2005年01月31日

教育基本法改正先送り(中)

(前編からのつづき)

 公明党はもちろんかなり穏当な表現をしているが、在野の反対運動家たちは、より直接的なことをかなり言っている。

教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会より
 現在、急速に愛国心が作られようとしていることには、4つの意味があるのではないでしょうか。まず第1には、「統合理念」として。それは、現在進行する階級化・差別化を隠蔽し、「国民」としての一体感を持たせ、「日本人」としての「誇り」という「癒し」を与えます。そしてそれは、自国内の、そして他国の外国人に対する排外主義を強めます。第2には、「国益」を優先させる心として。国内においても、また、国際政治・国際市場においても、個人の利益ではなく、国益を優先させる心として。しかし、「国益」は、国民や外国籍の住民も含めた市民の利益ではありません。そして、第3には、「服従」へと導くものとして。

 教育基本法は、かつて、非国民を排除し、全体主義を作り上げていった「教育勅語」と同じ機能を果たすことになるでしょう。

 国家は、人々をそのように服従させて、いったいどこに導いていくのでしょうか、それはまさに戦争です。

 即ち、愛国心の第4の意味は、「戦意」にほかなりません。


国家体制再編めざす教育基本法改悪(東大教授 小森陽一氏)
 彼らの考え方は、「伝統の尊重と愛国心の育成」という第一の提言に、はっきりとあらわれている。「古来、私たちの祖先は、皇室を国民統合の中心とする安定した社会基盤の上に、伝統尊重を縦軸とし、多様性包容を横軸とする独特の文化を開花させました。教育の第一歩は先ずそうした先人の遺産を学ぶところから発しなければなりません」。つまり、あらためて天皇=「皇室」を「中心とした「国民統合」のシステム、「国民」の気分・感情を天皇に吸い上げていく機構と精神動員の装置として、学校教育を再編成しようとするところに、「教育基本法」改悪の中心的なねらいがあるのである。

 武力攻撃事態三法案との関連で考えるなら、アメリカと同じ戦争を対等にやれる、「戦争をする国家」づくりのための、教育再編を行うねらいが、「教育基本法」改悪にはっきりとあらわれているのだ。

 先にふれた「新しい教育基本法を求める会」の「国家と地域社会への奉仕」という項目の後半では、次のように述べられている。「国家・社会との関わりを無視して個人生活の充実に専念する人々が増えれば、公・私関係の調整に困難をきたし、ひいては国民経済の地盤沈下、諸外国との協調関係の崩壊を招くことになりかねません」。これが「教育基本法」で重視されている「個人の価値」や「自立的精神」をおさえこもうとする理由なのだ。

 これほど盗人猛々しい論理のすりかえはない。「国家・社会との関わりを無視して個人生活の充実に専念する人々」とはスズキ・ムネオに象徴されるような、自民党の利益バラマキ型の政治家であり、それに追随した高級官僚とおこぼれにあずかろうとした企業の大人たちではなかったのか。

 なぜこれほどまでに、日本の右派保守勢力は、「教育基本法」を敵視し、教育現場攻撃に躍起になるのだろうか。それは、彼らの支配の基盤を成立させてきた社会構造が根本から崩れさってしまったからだ。
 朝鮮戦争特需からヴェトナム戦争特需の高度経済成長期にいたるなかで、日本は国内で製造した商品を、国外とくにアジア諸地域で売ることによって儲けてきた。「冷戦構造」の中での「熱戦」に乗じて利益を上げてきた日本型共同体主義的企業は、「教育勅語」的「皇国史観」で教育されてきた男たちにとっての精神的・経済的復員の場となったのだ。
 日本型共同体主義的企業は、創立者を天皇の代わりとして、軍隊的な上意下達の組織をつくり、そこに滅私奉公的に身を捧げる企業戦士を育成しつづけてきた。これが、戦後日本型の「公・私関係」だった。絶対的天皇制と象徴天皇制の間を、「国体」の連続性としてつないだのが、戦後一貫して憲法と民主主義の番外地として機能しつづけた、日本型共同体主義的企業だったのである。
 この日本型共同体主義的企業こそが、学校で民主主義的な教育を受けた若者たちを、天皇制的に再教育する場だったのである。敗戦後の日本において、学校こそが民主主義の発信基地であった。敗戦直後の日本では、家族の中にも、地域や職場にも民主主義は存在していなかった。民主主義は、学校で学ぶしかなかったのだ。そして、それを支えたのが「教育基本法」であった。
 しかし、九〇年代以後、日本型共同体主義的企業が、国内から消えてしまった。天皇制的再教育の場が無くなったのだ。だからこそ、企業のトップを校長にすえるなどして、学校を、かつての日本型共同体主義的企業と同じ役割をする組織に、一気にそして全面的に改変しようとする攻撃がかかっているのだ。


 ふ〜む…空想の冒険家というか…正直僕は、このような種類の想像力豊かな方が、いわゆる知識人階級とされる職に就いていれることが不思議でならない ^^;) いや、学者とはこうしたものか…

 その点、僕が見た中では、次のものは最も論理的だと思う。

改めて教育基本法の「改悪」に反対します(教育と文化を世界に開く会)
 日本社会や学校教育の現状に様々の問題や課題があることは事実です。しかし、その多くは教育基本法を変えることによって解決・改善・克服できるような性質のものではありません。

