先日とある本を見ていると、新鮮な驚きがあった。
(「数学における発明の心理」/J・アダマール)
人が何かを考えているとき、その考える道具が人それぞれに違うということ。
考える道具、といってもわかりにくいけど、
つまりは、何を媒体に考えているか、
たとえば、イメージで考えている、言葉で考えている、など。
その本の作者も同じ驚きだったそうだけど、
僕も、思索するときに言葉で考えている人がいるとは、かんがえたこともなかった。
逆に、その著者の知人の学者のひとりは、
言葉を使わずに人間が何か考えることなど不可能だ、と
そう言っているそうだ。
(その人は心理学者としてそう述べている。)
つまり、(著者も指摘しているんだけど)
他人の頭の中は自分とは全く違う、そういうことがある。
ひとの頭の中が自分と違う、というだけならあたりまえだけど、
その機能するシステムが違うとなれば、ちょっと新鮮。
で、この数日来、そのことを考えてる。
で、いろんな人にたずねてみてる。
テレビやコミックとかで、誰かの心の中のセリフがあるとき、
あれは、観てる人にわかるようにするための便宜的なものだと思ってたけど、
本当に、ああいうふうに、
自分の頭の中で一人で言葉を出して考えているひともいる。
それがけっこう衝撃的だった。
僕は独り言なんて言うことがないんだけど、
ひょっとすると、
独り言というのも、もとから言葉で考えているひとの特性なのか、とも思ったり。
で、何人かの人と話してみると、
僕らの側からは(先のテレビとかの例もあることで)
言葉で考えるということは、想像はつくし、やってみることもできる。
普通なら誰かに話したり、何か書く段になって行う変換処理を、一人で頭の中でやり続けるだけだ。
一方で、
言葉で考える人の側からは、言葉を使わずに考えるということが想像し難いみたいだ。
それって、絵文字みたいなもので考えてるってことですか?
ときかれたけど、
む〜ん、ちょっとそうではない。
この、「ちょっと違う」という概念からして、そういう言葉じゃなくて、そういうイメージというか、イメージの位置関係が頭の中にあるんだよなあ。
たとえば、そろそろ風呂入るかな、というとき
そういうセリフは出てくるわけじゃなく、
ただ、風呂のイメージと今やってることのイメージとか、その後の予定のイメージとかが、ざっと頭に浮かんでる。
僕の場合は、風呂については、記号とか絵文字のようなものはなく、風呂の映像的なイメージと体感がともなってる。
そこにいる人にそう言うときや、
twitterにポストでもするときに、言葉になおす。
特定の難しい考え事をするときや、
論文書くときとかは、
そのテーマ限定の、絵文字のようなかなり記号化されたものを使ってることもあるし、
抽象的な概念については、
単に色と形と質感のものを使ってることが多いような気がする。
それでも普通に映像も多い。
ここ最近始まったメールマガジンの担当記事で、
例えば「指揮とは何か?」
というものを書くとすると、
まず、「指揮」のイメージがあって、
(あくまで個人的なものだけど)
かなり真っ白な真四角の薄いつるつるのものに、黒でシンプルな線がいくつか、図形をつくってる。
で、それを思い浮かべると、まわりにもいろいろ画像や映像や、いろんな形のものがあって、
それぞれフォーカスというか拡大すると、指揮に関係するいろんなイメージがそこにある。
白い四角を大きくして、
そこに過去の体験や、過去に考えたことを、たくさん一気に乗せれる。
映像も、同時に全部再生されてる感じで、しかも、その場の体感や感情もいっしょに伴ってるのも多い。
そういうのを眺めたりフォーカスして味わったりしつつ、
いるものだけ大きくしたり、並べかえたり、つないだりしていく。
実際に書くときには、それらを言葉で説明していく感じ。
書く順番に構成までイメージでできてるときもあれば、
頭の中のイメージは順番になってなくて、書くのにあわせて順番も決めないといけないときもある。
このblogで時々のせてる「words」というものも、
言葉にするときに、頭の中のイメージを描写する感じだし、
日々つぶやいてるtwitterの投稿も、
