2005年02月09日

自己組織化とネットワーク

music SynchronicityT / The Police

 先日、内田樹先生のblogに、構造と自己組織化という記事があり、僭越ながら、平素愚考していることと符牒の一致する概念が、より明確に述べられており、思わず膝を叩く思いがした。
 (氏のblogについては、以前、甲野先生の講習会の記事で言及したことがあるので、ご存知の方も、愛読している方もおられることと思うが)

 当該記事では、武術における、自己と対者の組織化ということがテーマだが、このことは武術だけの問題ではなく、人間というものの社会的行動の様々に広く適用できる考え方だと僕は思っている。(だから武術は素晴らしい ^^)

 そこで、このエントリも、果たしてどのカテゴリに整理すべきかと迷うところではあるが(seesaaでは一つの記事は一つのカテゴリにしか指定できない)、武術カテゴリに限定してしまうのはいかにも惜しく、僕の考え方では武士道カテゴリにも該当し得るものの、あえて当面、思索カテゴリに入れておくことにした。

 まずは冒頭紹介の、内田先生の記事をぜひ一読されたい。

 さて、内田先生は次のように述べておられる。

  その「構造」に外的なファクターが加わった場合、「構造」は新たなファクターを取り込んで、最もバランスのよい、生き生きとした構造へと「自己組織化」するはずである。

 だとすると、合気道に限らず、すべての武術の形稽古というのは、この単独で存立する「構造」が未知のファクターや負荷(つまり相手からの加撃や妨害)が加わったことで、いったん解離し、その新たなファクターを組み込んだかたちで自己組織化し、「構造」をヴァージョン・アップする無窮のプロセス、というふうに理解することができるのではないか。

 となると、このような稽古のねらいは「不壊の構造」を維持することではなく、むしろ「未知なるファクター」を迎え入れたときに、瞬間的に「それを含んだ新しい構造」を再構築する「柔軟性」と「開放性」の感覚をとぎすますことにあるのではないか。

 手と手が触れあう一瞬のうちに、「私を攻撃してくる相手」をも含んでなめらかに運動するバランスのよい構造を望見し、それを成就するためにもっとも効率的な動線を選んでただしく動く。

 そのような絶えざる自己解体=自己再構築の運動性をたかめることが形稽古のねらいではないのか。

「負けない」とか「崩されない」とかいうタームで身体運用をしている限り、負荷がある閾値を超えたところで術は崩壊する。




 僕の場合は剣が専らで、体術(柔術)の方はまだまだ序の口(かつ合気道は未経験)だが、上記に述べられていることは、剣の操作においても実に同様だと感じている。

 まず「剣」という他者を操作するという点において既に、「自己」という構造に「剣」という他者を取り込んで組織化を行い、新たな「構造」化を行うということが、剣の稽古の第一だと、かつ剣術が他のことに普遍性を及ぼし得る何ものかのうちのひとつだと思っている。
 自己にとっての他者、「異物」を自己に組織化するプロセス。

 さらに、体術のようにまず直接に相手と触れるということはなくとも、剣においてもやはり、相手と自己との関係を構造化するということは重要な意識だと思う。

 こうしたことを可能とするためには、身体をセンサーとすること、身体をアンテナ化すること、僕はそういうイメージをもって、身体でものごと、あるいは関係性を感じ取るということを重視しているが、内田先生が上記に仰る、「「未知なるファクター」を迎え入れたときに、瞬間的に「それを含んだ新しい構造」を再構築する「柔軟性」と「開放性」の感覚をとぎすますこと」というのは、そうした漠然としたイメージの一端を明瞭に表現しておられ、ぼんやりとした霧のようなものが晴れる心地がした。

 そして、こうした感覚を研ぎ澄ました先には、「ネットワーク感覚」(それも「身体感覚」としての)があり、内田先生は「武人の心得としての、用のないところにはゆかないということ」、「誰かが手助けを必要としているとき、まるではかったようにそこに登場する身体感覚」、そして、「用のないところにゆかない人間と、誰かが自分を必要としているときにそれを察知できる人間=用のあるところに選択的にいる人間はおそらく同一の人である」と述べておられる。

 中国には古来、「説著曹操、曹操就到」ということが言われ、これは文字通りには「曹操の話をすると曹操が来る」という意味、諺としては「噂をすれば影」という意味で使われているが、当時怖れられたとされる曹操の神出鬼没性を言い表すばかりではなく、なにがしか曹操について人々が直感した何かを言い伝えているような気もしてならない。
 僕もかくありたいものと、常々思い入れのある言葉だ。


 冒頭、必ずしも武術だけの話ではない、と書いたが、これらのことは(たしかに武術にはそれを育むメソッドがあるが)武術だけではなく、社会における僕らのさまざまな行動にもあてはまる。(内田先生も、震災の折りのことを例示しておられる)

