問を感じるということ。

 上記の例は、いずれも今回検定を合格した教科書だ。たとえば自ら示した指導要領を明らかに満たしていないものもパスさせている。
 最後に例示した公民の外国人参政権については、(扶桑社の言うとおり)現に今日議論が続いているはずのことでもあり、ほぼ全ての教科書における記述が、非常に偏った(というより誤った)記述であるにも関わらず平気で合格させている。
 「韓国侵略の元凶である伊藤博文」と紹介する(帝国書院)に至っても、ここまでくると思想、歴史解釈というよりも相当に事実誤認にも近づいている。

 文科省の検定といえば、以前には外務省の圧力によって扶桑社教科書を不合格にしようとした(マスコミリークにより失敗)ことも記憶に新しく、上記のようなこととも併せ、果たして検定を行うに足る能力があるのか、あるいは能力ではなく公正さを信じるに足るのか、大いに疑問だ。

 検定の裁量範囲については、例えば家永教科書検定裁判における最高裁判断などを見ても非常にわかりやすく示されているが、到底、そうした適切な裁量が行われているとは思えない。(珍しく、範囲を逸脱しているのではなく、全く範囲内の裁量が適切に行われていない ^^;)

 そもそも教科書の検定ということ自体について、左派グループにはこれを非難する主張が多いが(彼らは、国家の介入を嫌うという意味で)、そうでなくとも、果たして官僚レベルでこれをやらせておいて良いのかという疑問は、こうなってくると近頃僕も感じないではいられない。

 官僚の権限というものは、政治によって与えられ、かつ政治の示した基準に則って行われる限りにおいて認められたものである。
 たとえば教科書検定について言うならば、政治レベルから順次ブレイクダウンしてきた指導要領にすら準じて判断していないとなると、そうした恣意性を官僚が持つべき根拠はどこにもない。
 もっとも、検定は諮問にもかけられ、かつ大臣の名において行われてはいるのだが…より実態に踏み込んだ整備が必要ではないか。

 たとえばこれらの教科書を国会の場で供覧して、どれほどの国会議員が内容に満足するだろうか。(少なくとも自民党と民主党の半分ほど、そしてそれは国民の多数派を代表している)



■つぎに、選択の余地ということについて。

 さきにも書いた通り、教科書が国定ではなく検定制をとっているのは、民間の著者編者による創意工夫の余地をとり、そうした多様性を期待するというのが趣旨である。
 検定は質の保障と、指導要領に基づく要教育事項の網羅を確認するためのものであり、画一性を求めるためのものではない。

 しかるに、現実はどうか。
 検定に阿るあまり画一的になるのであれば(それは望ましくはないことだが)まだしも理解はできる。しかし実際はその逆に、あるいはそれとは関係ない面で、実に画一的思想で統一されている。

 どのような点をとってもたいてい「扶桑社を除き」という断りつきで、残る他社はほぼ同様の思想的立場で統一されている。
 さきの外国人参政権の記述にしても実に顕著だ。しかもこの問題に関するそれらが記述する思想は、実社会においても決して多数派というほどにも至っていないにも関わらず、教科書ではなぜかほぼ全社が同一の見解を一方的に主張している。おかしなことだ。

 さてなぜこうなるのか。
 せっかく国が「著者の創意工夫の余地」を提供しながら、しかし実際には著者にそれが許されない状況、これはどこからくるのか。

 遠回しに言えば、それは資本主義原理によるものだろうと僕は思う。
 出版社は、消費者の気に入る商品をつくっているだけのことであり、それは資本主義社会のある種の宿命だろう。

 で、その消費者とは誰か?
 つまり、より直接的に言えば、教師たち、それも組織的力を行使し得る教師たち(これが彼らの消費者)の気に入る商品を、会社として作らざるを得ないというだけのことではないだろうか。
 採択されない教科書は売れないわけだ。

 まあ言うなれば、扶桑社は儲からない仕事に手を出しているわけだ、少なくとも教科書事業においては。
 内容が例え全面的に僕の気に入らない内容であったとしても、その気概だけは、僕は買うだろう。^^)

 消費者に多様な嗜好がなければ、生産物の多様性は萎縮する。かつこの消費者が国民一般ではなく(それなら多様性もあろうが)、教員組織となっているところに問題があるのだろう。

 こと教科書に関する限り、検定制を採る意味などないまでに、そこに多様性などというものはない。
 あるとすれば、デザインや挿絵程度の話だ。教育理念上、「選択」するほどの価値はない。

 もっとも、歴史、公民については扶桑社の登場で、若干の選択性が現れたのは良いことだが、他教科については十年一日だ。特に国語や家庭科などはひどいものだ。国語・家庭科というよりも、思想教育科目となっている観がある(もちろんここにも多様性などはない。



