2005年03月10日

離見の見


 離見の見(りけんのけん)、耳にしたことがあるひとも多いかとは思うが、そうした向きにはご存知の通り、これは世阿弥の「花鏡(かきょう・はなのかがみ)」に述べられる境地のひとつである。

 離見の見、これは、心がけのようなものとしてとらえられることが多いのだが…果たして単に心がけ、気持ちだけの問題なのだろうか、と僕は考える。
 それは多分に身体意識を対象にしたものではないのだろうか、と。

 世阿弥は「花鏡」にいう、

  また舞に、目前心後といふことあり。
 「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。
 見所より見る所の風姿は、我が離見なり。
 しかればわが眼の見るところは、我見なり。
 離見の見にはあらず。
 離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。
 その時は、我が姿を見得するなり。

 後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず。
 さるほどに離見の見にて見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。
 これすなわち、「心を後ろに置く」にてあらずや。




 舞には「目前心後」ということがある。
 これは「目は前を見て、心を後ろに置け」ということだ。
 客席の方から見た自分の姿というのは、自分を離れた「見」(離見)である。
 そして自分の目で見る自分の姿というのは、自分の「我見」で見た姿であって、離見で見た姿ではない。
 離見の見で見るということは、いわば主客一体の見である。
 このとき、真に自らの姿を見ることができるのだ。

 自分の後ろ姿がどのようであるかわからねば、姿の拙いところにも気づかない。
 そうであるから、離見の見によって主客一体となり、肉眼の届かないところまで察知して、五体相応の幽姿をなし得るのだ。
 これがすなわち、「心を後ろに置く」ということである。


 今日、この離見の見ということは、さまざまな分野で座右の銘ともされ、心がけている人々もいるようだけれども、時折それらを耳にする限りでは、文字通りまさに「心がけ」としてとらえられていることが多いようだ。

 たとえば、ある先生は言う。自分がいくら熱心にわかりやすく教えているつもりでも、それが生徒から見て実際に熱意が感じられるとは限らないし、わかりやすいかどうかもわからない。よくよく生徒の立場に立ってみること、と。

 営業職の人も同じように言う。いくら顧客のためと思って熱心であっても、ともするとこちらの一方的な独善に陥りがちである、と。

 こうした心がけは、さきの世阿弥の言からすると、「見所より見る所の風姿」を見よということになるだろう。

 これは、最も普通の言い方をすれば、自らを客観視する視点を持て、ということであり、こう言ってしまうと、これは何ら格別の金言のようでもなければ、少年の成長の一過程のことでもあり、あるいは人付き合いにおいても礼法においてもごく当然のこととなる。

 現代人というのは(特に現代人に限らず人間というものは、であるが、まあデカルト以来…とまで大上段に構えずとも、とかく現代においてはなおさら ^^;) 、昔の言というものを文字通りにとるということはしない。宗教における原理主義があまり世間一般からは感心されないように。

 僕は、かの世阿弥がかく強調し、秘伝のひとつにも数えるような教えが、単に心がけの問題であるようには思えない。

 以前、転居のためごく短期間ではあったが僕が稽古に通っていたさる体術系の古流派では、俳優の堤真一さんが稽古に来ておられたが、師範は、堤さんの舞台の仕事について、意識を自分の身体より後ろに置くということをアドバイスされたと聞いた。(剣術同様、僕は未だ流派を名乗り得る段階に達していないので流儀を明かすのは遠慮しておく)

 この「意識を身体より後ろに置く」というのは、文字通り、意識を自分の身体の外に出す、この場合は後ろに、ということだ。
 堤さんは、素人ではなく、その流派を学んでいる方であるから、この言葉の意味はすぐに了解され、しばらく実地に試されたようだが、すると、演出家や関係者の方から、立ち姿が格段によくなった、存在感が出た、という評価が次々に出たという。
 僕は俳優としても堤さんが好きだが、舞台といわず、軽いドラマに出演していても、その佇まいに一種独特のものがあることを感じている人は多いのではないだろうか。

 今にして思えば、かの師範が簡単にそのような助言をなさったことは、故あることかなとも思える。
 というのも、その流派では、必ず、目が向いている方とは反対の方(たいてい自分の後方)に意識を向けておくことというのを、初心者の段階から徹底的に教える。僕自身、入門して最初の日に教わった稽古の着意事項がまさにそれだった。

 言うまでもなく、能というものは武術と深い関係があり、ここでも何度か例にあげた通り、能の金春流と柳生新影流の交流、秘伝の交換とは最も有名な話だ。柳生但馬守(宗矩)が大変な能狂いであったことも有名だが、一般に往々描かれるような、単なる趣味キチという話であったかは、僕は大いに疑問視もしている。

 思うに、心を後ろに置くというのは、もっと文字通りの意味にとるのが本来の教えではないだろうか。
 もちろん、舞を見せる者として、自らを客観視するという心がけはむろん大切なことであって、それももちろんであるが、それに加え(特に先の引用の後段など)、心を後ろに置くということ、つまり意識を自分の後ろに置くということこそが、この段での核心ではないか。
 しかも僕が思うには、客からの視点というよりも、自分と客とを同時に見る視点、つまり舞台全体の視野において自己を見ることこそが重要なのではないか。

