2005年02月23日

高校レベルの専攻って

 イラクどこ?知らない44% 高校での地理履修の有無で差(産経)

 このニュースは、どうも意外に、ヘタな国際情勢や政局なんかよりも、余程のインパクトをもって受け止められているようで、TVでもblogでも既にさまざまな反響が出てる。^^;)
 ので、皆さんも既にご存知のことだろうが…

 まず第一に、ことイラクに限って、高校の地理の履修の有無など関係あるまいに、というのがひとつの感想だろうと思う。
 まあ世の中の出来事に多少関心を持ちたまえよ、といったところか。

 が、そういうことに無関心であることは、今日そう異常なことでもないのかもしれない。大学生とはいえ、興味がないことは興味がないということで。

 僕はそれとは別に、「高校の履修の有無」ということに、毎度ながら引っかかってしまう、実は。

 毎度ながら、なんて言っても、僕以外の人には何が毎度なのかさっぱりだろうけれど、それはこういうことだ。

 なにかと、「いや日本史はとってないから」あるいは「世界史とってないからさ」とか「私立(文系)で数学は関係なかったから」「物理なんてやってないもん」であるとか「私立(理系)だから歴史はぜんぜん知らないよ」、「古文なんて関係なかったから」云々ゝゝ…

 こういうことは、しばしば耳にする。

 こんなことになってしまう理由には二つあって、

 1 高校に選択履修科目がある
 2 特に私立大学専願者は、受験科目にない科目を切り捨てがち

 僕は、実際それほど教養主義者というほどでもないのだが、例えば今回のイラクの例ではないけれど、教養といってもごく敷居の低いレベルで、あまりに教養を欠く、それも自ら好んで積極的にそれを欠く人が多いことが、いつも残念でならない。

 まずひとつには、果たして高校程度のレベルで、主要な科目において、言わば「専攻」などさせる必要があるのだろうか、とも思う。

 たとえば社会科で、日本史も世界史も地理もやることが、そんなに不合理だろうか(もっとも、果たして日本史と世界史を別立てする必要があるのかということもあるが、それはまた別の話)。
 それが不可能であるほど一つを深くやるのだとすれば、それほど深くやるより他のものもやったほうがよくはないのか…
 普通科高校は、特定の分野の専門家を育成するような教育機関ではない。
 歴史も地理も現社も全てを網羅できないほど、そのうちの一つに時間をかける意味は何だろう。

 ちなみに、僕は自分の高校があまり好きではなかったのだけど、今思い返して唯一良かったのは、文部省の基準など無視して、文系クラス、理系・医進クラスを問わず、社会も理科もほぼ全てやったことだ。
 僕は一応文系クラスだったけれど、物理も化学も生物もやった(かつ個人的興味でセンター試験は地学で受けた:余談)
 理系クラスの友人も、やはり世界史、日本史、地理をすべて履修した。
 かつセンター試験は何故か全員受験(事実上の義務的に ^^;)

 そして、そんなものだと思っていれば(事実思っていた ^^;)、別段そんなに余計に苦痛というようなものではない。僕も大の勉強嫌いだったけれど、であればなおさら、苦痛であることには、科目の数などあまり関係ない。

 で、まじめに取り組まないにせよ、定期試験はあるのであって、直前にヤマをはって丸暗記するだけでも、そして日頃居眠り半分に授業を聞いているだけでも、なにがしかは残っているものだ。

 専門化などというのは、もっと高度なところに進んでのことであって、高校でそんなことをする必要などない、というより、害があると僕は思っている。

 やがてどんな専門分野に進むにせよ、それと直接関係のないさまざまな分野の知識が、どれほど思考や直感、直観の土壌を豊かにしているか。
 僕自身は、それを非常に実感してきたし、そうした「何か」を欠くかに見える人たちを見てきもした。

 僕自身の程度の低い実感を持ち出さなくとも、僕の尊敬する数学者や優れた実績を残している科学者の多くは、いわゆる文系的素養にも秀でている人が少なくない。さらに、それが自らの実績に大きな影響を与えていると語る人も多い。

 人文、社会科学系の人であっても、経済学のような当然数学を必要とする分野に限らず、優れた思考を展開する人々には、数学的論理力にも長けている人が多い。


 高校では、もう少し視野を広く学ばせておくべきではないだろうか、と僕は考えている。


 さて、もうひとつの要因、それは、特に私立大学を専願する学生たちの中に、どうせ受験科目にない科目は捨ててしまえという雰囲気が強いことだ。

 そして、このこと自体は、いざ受験生の立場に立つならば、むしろ当然の合理的な戦略判断であって、これを責めることはできまい。
 ただ入試突破のみをゴールとした戦略であるという批判はできるにせよ、しかし限られた時間で当面の目標を達成するほうを優先するのは人情だ。