■国民レベルでの教科書選択性の無さ

 さて、前項の問題が克服され、仮に教科書に多様性が出てきたとしよう。
 それでも、国民レベルでの選択性は無いに等しい。

 まず義務教育での公立学校については、校区というものがあるのであって、自由自在に学校を選ぶことは容易ではない。
 かつ、教科書の採択というものは、公立学校においては、一定の地域で一括して採択するのであって(共同採択エリア)、異なる教科書を選びたいと思えば、隣の学校に行くでは済まず、全く遠隔の地の学校を検討しなければならない。(平均すると、一つの共同採択エリアは3つの市郡で構成される)

 つまり事実上、いかに納得がいかずとも、地域がその教科書を選んでいれば、親としてはなかなかいかんともし難い。

 僕などは、近頃、社会や国語などの教科書を見るにつけ、学校自体に子供をやりたくない気分だ。
 しかし、僕自身が自分で教育するに吝かではないものの、一方で教えたことを一方で否定するということが子供の教育に良いはずもなく、かつ、社会性という教育価値からも、学校に行かせないという選択肢はとり得ない。

 まあ、ある種の泣き寝入りということだ --;)

 制度への信頼さえあれば、そもそもこうしたことを考える必要もないのだが、現に使用に供されることになる教科書群を見ると、とてもおちおちしていられない気持ちになる。



■対応策

 もちろん、案、それもざっと思いつく粗案だが。

 まず、教科書出版会社について、
 あの業界は、非常に損益の厳しいところにあると聞いている。そのため、教科書の採択の如何はもちろん、それ以下の各種教材の売り込みについても、相当ギリギリの営業をしており、現場レベルでの癒着等も決して少なくはないようだ。(営業担当もつらかろう…彼らも生きていかねばならない)

 そこで、二通りのことを例えば思いつく。

 ひとつは、教科書指定業者の選抜ということを行い、ここに選抜された業者については、採択されたエリアの数に関わらず、検定に合格して採択に供される段階で、国から一定の収入を与えるということだ。
 極論すれば、どこからも採択されなくとも、元を取り、多少の利益を保証する。この際、教科書事業自体を一種の公共的事業とみなすということになる。
 そうすれば、本来の「著者編者の創意工夫」「多様性」を涵養し易い土壌には多少なるだろう。


 もうひとつは、体力ある企業の参入促進である。
 周知のごとく、教科書出版社は、ほぼ教科書及び学校教育資料の専業会社が多い。一方で、数ある有力出版社はこの分野に進出していない(できていない)。

 さきに、扶桑社は(教科書事業)では儲からない仕事をしていると言ったが ^^;)、そんなことができるのは、扶桑社が教科書、学校教材の専業ではなく、本来の一般出版事業で十分な収入があるからである。つまりは体力が違う。教員組織の口先に踊らされる必要も、脅しに屈する必要もない。

 さてそこで、教科書出版に大手の出版社の参入を勧奨するというのがもうひとつの方策だ。勧めるにあたっては、多少の助成や優遇手当があってもよい。
 学研でも講談社でも三省堂でも増進会でもっ ^^)
 今の教科書業界については、現在のような体たらくを続けるのであれば、この際、死んでもらう。それがいやなら、彼らはあり方を考えねばならない。(という恫喝だけでも多少の効果はあるかもしれない)



 次に検定について。

 これは、文科省における検定を、より明確な基準により、むしろ杓子定規にその基準に正確に従って行われるものに整備すること。

 これで様子を見る必要があるが、あらたまらないようであれば(恣意性が払拭し切れないならば)、委員会制度的なものであれ何であれ、政治レベルでの関与機会を最終ラインに設けるべきかもしれない。
 少なくとも議員は国民の代表者であって、判断の重みは官僚のそれとは異なる。
 議員は選挙によって行動を制限されるのであって、彼らが自らの判断過程で気に病むのは選挙区の国民の声であって教員組織の声にはもちろん、文科省、外務省の圧力を偏って受けはしない。


 最後に、国民レベルでの選択性について。

 これについては、正直完全な策はないだろう。
 と言うより、本来、そこまで求められるはずのものではない。つまり制度がしっかりしていれば、国民レベルでそこまでのことを気に病むことはない、というのが理想的であるはずだ。

 そこで僕としても、たとえば前記二項のような対策が機能して状況が変われば、そうした国民レベルでの選択性までをも求めはしない。

 ただし、リコール的な制度、採択再審要求などの、住民単位での物言いシステムはあってよいかもしれない。


posted by Shu UETA at 20:42| Comment(0) | TrackBack(1) | 天下-教育・科学・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Tracked: 2005-04-06 22:56
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