 現代人はこれを読むと、心をどこかに置くなどという非現実は自動的に無視してしまい、無視せずとも、せいぜい何かを例えているに過ぎないと考えてしまう。

 ところが、例えば武術においては、意識あるいは身体意識をコントロールすることが非常に重要であり、現実にそうした感覚を日々磨くべく努めるものだ。

 これは、以前別の記事(「極意の解明」近藤孝洋著」)で紹介した「「極意の解明」においてもたいへんわかりやすく説明されているのだが、

 まず、少なくとも、われわれは自分の身体の内側では、身体意識というものをもっていて、その意識の濃淡ということが誰にもある。
 その意識の濃淡というのは、その時の状況によって常に変化はしているが、たとえば手先仕事をしていれば、手先に意識が濃くなっている。
 背中を触ったら振り返ってくださいと言われてじっと待ちかまえているときは、背中の意識が濃くなっている。
 そして意識が濃くなっている場所(意識を向けている場所)というのは、通常より感覚が高まり、敏感になっている。
 注射をされるときは、その場所に意識が向かい、身体意識が濃くなっているので、おそらくは、余計に痛いはずだ。^^;)

 こうした身体意識の移動をコントロールし、さらには相手のそうした変化を読み取るということが、武術の目指すところの一つではあるが、今日の主題ではないので、ここには今日は立ち入らない。

 さて、そしてこうした身体意識というものは、実は自分の物理的身体の外側まで出すこともできる。あるいは拡張させるというべきか。
 イメージしやすいものとしては、たとえば自分の身体の中心線や重心線を意識する際には、その「線」とは単に頭頂から足裏までの間の線ではなく、より高いところから地面の下までつながる「線」として意識されるし、そうすることがより効果的だ。つまり線分ではなく真に直線として。

 そして、そうした意識の拡大ということは、何も舞や武術でことさら意識して研鑽せずとも、実は、誰しも自然にある程度行っているのではないだろうか。

 これも以前何かの記事で書いたが、たとえばこうしたものだ。
 僕がスズメの餌付けを始めた頃、米粒を出しておいてから、スズメが来るのを楽しみにしていたわけだが、そのベランダはリビングと和室には面しているが、書斎的な部屋は面していない。そこで、スズメを気にしながら書斎的な部屋の方に来て机とパソコンに向かうのだが、そしてドアも閉め、音楽もかけ、外の音など全く聞こえないにもかかわらず、あまりにも気にしている…まさに、文字通り心の一部を分けておいてきているような、そんな感じでいると、ふとスズメが来たのがわかる。行ってみると、やはりスズメが来ている。

 こうした感覚は、なんとなくわかる人も多いのではないだろうか。

 僕の感覚では、ある所にいてそこからどこかへ気持ちを向ける、という感覚と、ある所にいるのだが、別のどこかに意識の一部を分けてあるという感覚との二種類がある。(僕の場合、後者の感覚の方が、スズメはキャッチしやすい。)

 意識を向けるというのは、心配事に向けることも、誰か大切な人に心配を向けることも、親が遊びにいった子供に気を向けるということもあるだろう。

 意識を分けるというのは、形見というかつての習慣などを思い出す。これは、亡くなった人の、というのではなく、長く別れる際にこれを形見にといったような。

 あるいは、やや自然科学的なものを逸脱すれば、残留思念などといったものを思い出しもする。ある人の持ち物から、特殊な能力でもって持ち主の意識を読むといったことだ。
 これなどは、もしそれが本当なのであれば、僕らは、意識せずとも、自らの意識をぽたぽたと落としながら生きているのかもしれない、などと考えてしまう。

 虫の知らせということも、それが何ら科学的な根拠を持たないにもかかわらず、実感としてそういうものを感じたことがある人は多いだろう。
 これなども、無意識による意識の拡大ということによるのかもしれない。(もっとも、その相手を気にかけているという意味で、無意識ではなく意識的なのかもしれないが)


 僕は掃除・洗濯・洗い物といった家事を、いつも当面の課題の稽古に使っているのだが(たとえば肩胛骨の操作などには実に効果的だった)、ここ数日は、離見の見、自分を後ろから見るということを意識している。

 理想とするところは、僕と対者の両方を、後ろから、あるいは真上や横から見るという境地だ。これはまさに見切りの極意につながるだろう。

 境地の進捗があれば、また記事で紹介したい。

 実はまさしくこのことは、「彷徨える帝(上) (下)」という小説に書かれているそうだ。僕はまだ読んでいないが、これから借りて読む予定。^^)
 メールでもらったその本からの引用にはこうある。
  我目で見た相手の動きと、相手の目で計った自分の動きを重ね合わせ、二人を頭上から観察しているような目を同時に持つこと。それが離見の見であり、見切りの極意である。


 また読んだらレビューする予定。^^)


posted by Shu UETA at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 武術/身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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