キーを叩くときに言葉を選んであてはめてる。
つぶやかなければ、わざわざ言葉になってない。
これは人と会話してるときでもそうで、
先にイメージがあって、それを言葉に変換して話してる。
ちょっとうまく言えないけど。
うまく言えないといえば、
僕は、しゃべってていつも、その変換タイムラグが自分で気になってるんだけども、
(たぶん実際に僕と話したことある人はわかると思う。)
今思えば、
立板に水といった感じにいかないのは、そもそも話す前から言葉で考えていないからなんだなと。
これは些か不便な点みたいだ。
で、他方、
その変換が必要な分、文字通りそこで言葉を選ぶので、
言葉の選択ということが、かなり意識的にされるということにはなってる気がする。
そう気づくと、
人を見てても、ああ、この人は僕と同じかもな、ということが言葉をきいたり文を見て感じることもある。
今日電話で話した人にもきいてみたんだけど、
その人は思ったとおり、イメージで考えて言葉になおしてる派だった。
さて、ちなみに
言葉で考える人でも、さらに、
音声的に言葉で考える人と、
なんと文字というか活字で考える人がいるそうだ。
後者はちょっと驚きだが、
でも、音声で考えるよりは、スピードをいくらでも速くできるような気がする。
そうそれ、人にもきいてみてるんだけど、
音声で考えてる人は、考えるのが遅くならないのか、気になる。
でも、それはそれで対応できるうまいやり方がちゃんとあるんだろうな。
また、同時並行的にパラレルに考えにくいんじゃないかなというのも気になってる。
それはどうしてるんだろうな。
本の著者アダマールは、
言語で思考すると、言葉それぞれが持つ語彙の枠内に囚われてしまうのではないか、ということを危惧してる。
それは一理あるかもしれない。
そういう意味では、あとから言葉を充てるほうが、考えてる段階での自由度は高い。
先の、活字で考えるといえば、
ひょっとすると思考傾向の違いは、本を見てるときの頭の中の様子にも関係あるかもしれないと思った。
むかしから僕は、本を見ながら鼻歌を歌ったり、かかってる音楽に合わせて歌ったりしてるときに、
そんなんで本読めてるのか、と 彼女なんかから笑われたりすることが多かった。
なんで? 関係ないじゃん、と思ってたけど、
もし本を見ながら頭の中で言葉、音声の言葉で考えてるタイプの人であれば、なるほどそういう疑問はもっともかもしれない。
僕のタイプだと、本を見てても、音声回路は作動してなくて手空きなので、そこで歌ってても問題ない。
本を見てるときも、だーっと、イメージや映像、画像、体感が流れてて、意味はそういう形でインプットされてると思う。
歌といえば、実際いろんな人がいて、
イメージどころか、音で考えてる人もいるそうだ。
ともあれ、
同じ人間なのに、人それぞれ、頭の中の様子、仕組みが違うというのは本当に面白いと思う。
そういうところでも、いわゆるダイバーシティは、これまでもいつも、知らず知らず、いろんな組織の中で発揮されてるんだろうな。
そこが大事なんだろうな、きっと。
件の本の著者は、実際に何十人もの学者仲間たち(数学者だけでなく各界の)に、アンケート表を送って調査をしたみたいだ。
その詳細結果が本に載ってなかったのが残念だけど、そういうの調べてみたら面白そうだ。僕も身の回りでは会う人会う人に聞いてみようと思ってるんだけど。
アインシュタインだけ、アンケートの回答書が掲載してあった。
彼の場合、こういうふうらしい。
(A)書かれたり話されたりする言語や言葉が私の思考の仕組みのなかで何らかの役割を演じているとは思われません。思考のなかで要素として働いているように思われる精神的実体は、「思いどおりに」再現できて組み合わすことのできるある種の記号と多少とも明白な心像であります。
もちろん、それらの要素とそれに対応する論理的概念との間にはある種の関連があります。最終的には論理的にまとまった概念に到達したいという欲求が、上述の要素を用いたどちらかといえば漠然とした働きの情緒的基礎になっていることは明らかであります。しかし心理学的見地からすれば、この組み合わせの働きが創造的思考の特徴のように思われます---それは他人に伝えることのできる言語や他の種類の記号による論理的構成にかかわる以前のものです。