 僕が最も感じることのひとつは、仕事あるいは議論というものにおける、他者に触れての自己組織化である。
 仕事においても、議論というものは、よりよいゴールを目指すという本来の目的から離れ、参加者それぞれの立場、見解のせめぎ合いになるということが起こりがちだ。

 「不壊の構造を維持することではなく、むしろ未知なるファクターを迎え入れたときに、瞬間的にそれを含んだ新しい構造を再構築する」センス、能力とは、そうした場面でも非常に有意義なものであるはずだ。

 これは政治における議論においても、あるいはモノを売り込むという営業活動においても、非常に重要な能力だと思う。

 または、恋愛においても、と僕は思う。
 恋愛におけるセンスとは、人間関係におけるセンスであり、ちゃんとした恋愛のできない人に仕事のできる人もいない(恋愛の機会がない人は別として)と僕は思っているし、同時に、武術に通じるところも多いのが恋愛だと思っている(語弊があるかもだが、「戦い」という意味でのものではない。むしろ反対だ)。

 それは、察知ということであり、距離感ということであり、共同ということであり、そして今日のテーマであるような、「未知なるファクターを迎え入れたときに、瞬間的にそれを含んだ新しい構造を再構築する」能力だ。

 再構築とは、「彼女と僕」というものは、単体で存在する「僕」とは別の新しい構造なのだということであって、それは「僕」と「わたし」の押し付け合いの摩擦と葛藤の場であるべきではない。
 さらにミクロには、こうした新しい構造の再構築は不断に行われるし、一回一回の食事でも旅行でも(下世話な話をすれば)エッチだって同じだ。^^;)
 こうした「再構築」で新しい世界を不断に味わえるときにこそ、恋愛は本当に素晴らしい体験になる。


 こうした意識を、身体感覚の強化、身体のアンテナ化、身体知というアプローチで涵養しようとするのが武術だろうが、もちろん、顕在意識の上で、つまりより頭脳的にこうした感性をある程度持とうとすることもできるだろう。

 僕は、こうしたblogという場での意見交換や議論は、当人にそうした志向さえあれば、そうした自他の関係における再構築化という思考手法を磨くよい稽古場にもなるような気もしている。
 もっともblogや掲示板では、頑として自己を譲らず、「不壊の構造」を維持しようということも可能だが、とりたてて生産的ではなく、かつあくまで自己満足の趣味的な範囲を越えるものではなくて、実際の政策議論の場で通用する、あるいは有用な態度でもない。


 とは言え、でき得ることならば、僕は身体を通してもこうした感性を養うことをお薦めしたいし、僕が政策案の中にいう「身体フロンティア構想」とはそうしたものだ。(過去記事「身体フロンティア」)

 最近読んだ本の中では、時津賢児氏の「武道の力」に、次のような件りがあった。

  幕末明治の時期に日本をリードした侍たちの行動原理になったのは、抽象的な思想ではない。あえて言えば身体化した思想である。彼らは身体の「英知」によって増幅された知識を持って行動できたのだ。聞きかじりのような知識でも、身体の「英知」を通すことによって、「直感的な増幅作用」があった。坂本龍馬、高杉晋作、山岡鉄舟…挙げればきりがないが、彼らの行動力と頭のよさの基となっているのは身体である。彼らの超プラグマチズムは、身体を基にした「良識」と「英知」から出ている。彼らのアイデンティティは思想ではなく身体だった。
 (中略)
 どんなに頭のよい人間でも、その人の身体の方がずっと頭がいいのだという言い方もできる。




 僕はこれに満腔の同意を感じるし、内田先生が本職(フランス現代思想など)において示されるさまざまなご思索にも、僕はこうした身体知の裏付けを常々感じずにはいられない。

 上記引用に強いて僕が付言するとすれば、時津氏も当然お認めだろうが、幕末人のこうした身体知は武士の専売特許ではなく、農漁工商のさまざまな人々にも当時は色濃くあっただろうと思われる。(ただ、武士は武術というメソッドによって、他の人々よりも意識的にこれを磨きやすかったろうとは言えるだろうが。)
 つまり、これから何か身体知なるものを探ってみたいという人は、必ずしも武術でなくとも(たしかに一般的に敷居が高く感じられる面もあるだろうので)、今日では各種のそうした取り組みがなされており、教室が開かれている(やはり大都市でないとまだ少ないが)ので門を叩いてみるもよし、あるいはそうした分野の著作を手にとって自分で試してみるもよし、と思う。^^)

