2005年03月16日

少子化全入時代と新制大学

 先日テレビを見ていたら、何かのニュース番組の中の特集で、大宮予備校のいくつかの校舎閉鎖に関するドキュメントをやっていた。
 僕自身は関東の子ではなかったので、世話になったことも選択肢に入れたこともなかったけれど、社会人になってからは東京や埼玉にも住んでいたため、かなりの大手予備校であることは知っていた。

 教育畑ではなく事務方のある人物を追う形で番組は作られていたが、生徒減少による経営悪化への対策として、例えば自習室の利用可能時間を午前6時半という早朝に前倒ししたり、あるいは自習室にドリンクバーを設けてフリードリンク制を導入したり(かの予備校はもとより自習室が売りでもあったと思うが)、数年前には考えられなかったような街頭でのビラ配りに事務長のような彼をはじめ総出で取り組んだりと、苦心のほどが描かれていた。
 (もっとも、このような時代なればこそ、ドリンクバーなどそんな雑技よりも本道での評価が生死を分けるはずだとは思うが)

 一方、大手予備校の閉鎖といえば、校舎どころか、まるごと閉鎖、つまり廃業というのでちょっとした話題になったのが、両国予備校だ。
 ここも(近年の一部での悪評は措くとして)老舗予備校だ。一時は(それもそう昔ではない)5000人の生徒、200人の講師を抱えたというが、今年度はついに生徒も500人ばかりとなり、さる今月8日の授業を最後に閉鎖とは相成った。

 僕は一応のところ表芸が戦略戦術の研究・運用(軍事が主ではあるが)であるので、いきおい企業経営ということにも旺盛な興味を持っており、昨今の大手予備校の経営戦略の動向も興味津々で面白く眺めているが、それとは別に、受験生人口の減少ということ、いや正確にはそれが引き起こす影響について、彼ら予備校とは別の点である種の懸念を持っている。
 それは、いわゆる大学全入時代とも言われる将来図についてだ。

 僕はそうした時代が引き起こす可能性がある、大学全体の質の低下、あるいは大卒ということの無価値化(これまでも既にそうであったと言えないこともないが ^^;) への対応と、それとは別に今日においてさまざまに叫ばれ出している大学教育の質の問題の解決ということを併せて、新しい高等教育の学制追加ということを考えている。

■シフトは、まずは浪人生減少から

 少子化とその影響ということはさまざまな分野から叫ばれていることであり、今さら何ら耳新しいことでもないが、早くも(いわば先陣を切る形で)大手予備校が急速な経営悪化を迎えているというのは、単に子供の減少という影響を1次的に受けるというよりは、大学の入学定員と受験生の数ということからくる2次的な影響が大きいようだ。
 つまりは、浪人生の減少、である。

 ちなみに先述した両国予備校は、浪人生の減少ということを経営悪化の主因として明言していた。

 文部科学省の推計では、現在13万人程度いる浪人生が(04年度)、08年度(たったの4年後!)には2万4千人程度にまで減るとしている。

 浪人生とは、言うまでもなく、大学に不合格になって次年度再度の受験を志望するひとたちである。
 大学の数をそのままに、受験生の数が減れば不合格者も減る、いきおい浪人生は減るというわけだ。(あくまでマクロ的に見た話だが)

 予備校というものは、その主たる収入は、現役高校生よりも浪人生によって得ている(いわば全日制生徒として)のであり、浪人生の減少ということは実に痛い。

 そこで彼らが目を向けるべきは、ひとつは現役生重視へのシフト、現役生の取り込みであり、もうひとつは社会人達である。
 社会人達とは、ひとつには大学院入試対策など、ひとつには資格系の対策だ。

 僕の知る限りでは、たとえば駿台は現役生専門校舎をひとつ立ち上げた。
 Z会には、今では何と、院試のための講座が何コースも用意されている。


■全入時代

 実際には人気大学には依然として高い競争倍率で志望者が受験するのであって、完全な意味での大学全入ということは言えまいが、しかし、それは社会的な失業率の高低を扱う場合と同様、マクロ的にはやはり(近似的)全入時代というものは招来され得るだろう。

 理論的には、全体的にとらえた場合の大学進学の敷居が下がれば、大学生の(あくまでこれも全体的)成績というものは押し下げられる力学が働くだろう。
 また、現在でも既に定員割れにより全入となっている大学はいくつもあるわけだが、そうした事態がより増加するのは当然だろう。

 そうであれば、大学進学者全体で見るならば、平均的な質の低下ということは免れないだろう。

 もちろん、ここでは、それで構わない、大学は入ることより、そこで学ぶことが重要なのだから、という考えもあるだろうし、いや、これはそれなりに問題であるという考え方と、見解の分かれるところでもあろう。(もっとも、入る時点での成績不足が、進学後の教育に支障を来しているとの声は既にここ数年大学関係者から叫ばれてはいるが)

 僕は後者、つまり、これをそれなりの問題としてとらえる立場で以降考えている。


■大学の間引き?