 さきに述べてきたような理由で、彼ら自身の将来のために(そしてマクロ的には将来の日本のために)、僕はあまりそうした態度をお薦めはできないものの、これは法律と国民の関係と同じで、やはり「制度」が「人」の価値観や行動に影響を与えないでいることは難しい。

 この「制度」とは、ここではつまりは、私立大学の選抜スタイルということになる。
 たとえば文系だと、受験科目は英国社(社会から1課目)というたったの3科目しか課されないということが普通だ。
 一般に一流と、あるいは超一流などと衆目されている私大でも、たいてい同様だ。

 大学という最高学府、しかも一流だといわれ、後々さまざまな分野で活躍することになるその一流最高学府卒業者が、しかしわずか18才の折に受験した課目以外の課目分野については、ほとんど常識教養的なものすら欠くということは、全くめずらしくない、どころか、社会に出れば実にしばしば出逢い、嘆息させられる。

 もちろん、これは、特に格別の志でもない限り、人情としてそうなりがちであるというだけであって、何も私大専願者が皆そうだと言っているわけではない。上述したような苦言を全く寄せ付けないような人もたくさんいる。

 学校は学校で卒業せねばならないから、厳しい学校であれば、「捨てる」といっても限界があるし、そうでなくても、普通に授業を聞き、普通に試験に取り組んでいる人であれば、受験科目以外に特に努力を傾けていなくとも、高校で頭に残すべき程度のことはちゃんと脳裏におさまっているだろうし。
 (ただしさきに述べた、学校カリキュラム的に選択履修となっているものについては仕方がない)

 あるいは、学校とは無関係に、個人的興味でさまざまに関心をもち、読書を楽しみ、幅広い分野に通達しているひともいる。

 だから、私立専願者の皆がそうだと言っているわけではなく、マクロ的にそうしたベクトルがはたらきがちだという危惧を言いたいだけだということを、強調しておく。


 さて、とはいえ…高校のカリキュラム的な面については、まだ研究中で確信していないものの、仮にもし確信すれば、それらを改善することができるが、こと私立大学の選抜方式については、特にどうこう強制できるものでもない。
 まるで私立を目の敵にでもしているようになってしまっているが、むろんそういう意図はないし、また近年は国公立でも「ユニーク入試」などが誇られる時代だ。

 これは難しい問題で、入試を実施する大学側としては、当大学当学部で勉強するに必要な素養を見るという観点で選ぶのは合理的な話であり、そして高校卒業者ならば、それを卒業している以上、格別に全科目について試験を実施せずとも高校履修内容は習得しているはずとするのも実に真っ当なことだ。

 ただ、万事そうであるように、そこに人間らしさ、人情というものが入ってくると、大きなベクトルとして、入試に出なければやらなくていいやという心の動きが出るのも、やはり人間性にかなった話だ。しかも相手は子供だ。


 もったいないなあ、とは思うものの、こちらの、入試との関わりの方の問題については、いかんともしがたいし、また、あえて棹さす必要もないのだろうな…とは思いつつ、やはり「もったいないなあ」と感じてしまうこと、しばしばしきりである。^^;)

 しかし話を返すと…大学生の約44%がイラクの場所を知らないとは…
 (かつ、現に大学生と高校生の差がほとんどないことも、何ほどかのことを示しているように思える)

 僕は今日やや連想的なテーマで書いたけれども、今回の調査結果自体は地理履修の有無とはそう関係ないのだろうなとは思う。だって、世界史は必修なんだから。世界史があそこの文明を無視できようはずもないのだし ^^;)


posted by Shu UETA at 23:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 天下-教育・科学・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大学受験の科目として選択するかどうかって
一般的に大きいようですね。
よく、受験よりも大変なことがたくさんあるっていいますが、多感でいろんなことに興味があって、楽しいこともたくさんある"その時期"に一つのことに集中するっていうのはかなり大変なことだと思います。というか、人生の中でも、なんだかんだいってかなり上位に来る大変さかなって思います。それゆえ、後々まで大学の学歴がついてまわるのでしょうし。
話は逸れてしまいましたが、大学入試の形式はもう手のつけようがない以上、大学の教養教育でなんとかするしかないのでしょうが、大学の教養科目というのも自分の専門分野に偏った、ただの教員の自己満足な講義になりがちです。これは、大学の教養科目で与えられるべき「教養」がしっかりと定義されていないのと、基準となるような教科書がないからだと思います。先生は自分の関わった教科書を売りたいみたいですしね。
Posted by jk at 2005年02月24日 14:24
 そうですよね〜
 しかし大学というものも、その主旨からすると、まして、研究がしたいだけなのに授業なんぞを「やらされている」^^;) 教授たちに、そんな過重な期待をかけるのも酷かもしれませんね。--;)
Posted by Shu at 2005年02月24日 18:14
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