 これまでも度々書いてきたことではあるが、身体意識が高まれば、自分の意識や思考にも大きな影響があることが、本当に自分でわかる。

 なお、内田先生のご著作中、身体論、武術論的なものからは、「私の身体は頭がいい 〜非中枢的身体論〜」を是非お薦めしたいと思う。


 さて、今回の内田先生の記事では、意識の「ネットワーク化」という点についても、今現在僕が考えていることと非常に関わりがあり、あらためていろいろ考えさせられた。

 それは、「自分」とは何だろうということであり、仏教でいうところの「自力ではなく他力」ということであり、また遺伝子学的にいうところの「遺伝子の乗り物としての自己」ということであり、神道的な「三代一身」ということであり、歴史と人ということであり…なのだが(これではよくわからないと思うが ^^;)、、、
 近頃、僕は、自分が思っている(意識している)「自分」とは、(意識していない)より大きなシステムの、単にスポークスマン的なものに過ぎないのではないかとも思ったりする。
 それが言い過ぎだとしても、せいぜい代表者的なものに過ぎないのではないか、と。

(これでもよくわからないと思うが ^^;) 近々、もう少し考えがまとまったら記事にしてみたい。


posted by Shu UETA at 02:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして、内田樹です。
私のブログ日記へのご懇篤なコメントありがとうございました。
拝読して、思わず「ね!そうですよね!」と手を取ってくるくる回りたくなりました。
剣や杖についてはご紹介頂きました『私の身体は・・』にも書きましたとおり、私は武器というのを「身体を延長させた便利な道具」というふうには考えてはいけないのではないかと思っています。
上でお書きになっているように、剣や杖はある種の「他者性」を帯同しています。ですから「一人稽古」というものにも意味があると思うのです。

剣は操作を誤ればおのが指を切り落とし耳を削ぐものです。そのような危険なファクターと「なじむ」こと、身体と剣が一体化して新しい自律的な構造をつくることの意味が理解できれば、後のことはすらすらと進む・・・というふうに術の体系は作られているように思います。

でも、ビジネスや恋愛もそうなんですよね。そういえば。
武道はほんとうに汎用性の高い技術ですね。

斯道ますますのご精進を祈念いたします。失礼致しました。
Posted by uchida at 2005年02月09日 08:57
> 内田先生

 わざわざのコメントをいただき、ありがとうございます。
 その光栄にこそ、僕は朝から「くるくる回りたく」なっていますが、同時に駄文の稚拙さに汗顔の思いです。

 僕は、稽古を通して日々感じるその「汎用性」を、今日の日本人みんなが共有できないものかと、いろいろ政策案を考え込んでいます。(まだ代議士にはなっていませんが、いずれそのつもりではいます ^^;)

 その場合、民間のそうした活動への助成といったものの他、より根本効果的には、学校体育への組み込みといったものが理想的ですが、武術/武道(その場合は合気道が最も理想的ではと考えていますが)となると一部の声高な反対も予想され、だとすると身体操作の体操的なものではどうだろう…? などといった具合です。(もっとも、いずれにしても指導者の養成という過渡期における大問題はありますが)

 岡本の梅も楽しみなこの頃ですが、まだまだ寒中、どうぞお風邪など召さぬよう、ご健勝でのご活躍をお祈りしています。
Posted by Shu UETA at 2005年02月09日 09:24
このメンツの中にコメントを入れるのは非常に恥ずかしいのですが…

「武術をやったことがなく、体が言う事を全然利かない『頭の悪い体』をもつ」ぶんだばです。
でも、武術そして合気道の、内田先生やShuさんのおっしゃりたいことは判る気がしました。
(以前狂言のことを書いたと思うんですが、あれに似た感じではないかと…)

体のことはからきしダメなので、恋愛のことを書きます。Shuさんのおっしゃるとおり、恋愛も自分を愛する力と他人を愛する力がなければできないと思っています。「センス」という言葉が適当かわからないのですが、そしてわたしは恋愛体験が一度しかないのですが、その相手(今の夫)に恋愛の最初のころにこういわれたことがあります。
「君の心の中には宇宙がある」そして自分については
「心の中に指定席があって、まだ君は座れない」
こうやって互いの自我がまったく異なっていたわけですが、これが溶け合う過程というのは、「病気である恋愛」という状態とは別に、非常に興味深いものでした。やがてその自我がもともとの自分のものなのか、相手から影響されたものなのかわからなくなる。
そこにぶつかるとか喧嘩とかはなくて「溶け合う」という以外にいいようのない状態になるんですよね。
まあそうしてわたしの中の「宇宙」は壊れて、相手の「指定席」にわたしは座って、すでに10年以上になるわけですが(笑)、いい恋愛ができてよかったなあと思っています。

意識のネットワーク化ですが、遺伝子の乗り物…というより、わたしは、来し方、学んできたこと、知り合った人たち、などなどの全ての影響が自分の中で体現化する、というような風に解釈しました。
Posted by ぶんだば at 2005年02月10日 00:16
> ぶんだばさん

> 意識のネットワーク化ですが、遺伝子の乗り物…というより

 むろん、この記事でいう「ネットワーク化」というのは「遺伝子の乗り物」とも「三代一身」とも全く別です。^^;)
 僕にしてみれば、ひとことで言うなら「感応」とでもいいましょうか。
Posted by Shu at 2005年02月10日 00:31
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