 もし全入的な状態の普遍化が前述のような問題を引き起こす可能性を無しとしないならば、短絡的には、少子化に合わせて、あるいはむしろそれをやや上回る率で大学自体の数を減らすということが、机上論的には思いつかれるところだ。

 しかしながら、国が政策として大学を間引くことなど、権限からしてもできようはずはない。

 しかしながら、国は私立大学の助成等に今後そう力を入れる必要はないということは言えると僕は思っている。
 状況によりけりではあるが、まさに目下の状況においては。

 社会の状況変化に合わせ、旧来態勢を維持する方向に梃子入れをするのは賢明ではなく、むしろ、競争の中での陶太と工夫が為されるべきだ。

 たとえば非難囂々を浴びた銀行への公的資金投入は、あれは銀行を助けるためではなく(結果的には銀行は助かるのだが)金融の安定という国民全般の利益のために(その妥当性はともかく意図としては)国費を投入したのであって、個々の不良経営者を助けるためではなかった。

 いま私立大学の経営を国が支援する目的が、果たしてどのような意味で国民全般と、あるいは日本国にとって求められるものなのか、考える必要があるのではないだろうか。
 (もちろん、研究設備投資などの助成は研究機関としての大学の機能を向上させるものであり国民の利益に叶うのであって、中級以下の大学における経営上の問題にまで「平等に」ばらまかれることを恐れているという意味だが)

 なぜ特にこのようなことを言うかといえば、まさに今日、改憲作業のプロセスにおいて、これまで不透明であった私立への助成ということを、明瞭に盛り込もうとしている様子を見てのことである。
 これらは長年にわたり私立大学から求められてきたことであり、そして以前はそれが適当であったろうけれども、今日の情勢においてはむしろそれは日本の長期的利益に反する可能性も出てきている。
 ところがこれまでの経緯もあり、今やっとといった具合にこれを盛り込もうというのは、さながら長大な恐竜の神経伝達同様、いかにもタイミングを損なってちぐはぐなものではないのかとも思える。

 しかし今述べたようなことは、いずれにせよ消極的方策といったものの一つに過ぎず、積極的に大学の数を減らすなどということはあり得ない。(当然、すべきでない)


■新学制

 大学を間引くなどということが出来ない以上、次に考えるのは、かつての昔に大学が占めていた社会的位置づけを、別のものによって再来させるということである。

 つまり僕の構想というのは、高校卒業後に、大学とは別の選択肢、それもより高等で魅力的な選択肢を用意するということである。
 戦前までの学制と同様、学制というのは何も一本道である必要はない。(僕個人としては、大学に至る以前の段階、つまり中学や高校の段階で既に複数路線を設定したいと考えているが、それはまた別の機会に)

 大学と別に新設するものの名称については未だ考えついていないが、仮に今ここでは「新制大学」と呼んでおく。(何かいい名称はないかな…)

 新制大学は、国策として現在の国立大学のうちの少数を改編して整備する。バランス等を考えると、かつての旧帝大をベースにするとちょうど良いかもしれない。

 この新制大学は、今日の大学教育において懸念されているさまざまな問題を解消する方向で、大いに新しい発想を採り入れて、従来の大学という枠からは全く自由な発想で整備する。

 それ自体は、大いに有識者会議なり諮問会議なりを開き智恵を集めて構想するべきだが、例えば、(既に一部で進んでいるような)大学院と学部の一体化や、さらにはその並行履修、研究であるとか、学際的に自由な履修と研究、フリーエントリー制(飛び級的な意味も含めての無学年制)、教授あたり学生数の少なさ、キャンパス内の居住施設の充実(教授も学生も)、留学生や海外研究者の生活、勉強、研究の利便性、また終身学生権(いつでも学生・研究生復帰可、図書館等施設利用可)等々、これらは単に僕がたまたま考えていることに過ぎないが、これは単なる例。

 そして、国立の最高学府というもののそもそもの意義として、あらためて、国家有為の人材育成ということを堂々と謳ってよいのではないか。そうした観念が忌避された時代は過ぎ、今日はむしろ待望の声さえある。
 そもそも国立というからには、福祉であるか将来の社会を支える人材育成であるかどちらかしかない。そうであるからこそ、国費で勉強、研究の面倒をみるのだから。