(B)上述の要素は、私の場合、視覚型およびある種の筋肉型であります。先に述べた結合の働きが十分進んで、意のままに再現できるようになった第二の段階になって初めて、通常の言語や他の記号を苦心しながら探し出す必要が出てきます。
ここで気になるのは、彼のイメージが視覚型だけではなく、「ある種の筋肉型」とあること。
筋肉型というのは、どういうものなんだろう。
【関連する記事】
例えば、このエントリーを読みながら、頭の中で、「へー、そうなんだ」とか言いながら読んでいます(そのときはイメージは多分無い、いや活字のイメージがあるかなぁ)
もちろん、イメージで考える場合も多いです。例にあげられていた風呂の場合だと、僕の場合は風呂そのもののイメージではなく風呂に入って快適な気分でいるイメージが浮かびます。ここらへんは、きっと人それぞれですね。
仕事上、プログラムの設計とか実装の場合は、断然イメージです。そのイメージを解釈して設計書にしたり、コードにしたりします。
なんとなく、大雑把に考えるときはイメージ、細かい具体的なことをつめるときは、頭の中で言葉になってるような、そんな気がします。
や、お久しぶりです ^^)
そうですね、
思うに、
イメージを使う人は、ある意味「両方使う」という感じかもしれませんね。
文中にもあったように、著者の知るある学者は、「言葉を使わない思考などあり得ない」と固く信じているらしいのですが、
実際には、
多くの人は両方を使いつつ、どちらが主流かという個々人の中での色濃さかもしれませんね。
しかし僕のまわりでも、「ぜったい言葉は使う」という人はいるので、イメージは使わない派の人はわりといるのかも。
> プログラムの設計とか実装の場合は、断然イメージです。そのイメージを解釈して設計書にしたり、コードにしたりします。
そうでしょうね〜っ
わかる気がします。
職業柄もありそうですね。
仕事でそうなる可能性だけでなく、自然に淘汰されるのもあるかも。向き不向き的に。
アスリートも、そういうとこあるかも。
面白いですね。
言葉を使わないと本当の意味で考えられない。
と書いてあるのを読み、
何かとても閉塞感を感じました。
言葉を使わないとしっかり「考えられない」と断言しているところに、嫌気というか脳の狭さを感じました。
本当にそうかな?
初めて、考える時、言葉を使っているか、
使わずにでも考えられるのではないか。
など考えました。
それ以来、考える時に「言葉を使わずにでも考えられるのではないか?」と考えるので、考えることが嫌になっています。
やっぱり、言葉は出てきやすいので、
「言葉を使っているな」
「言葉を使わずして考えることはできないのかな」
など、思っています。
そうすると、言葉に縛られているような
言葉がなければ何もできないと言っているような
そんな、悲しく、また閉鎖的な気持ちになります。
わたしは、言葉がなくても本当の意味で考えれる、と考えたくて、
考える時、それが出来るのではないか?と脳をのぞいてみます。やはり、そうすると、普段言葉を使っているので言葉が出てきます。
そこで、うんざりしてしまうのです、
やはり、言葉ありきなのかな。
言葉なしではしっかり考えられないのか、と。
考えを整理する時も、言葉が出てくるな、などその点を意識し考えるので、いまは考えを整理するのも嫌気がします。
この本を読まなければこんなこと考えずにすんだのにな、と思いほど。
こう書いてあれば、閉鎖的な嫌な気持ちにはならなかったと思うのは、
言葉を使うと考えを整理しやすい。です。
言葉がなかった時代、何も考えられなかったのか?その時代の人が言葉を生み出したのだから、言葉を使う者と同じ考えができたはすだと思う。
言葉を使わなくても、本当の意味で考えられる。のではないか。現代人は言葉を使用しているので考えると言葉が出てくるが・・・
脳はもっと利口で
複雑で
あらゆる形でモノを考えると、可能性を感じたい。
決して、
言葉を使ったときにしかしっかり考えられない。との断言に納得できない。
どう思いますか?
