2006年04月30日

敏感と鈍感


 今日も今のところ(15:30)野村監督率いる楽天はわがロッテ相手に苦戦しているが、さすが、老練百戦錬磨の野村監督にもチームを即座に強くするなんてことは難しいだろう。(もっとも、僕は野村氏のスタイルというものが徐々に今日の野球及び選手にマッチしにくくなっているのではないかという気もしつつあるが…それは今日の話題ではない)

 さてその野村監督は、優れた選手の条件として、あるいはそうした選手を育成するにあたって、「感じやすさ」ということを常々重視している人だ。
 氏が育てたと言ってさしつかえないだろうヤクルトの古田についても、著書で次のように語っている。

  「気づき」---へんな言葉だが、他の人が気づかないことに気づく能力は、どんな商売の人間にとっても強力な武器になる。
 古田は誰に言われたわけでもないのに、「あっ、へんな投げ方をした」とか「バットをいつもより短く持ってる」とか「引っぱりにきてる」などと呟いている。
 私に言わせると、古田は感じまくっているのである。
 私は「感じる人間が勝ちを制する」とまで思っている。感じないことは罪であり、鈍感は人間最大の悪だとも思う。



 これはあらゆる戦いの場において、あるいはおよそあらゆる仕事や活動において、僕も同感であるし、それは指揮官であれ個人のレベルであれ同様だろう。古今東西に名将といわれた人物に、そうした鋭敏さ、感じやすさを持たない人物はいないだろう。
 また、勝負などということ、あるいは仕事なんてことを持ち出さなくとも、日々の生活において、そうした感じやすさがどれだけ人生を楽しいものにするかということについても僕はしばしば感じ考えずにはいられない。

 一方で、僕は、戦いとか勝負ということにはある種の鈍感さが必要だと思う。
 これは矛盾するようだが、そうではない。
 内面的な繊細さ、敏感さと、行動における鈍感とも見えるような図太さだ。
 つまり、正確に言えば鈍感さではなく図太さだろうというべきかもしれないが、しかし、敢えて鈍感になる回路をもっていなければ、神経をすり減らすような場面でそうそう簡単に図太くなんてなれるものではない。

 そうしたことを明確に言語化していた人物の一人に、秋山好古がいる。



 言うまでもなく、秋山好古といえば日清・日露で活躍した騎兵指揮官であり、日本陸軍騎兵の父である。

 戦場での指揮官は鋭敏でありすぎてはならない。
 鋭敏すぎる反応はかえって事をあやまる。
 勝敗を左右する場面においては、敢えてわざと鈍感になれる者でなければ失敗する。


 そう彼は言う。

 ここに彼が正確に表現しているように、問題は、鋭敏過ぎることではなく、鋭敏過ぎる「反応」なのだ。

 悲観的に準備し楽観的に実行せよ、とは危機管理においてもいわれることだが、一定の方針を決心して臨んだ上は、些細な事にピリピリと過剰に反応するのではなく、大なたを使っているつもりにならなくてはならない。
 敵(相手)のさまざまな行為に過剰に反応することは、意図せずして自ら受動の立場に陥りがちであるし、心理戦、神経戦的な場面では敵のブラフに引っかかることも、敵を過大評価することにもなりがちだ。また統御においては、部隊を浮き足立たせることにもなりやすく、士気にも影響を与える。

 目的を明確に意識し続けながら、ある程度の愚直さをもって構え、細々とした状況にいちいち過敏に反応するのではなく、真の戦機と見るや、そこで俊敏苛烈に動くということでなくてはならない。
 こちらのそうした無反応的な姿勢は、相手を疑心暗鬼にもさせる。

 そうした真に動く(反応する)べき機を見出し、そこで果敢に反応するためには、実はその間中常に、鋭敏さを保っていなくてはならない。センサーはフル稼働させていなければならない。

 きわめて感度の高い鋭敏さ、感じやすさを持っていながら、あえて鈍感に徹することができること、これは名将の素質のひとつではないだろうかと思う。

 優れて鋭敏なだけでは二流、もしくは一流の参謀、幕僚までだ。(一般に、賢い人が臆病であるのがこの例だ)
 真に鈍感なだけでは、参謀幕僚は務まらぬし、指揮官としても二線級だ。(猪武者というものは組織にとって必要だが、類型すればこちらになるだろう)

 たとえば勇気であっても、単なるもの知らずの行動力と、あらゆる危険性可能性を知ったうえで敢えて断行される行動力とでは、発揮されている勇気の質が全く異なる。

 あるいは、
 戦いにおいては「機と間」ということがきわめて重要だが、
 原則的に「機」とは自分のコントロール外であって、それは敵がつくるものであり、あるいは環境がつくるものだ。その「機」を待ち構えること、「機」を見逃さない態勢、「機」に投じる準備の万全、それが「間」というもので、これは自分のコントロール内にある。(もちろん、敵がそうした「機」を生むように働きかけることはできるし、そうすべきであるが、それでも、それによって実際に相手がどう行動するかは相手の内にある)
 この「機」を待つ「間」というところ、「機」を逃さずそこに投じていくための「間」というところに、戦いの真髄があると僕は思っているが、戦いに限らず、およそ真の「行動」というものの大部分は待機と「間」にこそあるのであって、優れた行動家とは優れた待機者でもある。
 (この辺りのことは、ひとつスポーツ観戦してもわかることだろうと思う)