 旧帝大あたりを目途に、まずは一校ないし二校でモデル的に先行整備し、ゆくゆくは各地域に一校程度を整備する。
 やがては、この学制を私立の学校法人にも認可し、その際は、本来の狙いを失わぬよう、しっかりとした基準を設ける。

 そして現在ほとんどの子供が高校に進学するのが当然であるように、そうしたものとしての大学は大学として、学制の中に残る。


■ ■ ■


 とは言え、この構想はまだ最近ふと思いついて間もなく、まだまだ粗雑なもの、構想というよりもそのタネに過ぎないようなものではあるのだが ^^;)、今後熟考してみたいと思っている。


posted by Shu UETA at 21:09| Comment(3) | TrackBack(1) | 天下-教育・科学・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
人口予測と言うのは出生率はともかく、ある程度は予測がつきやすいのですよね。
その年、200万人生まれたのならば、20年後にはその年生まれの人口は移民でもなければ200万人を越えることはないわけで、少子化に伴う顧客の減少対策に学校経営者の対応が遅れていたということだろうと思います。
両国予備校なんかは日本でも名だたる予備校でしたが、廃校は合理的な判断だろうと思います。

私の友人知人でも何人か予備校講師がおりましたが、予備校講師文化というかちょっと外れた知識人階級ですね、そういう人を受け入れる場として予備校講師という職業があったように感じているのですが、それが失われるのがちょっと残念ですね。
福岡に親不孝通りという通りがあるのですが、これはこの通りの先に予備校がふたつありまして、「親不孝者たちが通る通りである」とかつて予備校生たちが自嘲的に命名したことに由来しているのですが、私も高校の時分、その予備校に夏期講習などで通ったものですが、今はどちらの予備校も廃校になり、親不孝通りという通称だけが残っています。
福岡市はなぜかこの名前を認めておりませんでしてね、天神万町通りと言うのが正式名称なのですが、みんな親不孝通りと呼んでいます。
Posted by standpoint1989 at 2005年03月17日 00:08
> standpoint1989さん

 僕は、直接は学生としての立場でしか予備校講師を見たことがないのですが(駿台・代ゼミ)、予備校講師というある種の受け口が無くなる(減少する)のが惜しいような…というところには同感です。
 知識人階級の流れ者的感じ、傭兵稼業的雰囲気に、なんとなく微妙な憧れを持ったこともありましたね。^^;)

 親不孝通りっ!
 僕も付近を訪ねました。
 親友の一人が福岡出身者で、ある夏の休暇に彼の帰省にあわせて観光にでかけ、案内されました。彼はまさにそこで「親不孝者」をやっていたようで ^^;)
 連れて行かれたラーメン屋が実に美味かったのが印象に残ってます。^^)

 福岡ご出身とは意外でした。(いや、どこならいいんだと言われると困りますが ^^;)
 僕は福岡は好きですね〜、上記の折が初めてで、その後に仕事でも春日にひと月ばかり滞在しましたが、随分気に入りました。
 キャナルシティも好きだし、海の中道も、それから実は筥崎宮の辺りも好きです。

 しかし…初めて訪れたのは盛夏の折でしたが、日が沈んでもうだるような暑さの中、歩道の屋台で天ぷらを揚げているのには、かつその狭い座席にくっついて客が座っているという信じられない光景が今でも忘れられません。^^;)
Posted by Shu at 2005年03月17日 08:22
私は福岡市の南区の出身なんですが、ここは中央区と共にいわゆる福岡2区を形成しておりまして、山拓さんの選挙区ですね(汗)。
3分の1くらいは総選挙ごとに有権者が入れ替わるという、超浮動票地区です。
山拓さんと古賀さんがああいうことになって、全国の方々に恥ずかしく、申し訳なく思っております。

屋台は他都市にないのが不思議ですね(少しはありますね)。ラーメンだけでなく、ちゃんとしたデザートなんか出すところもありますから(笑)。


Posted by standpoint1989 at 2005年03月17日 20:49
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Excerpt: 竹島           上聲皓韻島道島 abab 竹島の蠻擧見過ごせぬ 日色危ぶむ隣ゆ 恨める杖置かれ居て 千沸く根を吼え誘へ たけしまのはんきよみすこせぬひいろあやふむとなりゆ うらめるつゑお..
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Tracked: 2005-03-17 16:24
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