あと、話はそれますが、言葉と思考を調べていたら【水の道標】というコラムにいきました。
そこでは言葉なくても考えられることを考えていて読んでいたのですがそこに、こんなことが。
思考全般は、複雑で、それを説明しようとすれば、直線的にはなりようがないし、またそれゆえにとてつもなく面倒なことになる。ものを書くということは、常にそういう面倒なことなのであって、書いてるときにはうまく書けたという気が決してしないもので、時間が経って何を考えていたのか忘れると、ちょっとはまともに見える、というようなものであるように思われる。考えられていた複雑さや精妙さを忘れるからである。
と。
一番最後の文面。
何を考えていたのか忘れると、書いたものがちょっとはまともに見える。それは考えられていた複雑さや精妙さを忘れるからである。・・・
確かに、あれこれ考えていることを
複雑さ精妙さとの事だろうが、これは堂々巡りであり、(その全ては必要がないと思う。
それがあるから、ややこしくなってしまうことなのだと思う。)
書くことによって整理され
要点を掴める。と感じるしそうであるべきだと。
複雑さ、精妙さ、は必要なものは書留め、
その全ては必要がないと思う。
それがあるから、ややこしくなってしまうことなのだと思う。
考えられていた複雑さや精妙さを忘れるからである。これは、まとまりがなく、要点をつまむ前の状態、考えられるな〜。
頭でごちゃごちゃ考えてる状態、この時はしんどいし、混乱していたりする。それを複雑さ精妙さと言っていると思うが、(ここで精妙さと使うのが違うと思う)その複雑さ精妙さを忘れてしまうから、ということだが、
それは、しんどさや、複雑化であって、
ないほうが、精妙になると思う。
複雑なのは精妙ではない。
誰だって、考えられていた複雑さ精妙さと記している状態の時はあるが、
その時はとりとめもない、という表現が近いのではないかと。
その状態は複雑さはまだしも
精妙さとは言わないと思う。
こんがらがっているから忘れるのだろう。
混乱していなければ
ややこしくても複雑でも
精妙なことは記せる。と思う。
言語化されない思考はある。そして、そうしたものも含めた私の思考全般は、複雑で、それを説明しようとすれば、直線的にはなりようがないし、またそれゆえにとてつもなく面倒なことになるということだ。実のところ、ものを書くということは、常にそういう面倒なことなのであって、書いてるときにはうまく書けたという気が決してしないもので、時間が経って何を考えていたのか忘れると、ちょっとはまともに見える、というようなものであるように思われる。考えられていた複雑さや精妙さを忘れるからである。もちろん、時間が経ってもダメなままのものも多いけれど。
これについて。例えばスポーツの技術や声楽の歌い方など感覚的なものを言語化して表現するのは大変難しいと分かる。だが、それでも何なりと表現し理解につながる。あとは、体得となるが、それを教え伝えるのに何なりと言語化したり、図を描いたりして伝えられる。その図もなんとか言語化に置き変えられると思う。以上の文面のような(直線的にはなりようがないし、ということ)それを、同じものではないので形を変えるということ、言語に置き換え表現することで伝えるのである。それが出来ない、のではなく同じものでないだけで、置き換えて伝えることは出来るのではないか。写真の内容を言葉で伝える。この例えが分かりやすいと思う。言葉で伝えるのであるから写真のコピーでこのまま伝えるのとは違う、だから出来ない、ではなく、それを言語化するのである。出来るだけ言語に置き換え伝える。伝わるものがある。だから、表現できない、直線的にはなりようがない、と言う、表現するのはネガティブ過ぎて辛くなる。
また、複雑でモヤモヤした考え、思い、気分は、うまく表現できないと思うことがあるが、諦めず伝えたいから考える。そして、文になったり言葉にして、聞いてもらえるようにしたりわかりやすくして解決する。複雑さやモヤモヤが消える。それは、整理されて複雑さが消えたからで、「複雑さを忘れた。」のではないと思う。
考えていることは複雑で表現できないと言っているように思う、また、表現できたと思う時は複雑なことなどの表現しにくいことを忘れているからだ、と言っているように思うが、言葉を組み合わせ色んな角度から表現して語源化しその思いを伝えることは出来ると思う。
また、考えを忘れたら、うまく書けたように思える、ということは、その文面で伝えられているからで、その内容がなければ何か違うと思うであう。そこで何も思わないのであれば必要のない諸々なのだと感じる。
ここで、始めの悩みに戻る。「人間は言葉を使ったときだけほんとの意味で考えることができる。」白鳥著書の文面である。あの断言がとても納得出来なかった。言葉に頼らなくても考えることは出来るのでは、と考え出したのはそれからである。ここにきて、モヤモヤや混乱して分からないことを言葉に置き換えたり文にするとわかりやすくスッキリする。ということがあるので、言葉がなくて考えを整理できるのか、理解が出来るのか、と思いながら、しかし言葉に頼らなくても人間は考えられるのではないかという気持ちと(言葉がないと考えられないという断言に対する疑問)、言葉がない時代があった、その時代に言葉が生まれ考えは機能していた、ということで・・・。どうなのでしょうね。