 鋭敏にものごとを察知し続けながら、あえて鈍感となれるメンタリティ、それは織田信長にでも徳川家康にでもカエサルにでもフリードリッヒ大王にでもナポレオンにでも見られる特質だ。
 あるいはそんな綺羅星のごとき人物を想起しなくとも、こうしたことは、ちょっと身の回りの上司たちを思い浮かべてみても誰しもそれぞれに何か思い当たるところがあるだろう。

 さて、そしてこうしたメンタリティというものは、上述してきたような、戦闘であるとか仕事における勝負の場でなくとも、もっと人生全般についてもいえることだろうと僕は思う。

 たとえば、それは自分の夢なり願望を追う日々の中でも人生に対する姿勢として重要なことではないだろうか。
 不遇の時における態度、不運への対し方、それはしばしば、人生と自分との神経戦の様相を呈する。
 賢すぎる人は、簡単に勝負を降りてしまいがちだ。
 だが賢さがなければ、正しい時と正しい道を見きわめることができない。ただのマゾにも偏屈者にも近づく。
 あるいは恋愛においてだって、同じだと僕は思ってる。

 勝海舟は、人生の波の上がり下がりを相場のようなものだと言い、下がっているときにはじっとしゃがんでいるに限ると言っているが、じっとしゃがんでいるという「鈍さ」が多くの人には難しいものだ。

 また、単に一人の人間としても、
 人付き合いであれ、部下や子供に対してであれ、彼女に対してであれ、
 彼ら彼女らのことをよく見て、よく聞いて、よく知りよく見守っていても、いちいち細かなことで、つべこべ言わない、知っているけど知らないふうなのが良い男ってものだろう、なんてふうにも思う。^^)

 と、偉そうなことを書いてきたが、僕はこうしたことを半分は恋愛で学んだような気がする。
 あははは ^^;)
 女性、とくに、好きな女というものは、人生そのもののメタファーであったり、自分にとっての天下そのもののメタファーであったりするものだ。これは僕の持論。
posted by Shu UETA at 15:36| Comment(4) | TrackBack(0) | 戦略戦術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>一定の方針を決心して臨んだ上は、些細な事にピリピリと
>過剰に反応するのではなく、大なたを使っているつもりに
>ならなくてはならない。

大いに同意します。最近、相場に興味を持っているのですが、勝海舟の例にもあるように、勝つためには買わないこと、だと思っています。ここだと思ったときに買って売る、それ以外は傍観するという意味です。毎時間、あるいは毎日価格の変動を気にして売ったり買ったりしていれば、労多くして実り少なし(どころか負ける)というケースが非常に多いのです。相場に手を出すときは、勇気を持って手を出さない、というある意味矛盾した気持ちでやらないと失敗します。

また、これは、優秀な組織を作る場合にもあてあはまりますね。

ちょっと唐突な話題ふりかもしれませんが、ピラミッド型の組織であれば、上部に行けば行くほど、ほぼ自動的に大局的な判断に必要な情報に集約されます。語弊はありますが、さほど優秀でない人間が上部にいたとしても、少なくともノイズに左右されるような判断はできなくなります。

この組織の問題の一つは、トレンドの転換(Shuさんはおおなたをふるう機会とかかれております)を判断する情報が、適切に下部より提供されるかどうか、です。一般的にはここが非常に難しくて、大抵の場合は、上部つまり指揮官の資質に左右されるてしまいます。この問題が解決できれば、優秀な人材が十分にいない場合でも、あるいは指揮官に不測の事態がおこったとしても、リカバリー可能な頑強な組織ができると考えています。

なんて、組織論はShuさんの方が研究なされてますよね(^^; 長文失礼しました。


Posted by toybox at 2006年05月02日 14:06
> toyboxさん

 いやいやいや…ホント、難しいテーマですよね、toyboxさんの言っておられるお話というのは。
 (という前に、せっかくのコメントに反応が遅れてしまい、申し訳ないですっ)

 指揮官の資質に左右されない、システムとしての強靱さ(意思決定能力)というものは、たとえばとりわけ軍隊のような組織では永年追求されているところで、それなりにさまざまな知見も得られているところではありますが、、、難しいですよね。

 一方で、そうした軍隊のようなものの場合は、そうして工夫されたシステム、組織というものも、ダメな指揮官以上にはなり得ても、真に「資質に優れた指揮官」以上の力を発揮するのは難しく、であれば、そうした強靱なシステム整備の主眼のひとつは、有事において「資質に優れた指揮官」を配置し得る「体制」というところにもあるのかもしれません。
 (伝統的に米軍はこの点に長けているような気がします。)