 教育根本法といわれる教育の基本を定めた法律の「改正」を答申するにしては、あまりにお粗末かつ不適正な審議に終始したことです。

 教育とは、一人ひとりの人間の自己形成を促進し支援する営みであり、国家が特定の人間像を押し付け、その形成を図るといったものであってはなりません。

 「改正」案は、子どもの心や家庭への国家の過剰な介入を促進・容認するものだということです。同答申は、教育基本法に、「感性」「『公共』の精神、道徳心、自立心の涵養」「日本の伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」などを教育の理念として盛り込み、「家庭の責任、家庭教育の役割」を明記すべきだと提案しています。しかし、それは、子どもの心や家庭問題に国家が土足で踏み込み、私生活への過剰な介入を容認・促進しようとするものです。それは、法が関与できる範囲、法が規定すべき範囲をはるかに超えています。


 もちろん反論したい点は多々あるものの、しかしこうした意見については、議論の相手とすることはできるのだろうと思う。


 「郷土と国を愛する心」が、今さら軍国主義や全体主義に結びつくとは僕には思えないが(自衛隊では文字通り「愛国心」という言葉で徹底的に教育が行われているが、世間一般の標準にくらべても、軍国主義的精神の萌芽は全く気配がない)、しかし、もし僕が与党議員なら、かくも紛糾するのであれば、この項目については取り下げてもかまわない。
 なぜなら、いま世間で問題意識が持たれているのは、国を愛する心の多寡というよりは、公共心という次元のものではないかと思うからだ。極論すれば、日本を愛していない、あるいは大切にしていないことによる弊害は、幸い今のところそう多くは思いつかない。(国家公務員については、別途教育すればよい)
 おそらくはそれよりも、より身近なレベルでの公徳心であるとか公共性とかいうものが目下の問題意識の対象と思える。そういうことを織り込めば、さしあたり十分意図は達せられるとも思う。(もっとも、公共心としても反対する意見の存在は上記引用にも明らかだが)


 愛国心以外の、公共心も含め道徳的な事項やその他の点に対する反対意見、こうした意見を聞きながら僕が常々思うことのひとつは、教育とは社会の後継者を育成するものではないのか、ということである。
 道徳事項についても、子どもへの押しつけと見る向きがあり、良心、思想の自由の侵害だとまで言う向きがあり、「せっかくの子どもの自由な心が」という言葉も見かけたが…ものごとの善悪判断というものは、当然その時代、その集団の価値観の規制を受けるものであり、それを教えず生まれたままの「自由な心」なるものに任せ置くのが、本当に社会に有益なのだろうか。

 ある社会では裸で暮らすのが常態であり、ある社会では服を着て歩くのが求められるべき規範である。もちろん僕らの社会は今現在後者だ。^^) まあこれは極論にせよ、しかしこれは子どもにそのように躾けることであって、この時点で子どもは既に「自由な心」にタガをはめられる。しかしそのタガは、その社会の構成員を育てる上で必要なタガだ。その社会はそういう社会でいようと考えているのだから。

 善悪や価値判断についても、時代や集団によって異なるものを持っているだろうが、教育とは、その集団を形成する次代を育成するために、その集団が保有する善悪観念や価値観を教えるものだろう。それを洗脳とまで言う論者もいるが、そうした教育(彼らに言わせれば洗脳)を一切子どもに行わないとすれば、あの、狼に育てられた少女のようになれば理想だとでも言うのだろうか。

 教育基本法を守ろう!千葉県実行委員会の呼びかけ人とやらの一人、木村研氏は、このように述べている。
 「愛国心って、国家を愛することでしょうね。ということは、「心」の問題ですよね。それなら愛国心を持たせるのではなく、愛してもらえるような国にするということでしょう。国政に携わる人よ、もっと真面目にやれってことではないでしょうか?子どもはその監視役でいいと思います。」

 ついに、大人が子どもの監視役を放棄し、かつは倫理体系の最上位に、生まれたままの自由な心の子どもを置く、ということだろうか。--;)

 同じく市川まり子氏は、「社会の要請に応えるための教育ではなく、子ども自身のための教育を」と述べている。

 むぅ…言わんとする気持ちは何となくわかる気もするが、社会の要請に応えない教育とは、また思い切った発言だなあ…と感じ入ってしまう。

 あるいは、僕の言うのは極論であって、子どもに躾や道徳教育をしないわけではなく、その内容について、国家が口出しする必要はない、という意見もあるだろう。
 もちろん、各家庭の方針や学校の方針はさまざまにあるだろうし、それを否定するわけではなく、根本的な社会の共通了解事項というものが方針としてあってよいのではないかなと僕は思う。なにもそれを「介入」だとか「口出し」だとか喧嘩腰にならなくても。
 ものごとの善悪の考え方や軽重判断も個々人にさまざまな感覚があるだろうが、刑法が一律に定められていることを、国家の介入だとか口出しだとかは言わないだろうに。あれは、普遍的な真理でも何でもなく、単に今の時代のこの国の国民が国民生活のために共通で設定してあるルールだ。

後編につづく)


posted by Shu UETA at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-教育・科学・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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