 もっとも、それは有事における、しかも戦略級の指揮官の話であって、平時における意思決定や、有事においても戦術指揮官以下のレベルにおいては、やはり組織としての整備のあり方が大きくものを言うはずだと思いますが。

 せっかくなので、最近僕が興味を持っていることですが、
 まさにそうした「組織としての」判断力等の適切さを求めてきた結果、個人の能力、術といった領域が排除されつつあるのではないか、そうした傾向は各界で急速に広がっているのではないか、
 そうしたことを指摘している人がいました。
 (ウィルス学者の清水宣明氏、「斎の舞へ」等の著作で。)

 それはひとことで言ってしまえば「マニュアル化」ということになるのですが、この「マニュアル化」というのは本来はもちろん悪い意味での用語としてではなくて、組織が個人の資質に頼ることなく、組織として一定以上のクオリティを保障するために整備されているものであるわけですが、
 そこでは、「できる人にしかできない」ことは切り捨てられ(当然そうせざるを得ないはずですよね)、それを「できる人」の「術」というものはマニュアルの対象外であって、
 そうした整備が進んだ結果、今度はそうした「術」の実施自体がマニュアルに外れた行為として否定されることになる(それを為し得る人物による行為であったとしても)、さらには、そうした環境においては、新たに「術」が身につけられていくこともなくなっていく、と。
 これは清水氏に身近な医療の現場において、現にそうであると氏は語っていました。
 つまり、ドラマ等で視聴者を楽しませるような「天才外科医」のようなものは否定されねばならないという、組織としてのあり方が進んでいる、と。
 医療過誤裁判などで負けないための、手続きの正当と、平均点以上の治療を保障することが第一であり、平均点をはるかに超えるような医療ができなくとも、それは問題ではない、と。

 ちなみにこうしたことは、上記のように書くと強く非難しているような論調になってしまいますが、しかしそもそもは、誰がやっても「最悪のことはやらない」ことを保障するため、あるいは誰がやっても「平均以上のことはできる」ようにするための組織的努力の方向性であったわけで、その目的そのものを否定することはできないと思います。(まして医療などではっ!)

 要はその行き過ぎであるとか、目的意識の喪失であるとか、あるいはバランス感であるとか、そういったことになるのでしょうが、、、これも難しい問題でしょうね。

 toyboxさん相手の話だから、というわけではありませんが、これって、「教育」においてもちょっと示唆的な話ですよね。

 前掲の著書の紹介記事としてか、あるいは別の形でも、ちょっとこれで記事も書いてみたいなとは思っているのですが。
Posted by Shu at 2006年05月07日 20:47
> それはひとことで言ってしまえば「マニュアル化」ということになるのですが、…

たしかにそうですね。
どちらに偏っても弊害があるので、結局、

> 要はその行き過ぎであるとか、目的意識の喪失であるとか、
> あるいはバランス感であるとか、そういったことになるのでしょうが

ということなんですよね。ほんと難しいです。

教育の話になったので、ちょっとだけ。

優秀なリーダの教育と全体の底上げは、本来、別々に議論されても良いというか、なされて良いと思うのですが、一部企業でしかおこなわれていないようです。公教育にいたっては、一部に対してエリート教育なんぞしようものなら、非難囂々でしょう。

社員の教育を次期リーダ候補等目的別にしっかり行っているところは強い企業が多いように思います。公教育でも同じだと思うのですが。

大体教える方もマニュアル読んどけ、教科書読んどけでは、張り合いがなくなりますよね。

#公教育はできるだけ公平であるべき、ということは重々承知なのですが、
#最近の全体の底下げ教育はあまりにも行き過ぎでです。

> 「教育」においてもちょっと示唆的な話ですよね。
> 前掲の著書の紹介記事としてか、あるいは別の形でも、ちょっとこれで
> 記事も書いてみたいなとは思っているのですが

を、楽しみにしています:-)


Posted by toybox at 2006年05月08日 15:22
> toyboxさん

> 優秀なリーダの教育と全体の底上げは、本来、別々に議論されても良い

 そうですよね。
 最近は数年来そうした多くの声が上がっているように思うのですが、しかしそれが公論となるにはまだまだのようですね。

 ところで、今度は教育から逆に、前コメントで例話に引いたような例えば医療の現場などにおいても、優れた技術と全体の最低レベルの底上げということは、ある程度別枠で取り扱うべきなのかもしれませんね。

 僕が部隊にいたころ、米軍のある将校が書いた論文で、名将は教育で生むことはできない天賦のものであって、教育は並以上の将校を育てることに集中し、一方で名将が活躍できる環境整備をまったく別枠で考えるべきだというものを読んだことがありますが、米軍でも随分非難にあったていたように記憶しています。
Posted by Shu at 2006年05月08日 21:08
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。